2-8 「叙述トリック試論」と物語論の邦訳状況

 この「物語論からのアプローチ」というのは我孫子「叙述トリック試論」を読んだ際に思いついたことでした。

 我孫子は「試論」で、次のように書いています。


【筆者自身は、難しいことなど何も考えずに小説を読んできたので、人に指摘されるまで、「一人称って何だ?」などとは考えもしなかった。しかし、考えてみれば変である。「わたし」は、一体誰に向かってくだくだと説明しているのか?

 手記、手紙、といった形を取っているものについては、何も問題はない。でもそうではない一人称小説の方がおそらく大半をしめるだろう。というよりも、そういったものの方こそ「真の」一人称、と呼べるような気がする。手記や手紙の形なら、三人称小説の中のアイテムであるそれらだけを抽出したもの、と考えることもできるからである(〔我孫子注〕こういった事柄については詳しく研究している方がいるのだと思うが、筆者は不勉強にしてまったく知らない。読者のご教示をたまわりたい)。

 この、よくよく考えるとわけが分からなくなる一人称小説において、果たしてその「わたし」が、正体不明の読者に対して、隠し事などをしてもよいものなのだろうか。

 一人称であっても三人称であっても、心理をまったく書かない、という手法は存在する。その行動だけを忠実に記述し、最終的に一人称犯人が明らかになるのだとしたら問題はない(よね?)。しかし一人称犯人にもっていくためには、どうしてもその行動の一部を伏せざるを得ないのが普通である(〔我孫子注〕物語以前に犯行が完了していれば、不可能ではない)。

 また、通常は心理を記述しながらも、重要なポイントではダブルミーニングによって読者を欺いたり、完全に伏せたりするのもよくあるテクニックである。なぜ「わたし」はそんなことをするのか? そんなことをしてもいいのか?

 ――というのが、反対派の意見でもあり、叙述トリックを使用する上で難しいポイントでもあると思われる。

 そしてことは一人称の小説にかぎらず、「作者が読者をだますのは変だ」という意見にもつながっていく。筆者の定義した叙述トリックの全否定である。こういった意見の人々を説得することは非常に難しい――というか不可能である。

 作者が物語の背後にいて、その手が透けて見えることを嫌う人達にとっては、小説という一個の世界の外側を見せられるのは耐えられないことなのだ。

 彼らは叙述トリックが持つ、そのメタ・テキスト性が嫌なのであろう。手記や手紙の中でそれを行うぶんには、始めからそれらはメタ・テキストなので一向に気にしない。しかし自分の読んでいる小説そのもののレベルを一段下げられるのは嫌なのだ。】


〈こういった事柄については詳しく研究している方がいるのだと思う〉とありますが、この時、叙述トリックとは何かを説明するのは、実は〈詳しく研究している方〉でも難しかったはずです。というのは、物語論の大きな整理はだいたい一九八〇年代後半~九〇年代初頭までに完了したと見られており、重要な文献の邦訳のいくつかが出たのは、「叙述トリック試論」以降でした。ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』(一九七二)の邦訳(一九八五)やフランツ・シュタンツェル『物語の構造』(一九七九改訂)の邦訳(一九八九)こそ出ていましたが、ウェイン・C・ブース『フィクションの修辞学』(一九六一)の邦訳は一九九一年、さらにシーモア・チャトマン『ストーリーとディスコース』(一九七八)は二〇二一年、『小説と映画の修辞学』(一九九〇)は一九九八年邦訳、マリー・ロール=ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』(一九九一)は二〇〇六年邦訳、物語論ではありませんがこの分野に大きな影響を与えることになるケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』(一九九〇)は二〇一六年邦訳で、この間の誤解や混乱は(ジュネット自身、自分の整理を誤解していたような部分もあり?)、ロール=ライアン著の訳者あとがき(岩松正洋「詩学の言語使用論的問題」二〇〇六)や橋本陽介『ナラトロジー入門』(二〇一四)にも整理されているとおりです。つまり時期的には、ボルヘスやジョン・ファウルズといったいわゆるメタフィクション、ラテンアメリカ文学、ポストモダン文学などとされる作品を対象に分析が「試論」の頃まで進み、それにやや遅れて「叙述トリック」の実作が日本でミステリの分野で台頭ないし増加した、というのが、現在から見た流れになるでしょうか。引用部で我孫子が指し示したこの部分が、いわば未だ「空欄」になっているのではないか、と私は思ったわけです。

 とはいえ、私は文学について専門的に学んだ経験はありませんし、外国語にも堪能ではありませんから、日本語に訳された関連書を興味のおもむくまま無手勝流に読んでみた、という程度の知識でしかありません。物語論の概念は専門家のあいだでも異論が多く、門外漢としてはとても正確にその現状を把握しているとは言い難い状態ですが、それでも、「こういう考え方を活用すると便利だろうな」と感じたものを、次章で紹介していきたいと思います。

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