3-1 「叙述トリック」の問題領域――本稿の枠組みと限界
先に私は、本稿のアプローチについて、「主に物語論の概念を用いて『叙述トリック』という技術の特性を明らかにする」と述べました。したがってこれから「物語論の概念」について紹介していくわけですが、その前に弁明しておかなくてはならないことがあります。つまり、本稿がとる枠組みと、その限界です。
序章のほうで「作中現実とは何か」というようなことを述べました。これは真面目に考えればフィクション論だとか、分析哲学からのアプローチとも深い関わりを持ちえます。また映画やゲームにも「叙述トリック」は存在する、などともいいました。するとナラトロジーと映画理論、あるいはルドロジーとの接点、というような比較ジャンル的な検討の必要も当然、考えられます。私の感覚としては、「叙述トリック」という語の問題領域にはそれくらい多様なアプローチの交差しうるポテンシャルがあると睨んでいるのですが、本稿ではそれら関連分野への注意深い目配りについてはとりあえず踏み込まず適当なところで抛棄し、大雑把に「小説における叙述トリックと物語論」の一点に関心を絞ります。
またひとくちに「物語論」といっても、ロシア・フォルマリズムなどのロシア系、ジェイムズ~ラボック~ブースなどの英米系、ジュネットその他のフランス系、シュタンツェルなどのドイツ系……と複数の流れ(議論と思想的背景)があり、微妙に重なったりすれ違ったりしているので、それらを正確に把握し整理しようとするだけでも、私の手には余ります。また物語論関連の邦訳状況についていえば、Mieke BalやJan Albersなどの紹介も案外スポッと抜けてきています。つまり日本語だけで考えてしまうとどうしても虫食い状態になるわけで、海外の最新動向についてきちっとフォローしようとすればそれはそれで私の能力を超えてしまいます(そのあたりに興味がある方は取り急ぎ、橋本陽介『ナラトロジー入門』二〇一四や『物語論 基礎と応用』二〇一七、またジェラルド・プリンス『物語論辞典』などを御覧ください)。
どうしてこのような言い訳をクダクダと書いているのかというと、「大きな整理は終わった」とか「一時期に比べ活気がなくなった」などといわれることもある物語論にも、論点によってはいまだ深い立場の違いがあり、それはたとえれば古代史における邪馬台国=近畿説/九州説にも相当するような、素人の思いつき程度では解消困難な厄介な立場の違い――などと雑な比喩を使えば双方に詳しい方から「お前は何もわかっていない」とお叱りを受けるかもしれませんが――があるので、「私はここでは九州説に立ちます」くらいの思い切った表明をまず先にしておいて、あとはミステリの話をサクサク進めてしまおう、という下心があるからです。
さて、いちおう言い訳をしておきました。この章では以下、「叙述トリック」というテーマの理解に際し、これまで述べてきたような「一人称」「三人称」の側面からのアプローチに役立つと思われる三つの古典的著作、すなわちウェイン・C・ブース『フィクションの修辞学』、ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』、シーモア・チャトマン『小説と映画の修辞学』を主に紹介することにします(用語が急にたくさん出てくるので、もしこの分野にまったく不案内で「なんか読んでてわかりにくい」と感じられた方は、次の第4章まで飛ばしていただいてもかまいません)。
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