第三部
その言葉の意味が浸透するより早く、私は生命の危機に晒された。
賛成、と唱和する他の三人ともども、岡本さんがどこからか無骨な鉄の塊を取り出して握り締め、私を照準したのだ。私は文字通り射すくめられたように、ぴくりとも動けなくなった。特に、後頭部に冷たい感触が押し当てられたのが効いた。悪寒が背筋を這い上がり、全身が総毛立つのを感じる。岡本さんは嬉々として、町村さんは無関心の体を崩さず、弓削さんは視界の外から、黒田さんは少し戸惑い気味に、まるで煙草を勧めるように、凶器を私に差し向けている。あまりにも突然の事態に理解が追いつくまで、致命的なタイムラグが生じた。つまりその一瞬を越えて今も生きていられるのは、ただ相手側の慈悲でしかなくて、私の運命は完全に自分の手を離れ、向こうに握られたと考えてよい。陳腐な表現だが、まさしく絶体絶命である。
しかしこれまでどうして気付かなかったのか、室内だと言うのに全員が同じ黒いコートで、一様に黒いレザー手袋を嵌めている。背後にいるため今は見えないが、弓削さんも確かに同じ格好をしていたはずだ。銃の扱いに慣れているのか、その黒い銃口は一糸乱れず三つとも私の顔面をポイントしており、短い銃身には一切の震えが見られない。その立居振舞を見るにつけても、素人仕事とは考えられなかった。岡本さんが、空いた方の手で懐からサングラスを取り出すと、片手だけで器用にかけて目元を隠した。中指でその位置を軽く調整してから、ようやく口を開く。
「とまあ、こういうことなんですよ、木谷栄二さん」
どういうことなのか、全くわからなかった。慇懃な口調の中に、恐ろしいほどの恫喝が込められていた。見た目も含め、全てがまるで、古い映画に出てくるイタリアマフィアのボスのようだ。そこには先程までの、舌鋒鋭いが顔立ちは穏やか、老紳士然とした文芸評論家の姿はどこにもなかった。私が何も言えず、ただ震えているだけなのを見てとると、呆れたように鼻先で笑った。狼狽の中で、必死に理性の手綱を握る。
突然、岡本さんが、何事もなかったように拳銃を下ろす。町村さんと黒田さんの二人もそれに倣った。冷め切った恐怖感が、私の胸の中で緩やかに蕩けて行く。ただ、後頭部に突きつけられた硬い感触だけは消えない。背後で、弓削さんが笑っているらしい、喉を鳴らす音がした。溶けかけた緊張が、再びその形を取り戻していく。
「どうですか? 作者=メタ探偵を標榜していたくせに、作中人物に一杯食わされた結果は。何か感想がありますかな」
岡本さんの言葉は、銃を突きつけられるよりも余程身の危険を感じさせた。
私は再び、わけがわからないわ恐ろしいわで、目を見開き、足を戦慄かせ、見苦しく動揺を露わにした。今にも心音が耳元で聞こえてきそうだったが、底冷えするような恐怖に心臓も限界を向かえたのか、むしろ意識しても鼓動が感じられないほどである。それが尚更不気味で、私はひどく狼狽した。
裏切られた。咄嗟に思ったのは、そのことだった。
「あんた、まだ自分の置かれた状況がよくわかってないみたいだな」
ぞっとするほど近くで、囁くような声が聞こえた。弓削さんだ。声には確かに聞き憶えがあるのだが、真後ろにいて姿が見えないので不安になる。しかも、どう考えても一作家の吐くようなセリフではない。私の不安は募る。さらに彼は続けて、
「『誌上座談会』は憶えてるか? あれは最後、乱入した男が、精神科医に名前を呼ばれて終わるという、実に印象的なシーンで幕を閉じるのだったな。その一言で、これまでの全ての謎を一つに収束させてしまうという実に見事なやり方だった。それに倣ってあんたに纏わる謎を解くならば、それはこうなる」
私は、腹の中に直接氷をぶちこまれたように、体の内側から急速に熱を奪われるのを感じた。自分が侵蝕されていく恐ろしいイメージに、臓物がきりきりと捻られるように悲鳴を上げる。やはり、裏切られたのだ。私は悟る。
タイミングを合わせるように、四人が一斉に口を開いた。まるで全く一人の人間が喋っているかのように、私の耳にそれは響いた。
「ほら、落ち着いて。大丈夫ですから。さあ、自分の部屋に戻りましょう、池始さん」
死すら超越した位置にある喪失が、はっきりと暗黒を湛えて私の目の前に広がった。
私は虚構の中ですら、私を越えられなかったのだ。
絶望というにはあまりにも白けた幕切れだった。
私は私ではない。
いつまで待っても、誰も助けてはくれない。
木谷栄二は私ではなかった。
私は木谷栄二ではなかった。
私を捕らえた闇の名は、ない。
しばらくして、サングラスをかけた岡本さんがおもむろに笑い出した。くすくすと、女性陣二人も押し殺した微笑を浮かべている。ようやく後頭部の銃口が退けられ、ばん、と強く背中を叩かれる。目を白黒させていると、弓削さんが何事かぼやきながら、こちらを見ていた。手許では、不気味に黒く輝く細長い銃身が自己主張している。何やらその先端部を弄ってから、弓削さんは私を安心させるように笑い、それをコートの内側に仕舞いこんだ。
呆気にとられている私に、深みのある声で岡本さんが説明してくれた。
「あなたにとってみれば、最初から全てがおかしいんですよ。だってこの状況、誰がどう見たって、雑誌に取り上げられる木谷栄二賞の最終選考風景には見えないでしょう? ああいうのは普通、高級料亭なんかでやるものです。こんな、部屋の隅から隅まで煙草の匂いが染み込んでいるような、雑然とした事務所の隅じゃなくてね。しかも私達は、全員わざわざ真っ黒のコートを羽織っていて皮の手袋までしています。拳銃だって携帯している。何をしていたにせよ、これ以上ないくらい怪しい集団じゃないですか。なのに、あなたは一切それについて触れなかった。そのまま、木谷栄二だ作者だ何だと、メタフィクションの設定をべらべら喋るあなたは、実に滑稽でしたよ。作者だと言い張っているのに、どうやら私達の姿を上手く捉えていないようでしたのでね。これが本当に小説なら、あなたもまた、何らかのギミックの一つに過ぎないのだろうなと、私にはピンと来ました。では、どんなギミックなのか? 私はせっかくなので、智恵を絞って考えました。あなたの登場以降、私達は何度も何度も不自然なセリフを喋らされるのです。普通の小説なら間違いなく破綻していそうなことまで平気で。それなのに何故か、この小説世界は上手く回っている。むしろ、それだからこそ、上手く回っているような気さえするのです。その違和感に気付けば、答えは簡単でした。要するに作者は、叙述トリックを使っているのですよ」
それが、私の捕らえられた罠だった。
叙述トリック。それは、犯人が作中人物を欺くために仕掛けるトリックではなく、作者が読者を欺くためのトリックだ。
私は、作者であると思い込んでいるだけの唯の作中人物でしかなくて、読者がそれを見て作者が中にいると誤認するためのギミックの一つでしかなかったわけだ。
「私達に与えられた基本的な姿勢はこうです。あなたが物凄い勢いで謎解きをしていくので、ただそれを聞き、大きく驚き、合っているとも間違っているとも言わず、曖昧だけれども嘘ではないことをぽつりぽつりと語る。際どいセリフは何度もありましたけどね。叙述トリックだと思えばまあ納得も出来ます。それによって読者をミスリードするわけですからね。それを確信したのは、あなたがどうも、最終選考に途中から乱入したつもりになっている、ということが言葉の端々から感じられた時でした。もうおわかりですよね? あなたは、とんでもない勘違いをしています。今、あなたがいるここは、最終選考の場ではありません。最終選考は、無事、昨日終了していますよ。今の状況をきちんと私側から説明させてもらえば、選考委員五人で再び集まって、重要な話し合いをしていたところ、突然あなたが立ち上がり、声色も表情も変えて、『自分は木谷栄二だ!』などと言い出したものですから、面白半分にそれに調子を合わせてみた、という次第です。とはいえ、あなたの話が面白かったのは確かですし、この趣向から考えて、この私達の世界が虚構であろうことはまず間違いないでしょうけどね。それに気付けたことは、我ながら実に幸運なことだと思います。こんな経験、きっと滅多に出来ないでしょうから。さて、私だけで喋っていてもつまらないですから、木谷さん、いや、池君、何か質問はないですか? あなたが正気を取り戻せるよう、私達の側から見た全ての真実を、教えて差し上げますよ」
私は、完全に立場が逆転してしまったことを知った。思わずその場にへたり込んでしまう。心配そうな目を向けてくれるのは、黒田さんだけだった。
「……選考は無事に終わった、ということでしたが、不審者の乱入の件はどうなったんですか?」
私は、落ち着くまでしばらく時間をもらい、そう尋ねてみた。毅然とした態度をとろうと努めたつもりだったが、どうにも声に力が入っていない。
「そんな事実は、一切ありませんよ。選考は最後までつつがなく行われました。もしかして、あなたが不審者の乱入だと思ったのは、この部分ではないですか?」
岡本さんは、部屋の隅のデスクに乱雑に積まれていた紙束の一番上から、二〇枚ほど無造作に掴み上げると、手袋を外し、丁寧に捲って行った。そして、ほらここです、と指で該当箇所を示した。一三ページの終わりで、それは起こっていた。
岡本:――さて、個々の作品に対する評はここまでとして、以降は全体の比較から話を煮詰めていって、木谷栄二賞を決めましょう。ええと、その決定法ですが――
??:待ってください。岡本さん、あなたのやろうとしていることは、わからないではないが、どう考えてもフェアじゃない。
一同:(驚愕)
弓削:あなたは誰ですか? というより、どこから声を出しているんです?
??:ここです。
「あ、そうです、これですよ! 誰か、謎の人物が謎の手段で乱入しているとしか考えられないじゃないですか!」
私の中では、この後、私が颯爽と作中世界に登場する描写に続くのである。
「しかし、もう台本形式の原稿になっているんですね。驚きです」
「何言ってるんですか。昨日の録音テープを元に、これを書き上げたのは、他ならぬ池君、あなたじゃないですか」
「え!」
「本来は出版社の方に一任すると言う話だったんですが、あなたが是非にと言うから、無理言ってやらせてもらったというのに、本当に忘れたんですか?」
そんなことを言われても、私の中には、木谷栄二としての記憶しかないので、困惑するのみだ。すみません、と頭を下げたら町村さんが吹き出した。私はむっとしたが、言い返す言葉もない。しっかりしてくれよ、とまた弓削さんがぼやいている。
「ま、あなたは、それを書き起こす際に、座談会の様子を一度外から眺め直しているので、最終選考の座談会における作者=メタ探偵という立ち位置はあながち間違いではないと言えます。ただ、そこから現実と虚構の境界を見失ってしまったのが敗因ですかね。それの続きを読んでみてくださいよ。それでもなお、『木谷栄二がフィクションにおける時制表現の限界に対する飽くなき挑戦のために自分をこの世界に投げ込んだ』と思えるなら、私ももう止めません。馬鹿馬鹿しくて付き合いきれません」
一枚めくると、当然のように一四ページ目がそこにあった。謎の男の乱入で騒然とする場面が続くのかと思いきや、
池:ほら、ここですよ、ここ。
黒田:何だ、池さんか。本当に誰かいるのかと思ってびっくりしちゃいましたよ。
岡本:脅かさないで下さいよ。今のは腹話術ですよね? 何なんです、その人形は?
池:フェアプレーの化身、フェアリーちゃんです(笑)。
黒田:可愛いですね。
弓削:まったく、誰も口を開けていないのに変な作り声がしたから、テープレコーダーで怪人が伝言を残していたのかと思って狼狽しましたよ。
岡本:随分アナクロな発想ですね(笑)。
町村:まあ、私は最初から気付いてましたけどね。何か、机の下でごそごそやってるな、と思って覗いてみたら、さっき目が合ったんですよ(笑)。
池:黙っていてくれて助かりました(笑)。インパクトのある登場を狙っていたんで。
岡本:で、結局何なんですか、それは。
??:岡本さん、やっぱり、こういう賞は厳正なる審査で受賞作を決めないと駄目ですよね。そうですよね。
岡本:え、ええ、勿論です。しかし、マ行も上手く発音しているのは凄いですね(笑)。
池:練習しました(笑)。
??:それでは皆さん、この、第三回木谷栄二賞の最終選考において、何の禍根も残さない審査を行うことを、私に誓ってください。
弓削:しかし、何故急にこんなことを?
??:皆さんの一押しが割れているからですよ。そしてその一方で岡本さんだけが何度も、どの作品が受賞してもおかしくない、と強調しています。この状況で話し合いを始めるとなると、皆が自分の一押しをアピールして、岡本さんを上手く丸め込もうという方向で議論が進行していってしまうのではないでしょうか。それはフェアではない気がするのですね。
黒田:つまり、もっと大きく俯瞰的な視点で、全ての作品を均等に評価して意見を戦わせよう、ということですよね?
池:そうです。
??:あ、そうです(笑)。自分の一押しという色眼鏡を捨てて、皆さんがゼロから話し合わないと、どうにも、最終決定権のある岡本さんに結局全てを委ねるような結果になってしまうのではないか、と。
岡本:うーん。確かに、言われてみれば、私の独断になりそうな気配もありました。どれでも良い、と言うことは、私がどれを選んでも全く不思議でないということでもありますからね。
??:ええ。私が危惧していたのはそこなんですよ。そこで、せっかく選考の様子が雑誌上に公開されるのだから、読者の皆さんにもその公正性が伝わるよう、こうして言質をとるべきかな、と思ったわけです。
町村:一見良いこと言ってるけど、結局はこのフェアリーちゃんを、木谷栄二賞におけるマスコットキャラクターにするのが一番の狙いなんでしょ?
池:あ、ばれました(笑)?
一同:(笑)
と、何とも和やかな顛末が綴られていた。
私は眩暈を感じた。最初から膝をついていなければ、今ここでついていたところだ。腹話術だと? フェアプレーの化身だと? 公正な審査を誓うデモンストレーションだった、だと? しかも、それをやったのが、誰あろう池始だというのだから、怒りの矛先をどこに向けてよいやらわからない。フェアリーちゃん、という名前が、『妖精』のfairyと、『公正に』のfairlyを掛けたものなのだとわかっても、自分の精一杯のジョークを笑うだけの元気は今は無かった。勿論、笑うと言っても鼻で笑うつもりだったのだが。
「わかりましたか? 選考は、無事、何者の妨害もなく、進行していたのです。あったのは、可愛い妖精による、小さな誓いの儀式だけ」
岡本さんの言葉に、私は大きく息を吐くしかなかった。その後の原稿にぱらぱらと目を通してみた結果、どうやらフェアリーちゃんはフェアプレー宣言の時だけでなく、場が白熱して激しい論争が起こりそうになる度に、やんわりと二者の間を取り持って、場の雰囲気を和ませるために幾度となく駆り出されているらしいことがわかった。
私こと池始は、狂言回しもいいところである。
全てがどうでも良い気分に襲われた。
「……なら、あの電話は何だったんです? 交通事故の話も全て嘘だったんですか?」
「それも忘れてしまったんですか? 全く、どうやら本当に池君の記憶はなくなっているみたいですねえ。私はあの時点では何の嘘もついていませんよ。あなたが勝手に、死んだのは池始だと決め付けていただけで、私は『彼』とだけしか言ってません。完全な誤解です。その亡くなってしまった『彼』とは、あなたもよくご存知の、本来の最終選考委員の一人であった、米谷さんですよ。彼は彼なりに、最終選考のことを気にかけていたんでしょう。行方不明中の足取りはまだよくわかっていないらしいですが、選考当日の未明に都内に戻ってこようとしていたのは確実なわけですからね。車内で原稿を再読しておられたようですし、突然の死はさぞ無念だったことでしょう。だから私は、選考を続けることが彼の供養になると思い、続行を決意したのです。幽霊が目の前にいて困惑していたからではありませんよ。ああ、ちなみに、忘れないで下さい、明日お通夜です」
何と言うことか。米谷正応は、二〇年程前に、純文学の新境地を開拓して一世を風靡した人気作家である。彼が関西出身であったため、文学界では『西の米谷・東の木谷』などと呼ばれて騒がれていた時期もある。穏やかな日常風景が一つのきっかけで瓦解する様を、その一瞬一瞬を切り取るように鋭く描き抜く巧みな筆致に定評があり、繊細な作風とは正反対に本人は豪放磊落を絵に描いた様な好人物であったと記憶している。
ふと考えて、それが誰の記憶かと言われれば、勿論、池始のものでしかありえない。木谷栄二は公の場に姿を現さない覆面作家であるし、他の作家との交流も全く無いという話であった。ここに来て私は、池始のレールの上に、危なっかしい足取りで戻ってこようとしているようだ。何かのパーティーの際に自分を激励してくれた、筋骨隆々の大男の姿がぼんやりと浮かんでくる。曰く、米谷正応賞が設立されたら、今度は君が審査を頼むよ。
胸が熱くなって、私は思わず歯を食いしばった。涙を堪える方法を、それしか知らなかったので。
「米谷さんが、亡くなっていたなんて……」
「全く。文学界にとって致命的な損失ですよ。東の木谷さんの失踪に続いて、西の米谷さんまでこんなことになるとは。新しく、北でも南でも良いから、早いところ誰か若手が出てきてくれないと困りますよ」
岡本さんが、本当に米谷さんの死を嘆いているのが見てとれた。私は、いや、池始としてそれを最初に聞いた時の私は、一体、どのような反応を示したのだろうか。そして、どんな思いで、録音された木谷栄二賞の最終選考を文字に書き起こしていたのだろうか。
しばらく時間をおいてから、岡本さんが、気を取り直すように言った。
「さて、他に質問はありませんか?」
少しだけ、不安が浮かんできた。私にとって全ての疑問が解決され、私が池始としてこの世界に着地した後、この物語はどのような方向に進むのだろうか?
他の三人が、何にも言わないのが気にかかった。
「私の発言が全て妄想だったとしましょう。それに対する皆さんの反応も、私をからかってのものであったと。その際、叙述トリックのルールの関係で、皆さんは嘘偽りを口にすることはしなかったんですよね? だとすると、岡本さん。あなた、確か自分からこうおっしゃいましたよね。『私は木谷栄二賞の選考で不正を働く役を与えられた』と。さらにその後、述懐の中で池始に授賞した際に金銭の授受があったことを認めています。あれは、真実と言うことですか?」
その瞬間、岡本さんは難しい顔をした。他の三人もそれぞれ、対応に困ったというようにお互いをちらちら盗み見ている。目線で促されるようにして、やはり結局は岡本さんが口を開いた。
「あれは、あくまでも冗談ですよ。あなたが、あたかも全てが予定調和だ、みたいなことを言うものですから、試しにこちらから仕掛けてみたのです。そうしたら、むしろ他の人が驚いてしまって、それまで興味無さそうだった町村さんまでもが食いついてきたのには笑いそうになりました」
「だって、あれは驚きますよ。それまでは皆、軽くあしらっていただけなのに――まあ、弓削君は楽しそうに自らの推理小説観を語っていたけれど――、何故か急に岡本さんが真犯人になっちゃったんですから。とうとう岡本さんもおかしくなったのかと思いました」
町村さんが、弁解するように言う。私は、その時の様子を思い出して笑った。
「そう考えると、あの後の私の長ゼリフは、本当に単なる辻褄あわせだったわけですね。論理展開はなかなかスムーズだったと思うんですが、我ながら良くもまあ、あれだけ長々と喋れたものですね」
「あれを聞いた時には、こいつは本物だ、本当にこの物語の作者なんだ、と心底思ってしまいました。外見的にはどう見ても池始君だったわけですが。説得力が尋常でなかった」
「あの後は実際、皆、ノリノリでしたね。岡本さんの言葉にあれだけ明確に返答が来るんですから、これは面白くなってきたな、と。僕も含めて、皆、会話に参加したがってましたね。もしも現実に名探偵がいたら、こんな感じなんだろうな、とか思いながら」
「私は含めないでよ。傍から見ていて面白かったけど、参加する気なんてさらさらありませんでしたから」
「またまた、町村さん」
場は、一気に楽しげなムードに包まれた。
そんな中、私、池始も、ようやく自分の居場所に戻ってこられたのだ、という感慨に耽っていた。どうもまだ記憶にあやふやな点が残るが、自分の深奥にこびりついた全ての妄想が剥がれ落ちれば、綺麗に思い出すことだろう。全くもって、愉快と不愉快の境界線上の体験だった。自分のことを、木谷栄二作品の登場人物にして作者という、複雑な設定で誤認し、それを皆に納得させようと躍起になっていたのだから。荒唐無稽な話だが、その場の勢いで私の優勢勝ちで終わりそうなムードも漂っただけに、最後の身も蓋もない大逆転は悔やまれる。まさか叙述トリックとは……。
気付けば、先程からずっと心配そうな顔の黒田さんが、しきりに私の胸の辺りを気にしている。私はそれに釣られて初めて、自らの姿を視界に入れた。黒いコートに黒い手袋。他の四人と全く同じ格好をしている。そういえばこれにどんな意味があるのか、そして一体何の話し合いをしていたのだったか、どうしても思い出せない。黒田さんの視線を気にして胸に目をやる。
左胸のポケットの辺りに、小さな穴が開いている。そして真っ黒な生地で目立たないながらも、確かにその周辺をどす黒い液体が湿らせているのだった。その無粋な色の示すものが何なのか。それを知らぬほど愚かではないつもりだった。
まさか。私は思わず首を横に振って、その事実を否定した。これは何かの間違いだ。そんなことがありうるはずがない。
顔を上げたら、黒田さんと目が合った。口を真一文字に結んだ、これまで見たことのない表情にぶつかった時、私は突然、全てを思い出した。記憶の中で、押し殺された間抜けな銃声が反響を繰り返す。
私はもう、死んでいる。
それに気付いたが最後、私は私の体を維持することが出来なくなった。全ての謎を解く前に、黒田さんの絶妙な表情に見送られて、私の視界は暗闇の中に引きずり込まれていった。扉が鎖されたように、目の前から一片の光すら消え失せる。
その表情に名前を付けるなら、きっとこうなる。目が語っていた。
『この状況に、説明は不可能』
至言だ。何となくそう思った。
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