第七部

 と、これが今回地下シェルターから新たに発見された木谷栄二氏の手になると思しき未発表原稿である。『虚ろの花』の執筆途中に突然行方をくらました氏であるが、全国各地で彼の逗留した痕跡が見られ、特に先月発見された遺書らしき文書では未発表の作品の存在が示唆されており、今回見つかった原稿が当該の作品ではないかとの見方が強まっている。

 以下に、その遺書と考えられている文章を転載する。


『私は囚われてしまった。自らが木谷栄二でしかあり得ないのと同時に、自らの作品を手掛けている者が木谷栄二ではあり得ないというその不条理な妄想にかられて身じろぎ一つ許されない。私の目は私のものだ。私の耳は私のものだ。私の手は私のものだ。私の鼻は私のものだ。私の口は私のものだ。私の脳は私のものだ。私の心臓は私のものだ。私の血液は私のものだ。私は私という存在を形作るありとあらゆる要素を手放さない。私は私のものだ。だが私の作品は私のものではない。私の目で見た世界。耳で聞いた情報。香り。味。感触。文字に書き起こした瞬間、あるいは想像力で描き出した瞬間、物語が私から逃れていく。文字の一つ一つが私を拒絶する。私はその時点で私ではなくなり、いつも木谷栄二という誰か別の人間の背中を追いかけているような気分になる。その背中は追っても追ってもどんどんと離れて行き、決して追いつけないのであるが、どうにかしなければと思ってもがいている間にまるで水の中にでも入ったように息苦しくなり、目は霞み耳は潰れ、タールのように粘っこい皮膚感覚の中で遂には気を失う。はっと我に帰った時には、書いた記憶のない文字列がびっしりと原稿を埋めており、私の知らない物語がそこに現れているという次第である。私の作品は私のものでない。私と全然関係のない、別の私の手になるものなのだ。これは昔から大体そのような風であったが、しかし最近とみにその傾向が強まり、私の意志を完全に超越した物語が紙上に展開される。自らに対するあまりの不審に、もう耐えられそうに無い。私を磔にした十字架は、子供が戯れに作った砂山の頂に無造作に立てられており、直立に飽きたならば今すぐにでも転び落ちるだろう。だが私にはそれを停める力が残されていない。何を隠そう、今私は私が一番怖いのだ。

 私の物語は私を拒絶する。その最たる例となった気味の悪い作品は処分してきた。その中で私は日本における代表的な作家になっており、私の名を冠する賞までも設立されている。その賞では不正が行われていたらしく、それを作品の外部から作者自らが指摘するという形式で、虚構と現実が何度も入れ替わる目も眩むほどに倒錯的な世界が蠢き出す。外部から介入した私は、さらにそれを上回る者によってその権勢を失い、挙句に殺されてしまう。その世界の私はどうやら二〇人ばかりからなっている集団らしく、詐欺まがいのやり口で文壇をのし上がったことが明かされ、その事実に立脚した本当の真相が導かれる。だが、作中で私自らが、この作品を書いた人間は私ではないと指摘し、本当の作者として作中人物の名を挙げるも、結局は辻褄など合わせぬまま、この世界が狂っていることを地の文で呪って幕を閉じるのだ。二度と目にしたくない不快な幕切れだった。そこにどのような意味付けを成しても価値は見出せない。テーゼも何も無い、文章の形を借りた秩序の崩壊だけが不様に吐き散らされているだけだ。ただ一つ間違いの無いこととして、これを書き上げた私は確かに狂ってしまったのであろう。

 そもそも私は大した作家でない。文壇で脚光を浴びたことは一度たりとも無いし、このまま細々と好きなように書いていられればよかったのだ。うねり蠢く自分の影に脅えることなどなく、たゆたう水の流れに身を任せるように、風の向くまま気の向くままに筆を進めていければ、それで。地位も名誉も金すらも、私は要らない。ただ漫然と、そこに私の物語が続いていさえすれば、私は安心して眠ることが出来たのだ。小さな小さな、だからこそこの手に掴めた夢だった。破局は足音すら立てずに私の傍ににじり寄り、あっという間に私の全てを奪い去った。今の狂おしい作品世界には私の帰る場所などない。作品が求める作者も私ではない。全てがばらけてしまった。いずれ私自身もばらけていく。手も足もみな捥げ落ちて、潮臭い荒波に揉まれながら黄ばんだ骨になる。目は開かず、耳も聞こえず、何もわからず。朽ち果てながら紡がれるその物語こそ、本当の私の物語である気さえもする。私はそれを望む。木谷栄二は、木谷栄二という枠組みから外れて初めて本当の言葉を得るに違いない。でなければ、この私は惨め過ぎる。虚無にも遠く及ばない。

 愚鈍なる者は愚鈍に死んで行くしかなく、自らを見失った者は何をも見据えることなく死んで行くしかない。それを変えることは誰にもままならず、なればこそ私はこのまま逝こう。幼き頃より私を捕らえて離さなかった渇望が、今初めて形を得てここにあるのだから。誰にも顧みられることなく、世界の片隅で壮絶に散ろう。私の中の二〇人と一所に。

 死すら超越した位置にある喪失が、はっきりと暗黒を湛えて私の目の前に広がっている。私は虚構の中ですら、私を越えられなかったのだ。絶望というにはあまりにも白けた幕切れだった。私は私ではない。いつまで待っても、誰も助けてはくれない。木谷栄二は私ではなかった。私は木谷栄二ではなかった。私を捕らえた闇の名は、ない。

 番号のない私が、だからこそ全員を引き連れて一人で飛べるとは、皮肉な話だ。

 最後に。

 日本の文壇には、木谷栄二賞などというものは未来永劫必要ない。私の破綻した雑文に何ら文学的意味は無い。ただそこに私がいた証左として、たったそれだけの意味を込めて渾身の力で歴史に瑕をつけてやったくらいのものなのだ。私はそうして力尽きた。嘲笑を受けて初めて美しく輝ける』


 今回の発見は、氏の業績を知る上で非常に重要なものとなると期待されている。完全に氏の手になると知られている作品は現存するものが極めて少なく貴重であり、もしもこれが全く改稿されていない完全な元原稿となると、『城』以来二作目の発見ということになる。この作品は、タイトルを公募して厳正な抽選によって決めた後、しかるべき処置を経てから発表される手筈となっている。相変わらず完全に破綻している氏の作品が、現在の木谷栄二幹部を通じることでどこまで体裁を整えられるか、非常に注目が集まる。とはいえ、過度の期待も禁物だ。『白日の下に眠りを捧げ』のようなことが再び起こらぬよう、所詮は木谷栄二氏の作品であると、ある程度の諦観も織り交ぜ、適度な期待を堅持するよう心がけることが望ましい。今後の木谷栄二からは、ますます目が離せない。


文責・九六一二一二四番 今迫直弥

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木谷栄二作品について 今迫直弥 @hatohatoyama

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