第二部

 私がその事務所の一室に姿を現した時、そこにいた者は皆、私を驚愕の表情で迎えてくれた。わざわざ常識外れな方法で出現した甲斐があったというものだ。

「突然の登場で驚かせてしまったようですね。申し訳ありません。お初にお目にかかります。私の名前は木谷栄二。まあ、勿論ペンネームですが」

 言うと、面々は驚愕を通り越してもはや自失の体に陥り、目と口を大きく開いたままこちらを凝視するのみとなった。そして、最初に我を取り戻した者が私に食いつかんばかりにまくし立てる。

「出鱈目だ! 木谷先生は、その、あれだ。三年前、北海道の火山の噴火の際に行方をくらました時、プロフィール上は既に六〇を越えていたはずだぞ!」

 弓削さんの主張は、正しい。私の今の姿は、二五歳くらいの青年のように見えるだろうし、私が木谷栄二であることを出鱈目だと思っても何ら不思議は無い。

「何より、これは一体どういう手品なわけ? どうしてあなた、そんな風に……。信じられないわ……」

 これは町村さんだ。彼女が絶句するのも無理はない。何しろ私は、文字通り突然ここに姿を現したのである。ドアを開けることも無く、本当に全く突然に。

「大事な話し合いを邪魔して、一体どういうつもりなんですか?」

 黒田さんの疑問も至極尤もだ。さて、何からどう答えたものだろう。

「まず、私が木谷栄二本人であるかどうかという点について。これは、ここでは証明の余地がありませんが、間違いなく本人です。一八年前、短編『業火に続く森』と続く中編『城』で脚光を浴び、三年前に『虚ろの花』の執筆中行方不明になった、あの木谷で間違いありません。あなたがたが私を疑うのもわからないではないが、しかし、あなたがたの中に本当の木谷栄二を見たことのある人はいますか? 映像でも写真でも……」

 誰も名乗り出てこない。ただ皆、そういえばそうだ、という様子でお互い顔を見合わせている。

「当然です。私は、如何なるメディアに出たこともないですし、文壇のパーティーなどに出席したこともない。六〇歳を越えている、というのは、私が作品の巻末に載せている作者プロフィールを元に組み上げられた話でしょうが、私に言わせればあの部分も作品の一部なのです。そして、作品中の人物は実在の人物とは一切関係ありません、と冒頭に注意書きがしてあったでしょう? 全ての作品の巻末に、私は作中作者である木谷栄二のプロフィールを書き込んでいたのですよ。本当の私は、まだ三〇歳になっていません。短編長編全て含めて一〇〇以上の作品を残していますがね。私が覆面作家であった理由。それは、『天才小学生作家』などとして騒がれるのを嫌ったからです。遅咲きの壮年作家を偽った理由もわかるでしょう」

「し、しかし、だとするとあの作品群を、年端も行かぬ若造が書いていたというのか! ま、まさか、そんなことがありうるわけが……」

 発表当時に私の処女作を絶賛していた岡本さんが、信じられないとでも言うように、唸っている。四〇代の人間の作品だとずっと思っていたのに、小学生の書いたものだったと言われたのだから、その衝撃たるや生半なものではあるまい。その反応に十分満足してから、私は続ける。

「そして、次、私がどうやってここに現れたか。これの答えも簡単ですが、そのネタを明かすのはひとまず後回しにしましょう。先に最後の質問に答えます。私がこの選考を邪魔してどうするつもりなのか。これは、言うなれば、私の名の冠された賞の、公正さを取り戻しに来たんです」

「どういうことだ? 選考に、何かイカサマでもあったというのか?」

「正確には、そうではありません。しかし……」

 と、私は岡本さんに目を向けた。

「どう考えても辻褄の合わない事態が発生しているのです。そうですよね、岡本さん」

 岡本さんは少し押し黙った。そうして、息を大きく吸い込むと、意を決するように重々しく口を開いた。

「ええ、そうですね。私達の中に、ここにいるはずのない者が、一人……」

「そんな!」

 弓削さんは目を見開いた。

「どういうことなんですか? 本来は選考委員でない人が紛れ込んでいたとでもいうつもりですか? それとも、途中で誰かが偽者にでも入れ替わったんですか?」

 弓削さんは問い質すように強い口調で追及するが、岡本さんはどう答えて良いのかわからず、困惑しているようだった。

「まあ、落ち着いて下さい。皆さんの中に、招かれざる人間がいるわけではありませんし、偽者がいるわけでもありません。むしろ、そんなことより遥かに奇怪なことが起こっているのです」

「一体、どういうこと?」

 私は、ゆっくりと言った。

「皆さん、憶えていませんか? 選考の途中で岡本さんにかかってきた電話のことを」

 岡本さん以外は、皆、怪訝そうな顔をしている。

「そりゃあ、憶えてる。知り合いの誰かが亡くなったっていう奴だろう。でも、それがどうしたっていうんだ?」

「今回の話に関係あるの?」

「関係あるも何も、それが真相ですよ。つまり、岡本さんへの電話は、この選考委員のメンバーの一人が、死亡したことを伝えるものだったんです」

 今度こそ、全員が驚愕したようだ。岡本さんは、ただ黙って俯いている。恐怖のためか、顔が引きつっている者もいた。

「……馬鹿なことを言わないで。そ、そんなことが――」

「あるわけがない、とそうおっしゃりたいわけですね?」

「ええ。そう簡単には信じられません。だって、あなたの言い方だと、ええと、この中の誰かが幽霊だ、とそういうことになるわけでしょう?」

「幽霊。まあ、月並みな言葉を借りればそうなります。ただ、一つだけ誤りがありますよ」

「え?」

「この中の誰かが、幽霊なのではありません」

 町村さんが皆の顔を見回している。岡本さん、弓削さん、黒田さんと目が合って、それから最後、何か妙なものを見るような目で私と視線を交わした。

「そうです、気付いたようですね」

 私は、にっこりと笑って続けた。


「池さんは、ここにはいないのです」


 その場は騒然とした。当然だ。私を含めても五人しかいないことが、彼らにはにわかに受け入れ難いだろう。

「馬鹿な! 池君が幽霊だって! どう見てもさっきまで普通に生きていたぞ!」

「まあ、説明は順序立てて行きましょう」

 私は、興奮した様子の弓削さんを宥めた。

「岡本さん。電話の内容を説明してください。それは、池君の事故を知らせるものだったんですよね?」

「い、いえ、それは――」

「隠さなくて結構です。詳細を教えてください」

「その、昨日未明、都内で交通事故があって、男性が意識不明の重体になったらしいのです。身分証などを所持していなかった上、なにぶん酷い事故だったので、最初は身元がわからなかったらしいんですが、ばらばらに飛び散った大量の原稿が木谷栄二賞の今年の候補作とわかり、関係者に当たって、ようやく誰なのか判明したということでした。そのため、各所への連絡は文字通り致命的に遅れ、結果として、私のところへ電話が来た時は、もう既に彼は集中治療室で息絶えた後でした」

 岡本さんの顔色は非常に悪かったが、その言葉は力強く、はっきりとしていた。

「びっくりしたでしょう。何せ、あなたは予定通り最終選考を始めてしまっており、件の池始氏も目の前にいる。少なくとも、そう思っていたわけですから」

「えーと、まあ、何が何やらわからなかったのは事実ですね。何かの間違いじゃないのか、と何度も確認しました」

「しかし、間違いではなかった。どうして良いのかわからなくなったあなたは、とりあえず何食わぬ顔で選考を続けることにした。そうですね」

「彼の遺志を思えば、選考を中止するなんてこと、私には出来ませんでしたよ。ちなみに、池君に最終選考の話を持ちかけたのは、私なんです。池君がそれを希望していたのを良く知っていましたからね」

「彼にこの選考の委員を依頼したのは、いつのことです?」

「……一昨日です」

 流石に、皆が絶句した。急遽呼ばれた、とは聞いていたが、まさかそんなに急だったとは思いも寄らなかったのだろう。

「そんなところでしょうね。彼は、本当に急な話で、焦っていた。慌てて全ての原稿に目を通さねばならなくなったわけです。そのあまり、移動中も原稿から目を離すことが出来ず、結果として命まで落としてしまったのですが……」

 私の言葉に、素早く反応したのは弓削さんだった。

「つまり、池君は、まだ全ての候補作を読み終えていなかったのか?」

「そうです。彼が読み終わっていたのは、『雪、水になって』『悪』『アルカトラス』『キエナイキズアト』の四つです。『誌上座談会』には目を通してすらいないですし、おそらく、『夢枕』の序盤を読んでいる途中だったんでしょう」

「確かに、後半二つの作品は、池君、殆ど内容とか作者について触れなかったわ。でも、どうして『夢枕』の序盤を読んでいる途中だったってわかるの?」

「憶えていますか? 彼は、『夢枕』の話題に移った時、こう言いました。『これは、ミステリーと捉えて良いわけですよね?』と。これがどう考えてもおかしいんです。彼は、『キエナイキズアト』を、広義のミステリーとして捉えることに理解を示しています。そんな彼が、幽霊が出てくること以外は本格推理の要件を満たしている、と誰あろう弓削さんが考える作品に関して、どうしてミステリーの範疇に入れて良いのかどうか、迷うというのです。考えられるのは、池始氏が、幽霊が夢枕に立って事件の幕開けを告げる、という『夢枕』の冒頭しか読んでおらず、その後どのように展開するか予測がつかなかったため、さりげなく探りを入れた、ということです」

「待って。でも、各候補作には、一六〇〇字のあらすじがあったはずよ。それを読んでいれば、当然大まかにその先がわかるはずじゃない?」

 町村さんが、重要なことに気付いたという風に言った。私はゆっくりと首を振る。

「いや、彼はあらすじを読んでいませんでした。読みたくても読めなかったのか、すすんで読まないことを選んだのかはわかりませんが、未読だったことだけは確かです」

「どうしてそんなことがわかるの?」

 私は一度頭の中で考えを纏める為に、大きく間を置いた。そして、一息に説明する。

「いいですか? 『雪、水になって』の論評を思い出してください。他の人は皆、ラスト直前の『茶毒』と『届く』の掛詞に唸らされていて、最後はむしろもう一捻り欲しかった、と言っていました。そんな中、池君だけは、その題名の意味が最後の最後にようやくわかって感動した、と言っているんです。この話は、最後の最後に、題名を絡めた一捻りがあるんですよ。『雪、水になって』は、文字通り雪が溶けて『春になる』ことを表す表現ではなかったわけです。作中で重要なファクターであった、ある物が、古典などで雪と称されることがあります。そう、病気で彼女の髪の色は白かったですし、それに合わせるために主人公も全ての髪を白く染めましたね。『白髪』、これが答えです。さらに、水になる、という成句には、不意になる、無駄になるという意味があり、その二つをあわせれば、この題名は『白髪は無駄になって』という意味にも取れるとわかるわけです。実際、ラストシーンではこのことが酷く残酷に主人公を打ちのめします。ですが、このダブルミーニングは、お世辞にもわかりやすいとは言えません。読者の誰しも、最後の最後に明かされてようやくわかるはずです。にも関わらず、どうして池君以外の皆さんは、これに関して殆ど言及しなかったか」

 私は、言葉を止め、呆気にとられている様子の全員の顔を、一度見渡した。

「これが要するに、あらすじを読んでいたかどうかの差なのではないでしょうか。三次選考に参加した方は、皆さん確実にあらすじから読まれたことでしょう。ジャンルに捕らわれない作品が応募されている木谷栄二賞において、大まかにその作品の方向性を知る上で、あらすじは欠かせませんから。そして、応募作に添付するあらすじは、文庫本の裏表紙に書いてあるようなものとは違い、ラストの落ちまでしっかり書かなければなりません。ミステリー作品のトリックの詳細までは不要でしょうが、『雪、水になって』はミステリーではなく、どちらかといえば純文学系の作品です。作者はあらすじで、その終わり方までを正直に記述した。その結果、あらすじを読んだ者には、内容に入る前から、『雪、水になって』の意味がわかってしまったのです。最初からわかってしまうと、何てことのない意味ですからね。本文に目を通した時にはむしろ、あらすじでは端折られていたであろう、『僕の想いはとどくかな』の方にだけ、巧みさを感じることとなったのではないでしょうか。あらすじ未読であったからこそ、池君だけは、『とどく』のダブルミーニングもさることながら、ラストで題名の意味が明かされるという展開に、素直に感動することが出来たのではないでしょうか」

 私はもう一度皆をゆっくりと見回したが、今度は誰一人、反論をしてこなかった。皆一様に感心した様子である。

「確かに、あなたの言う通りですよ」

 結局、うめく様に口を開いたのは、岡本さんだった。

「私が彼に候補作の原稿を渡したのですが、その際彼は、あらすじを受け取るのを拒みました。中身だけを読んで判断したいから、と。確かに、その方が良いに決まっています。話の大筋がわかっていたとしても、それでも読んで面白い作品こそが本当の名作だ、と私は思っています。今でもその考え方は変わりません。本当の名作は、何度読んでも面白いものです。ですが、いつの間にやら私は、その考え方を曲解して、心の目を曇らせてしまっていたようですね。話の大筋から組み上げた先入観を持って作品に接することまでも、是としてしまっていた」

 沈痛そうに顔を伏せるその姿は、天罰を待つ殉教者のようでもあった。

 しばらく居心地の悪い沈黙が続いたが、それを振り払うように声をあげたのは、町村さんだ。長い黒髪を鬱陶しそうに掻き上げる。

「とりあえず、池君が、あらすじと、候補作の一部を読んでいなかった、というのは納得したわ。そして、どうも交通事故で亡くなったらしい、という言い分も信じるとする。でも、だったら私達が座談会で話していた池君は何なの? 幽霊? だとしたら、今いないというのは何故?」

「それは、返答を先延ばしにしていた、第二の疑問に通じる部分があります。つまり、私がどのようにしてここに突然現れたのか、ということにね」

 私の勿体をつけた話し方のせいで、四人とも真相に気付くことが出来ず、やきもきしている。早く肝心な部分を話せ、と言うようにこちらを見ている。

「皆さんも、気付いているのではありませんか? 信じたくないという気持ちもわからないではないですが。ヒントは幾つも散らばっていたじゃありませんか。例えば、私の後期作品群、皆さん目を通していただけてますよね? それは一体、どのような傾向をもった小説だったでしょうか」

「ちょっと待ってください。それは、まさか……」

 ようやく気付いてくれたらしい。思い当たる節があったであろう岡本さんの顔色が真っ先に変わる。いや、その表現は全く正確ではない。正しくはこうだ。


『ここまで来たので、そろそろ良いかと思い、気付いてくれたことにした。ここで伏線を活かすので、思い当たる節のある岡本さんの顔色が真っ先に変わったことにする』


「岡本さんの言を借りれば、私が傾倒していったのはメタミステリーだ、ということでした。では、メタミステリーに付き物のギミックといえば何でしょう?」

 メタミステリーとは何か。乱暴に言ってしまえば、ここではメタフィクションの技巧を用いたミステリーのことを差している。ミステリーという言葉の定義も難しく、使用する人や使用される文脈によって狭義、広義とも意味するところは大きく異なるであろうが、ここでは漠然と捉えていただければよろしい。肝心なのはメタフィクション。これは、小説内でその作品が虚構であることを前提にしており、作中でそれに触れたり、あるいは自己言及しているようなスタイルの作品のことを意味する。例えば、作中に作者が顔を出すようなものを想像していただければよい。まさにこの作品のように。

「そうです。『遺漏物体』『絶命問題』『入滅作法』。俗に言う、私のからくり三部作、その全てで扱われていたじゃないですか。私の大好きな、が」

 私の言葉は、低く、染み渡るようにその場に響いた。私は、皆の反応を待たずに続けた。


「もうおわかりですね。これは、からくりシリーズの第四弾なんです。皆さんは、生きている人間なんかじゃありません。私の作品の中で誌上座談会をするために作られたキャラクターに過ぎないんです。勿論、ここでこうして喋っているこの私も、作者の名を持った単なる一キャラクターですがね」

 私は、とうとうこの小説最大のからくりを暴露してしまったという爽快感と共に、ようやく肩の荷が下りたという安堵感を味わっていた。当然ながら、紙の上のキャラクターは、誰一人、そんな私を祝福してくれはしなかった。話はまだ、完結していない。

「どういうことです? 私には何がなんだかわかりません」

 本当に混乱した、というように黒田さんが被りを振った。受け入れ難い真実から目を背けて、逃げ出したいだけにも見えた。

「そんなこといきなり言われて、信じられると思っているのか?」

 弓削さんは、虚勢を張っている。顔を真っ赤にして、肩を震わせているのは、しかし怒りのためではないだろう。

「でも、この話を甘受すれば、全てに説明が付くと思いませんか? 例えば、どうやって私がここに現れたのか。私が――勿論、作者の方の私が――謎解き役を作中に放り込んだんですよ。ただそれだけです。作者はこの世界では万能です。ご存知でしょう? 探偵小説においては、探偵によって導かれた解決が真犯人による罠でなく本当の答えである、と保証できるのは結局作者だけなのです。どんな推理小説であっても、その呪縛からは逃れられません。作中人物である探偵や犯人よりも完全に上位に、常に作者はいるわけですから。読者に対してフェアであろうとすればするほど、この構図が首を締めることになります。いわゆる推理小説におけるゲーデル問題という奴ですね。幾多もの本格推理作家が苦しめられてきた壁です。弓削さんも、『いつかの三叉路』で、二人の名探偵によって二つの真相を提示して、さらに三つ目の真相を読者にだけ匂わせておきながら、結局犯人を明言せずに幕を下ろすというやり方で、ゲーデル問題に立ち向かいましたね」

「ああ、そうさ。作者であるぼく自身も真相がわからない、本格推理作品。自分なりに、一つの究極形を示したつもりだ。一方で、あんたのやり方は、メタミステリーの形式にすることで、ゲーデル問題を逆手にとって作者による完璧な解決を作中に落とし込もうというわけか。要するに、作者の名を借りたあんたは、神に等しい位置にいる。謎解きのために現れたんだとすれば、まさに完全無欠の名探偵様だ。さらに、それを聞いて反駁しているぼく達にしても、作中キャラクターに過ぎないから、そちらから見れば一挙手一投足まで台本通り。全てが予定調和なんて、とんだ茶番もあったもんだ」

 弓削さんが、皮肉げに右頬を上げたが、その顔はどうしても今にも泣き出しそうな子供を連想させた。その隣で首を傾げていた黒田さんが、おずおずと質問する。

「しかし、木谷さん。もしもあなたの言う様に、ここが小説の中だったとしますよね? だとすると、この世界の神である作者のあなたなら、池君をここに登場させることだって簡単なはずじゃないですか? 幽霊が実在するという前提で物語を構築すればよいのですから。なのに、ここにいないというのは、結局どういうことなんです?」

「その説明には、ここにいる我々では認識出来ない事情も関わってきます。それでもよろしいですね?」

 私は、黒田さんだけでなく、岡本さん、町村さん、弓削さん、という順で一人ずつ確認した。町村さんは、もうどうでも良いと言いたげに顔を背けてしまった。この中で彼女だけは、他の三人と最初から立ち位置が若干異なっている。現実主義的に生きてきたら、その現実が空想世界の出来事であったと教えられ、突然自らの存在を見つめ直す必要に迫られて苦悩しているところだろう。残念ながら、私はそこまで救いの手を差し出す余裕は無かった。町村さん以外の全員が納得するのを待ってから、続けた。

「池君は、現世に未練があって幽霊になったのではありません。広い意味ではそうなのですが、彼の目的は、もっと局地的なものです。この期に及んで、彼が死んででもやりたいことはたったの一つ。そう、第三回木谷栄二賞の最終選考ですよ。彼は、それに参加するために、『死』という最大の多忙中をわざわざ駆けつけてくれたのです。選考をしていない間は、姿を現すことはありません。その必要がないからです。少なくとも、私はそのように説明出来ると思っています」

「選考をしているかどうかの基準は何なんです? 私の記憶する限り、彼は大幅に話がずれて雑談になっても平気で加わっていましたよ」

「それは、この世界の我々にはわからないでしょうが、おそらく読者の方には一目瞭然なんだと思いますよ。何せ、小説の形式が変わっているはずですからね。候補作の一つ、『誌上座談会』を覚えていますか? 五人の座談会という設定で、全篇脚本形式だったんでしたよね。あれがきっとこの世界の人のために用意された伏線でしょう。皆さんが選考をしている間は、この小説もそういう書き方になっていたのですよ。奇しくも池君が、『後に雑誌に載る時は、この話もそうなりますよ』と指摘している通りにね。先程の私の言葉を忘れたわけではないでしょう? あの池君がいた部分こそ、作中作なのですよ。皆さんは、それと気付かぬ内に、作中作の世界からこちらに戻って来ているのです。この世界に実体を持たない彼は、最終選考が、誌上座談会ならぬ紙上座談会になることで初めて、参加が可能となったわけです。ところが、そこへ私が乱入したことで、この作品は脚本形式から一般小説の形式に移ってしまった。つまり、作中作から抜け出してしまった。だからそれ以降、池君は現れなくなった、というわけです。辻褄は合うでしょう?」

「いや、やっぱり変ですよ。だって、木谷さんは、選考過程の言葉を根拠にして、あれこれと推理なさったじゃないですか。もし、あれが作中作だとしたら、全ての前提が狂ってしまいます。木谷さんの話は何だったんですか? 所詮は虚構、全てはでたらめということになりませんか」

 私は、思わずにやりとした。

「それは違いますよ。まあ、所詮は虚構、と言われれば元も子もないことは覆しようがありませんが、そういう人は小説など読まなければ良いだけの話です。あの選考が完全に作中作であるならば、皆さんだってそれを認識していなければいけないですし、探偵役の私も一言、『池君はこの世界に存在しない架空の人物です』とだけ言えば済みます。でも、実際は違うわけです。作者である私は、作品の登場人物を納得させるために、作中作の中の登場人物に幽霊という割り切れない記号を貼り付けようとしています。どうしてこんな面倒なことが必要なのでしょうか? それは、あの座談会が、作中作でありながら、この世界と全く同じレベルに位置していたからです。つまり、作者の介入なしに、この世界の視点からだけでは、今回のケースは無矛盾に説明され得ないことを頭の片隅に置いておいてください。だからこそ、こういう形式になっているとも言えます。では、もう少しわかりやすく、順番に説明していきましょう。まず、脚本形式で描かれた座談会部分について。これは、先にも言った通り、木谷栄二のからくりシリーズ第四弾における、作中作であります。第三回木谷栄二賞という、この世界において実在する賞の最終選考という設定で描かれていまして、五人の有識者が座談会を開いているわけです。そして座談会が佳境に入り、いざ最後の話し合いが始まろうかという時に、突然謎の人物が乱入してくる。ここまでです。その後、乱入した私によって、選考委員の中の一人、池始氏は交通事故で既に死亡しており、岡本氏が途中で受けた電話がそれを伝えたものだった、などの謎解きが連続して行われていくわけですが、ここで注目しなければならないのは、その作中作部分が明らかに、リアルタイムのものであり得ず、雑誌用に編集を受けたものであるという点です。それは例えば、『(笑)』という独特の表現や、文脈上意味のわかりにくい部分に『(話し合いが)』というように補足が入っているところから見てとれます。ところどころ、話の繋がりが唐突に切れている部分もあるようですし、カットされた部分もあるのでしょう。もっと身も蓋もなく言ってしまえば、最初にきちんと説明書きがあります。『先日都内某所で行われた』とね。この部分は、脚本形式でない地の文でありますから、この世界から見た座談会の位置付けを示していると見てよいでしょう。とすれば、決定的におかしなことになるわけです。私は、その『先日』行われたはずの座談会に文句をつけるため、作者の特権を生かしてその中に飛びこみ、その結果、『リアルタイム』の皆さんと会話しているのです。この世界における時間軸と照らし合わせれば、これは完全に矛盾しています。要は、新聞で競馬の結果を知ったから、それを利用して大儲けしてやった、と言っているようなものですからね。この矛盾を可能にするためには、この世界そのものが作品世界であり、フィクションであるという大前提が必要です。そして、私が作者の分身でありこの世界が虚構であることを自覚しているという点も。この構造の中、作者=メタ探偵として私が説明しなければならないのは、要するに、小説の同時性表現についてです。小説が文字を媒体としているメディアである限り、同時に起こった二つの出来事を完全に同時に記述することは出来ません。二つの場面に分けて、どちらかを先に、どちらかを後に書く必要があります。読者からしてみれば、同時に起こっている二つの出来事に、読む順序という決定的な時差を与えられ、脳内で状況を補完することを余儀なくされます。これは、小説における時間評価の限界であると言えるでしょう。しかし、それを逆手にとり、作中の時間軸と異なる順序で出来事を記述することも可能です。つまり、後に起こる出来事を先に、先に起こった出来事を後に、読者に対して提示することが出来るのです。通常、読者は無意識に小説内の正しい時間の流れを再構築しようとしますから、交錯する場面をパズルのように並べ替えて、どうにか認識の中に置こうとするでしょう。その過程で、作中時間を誤認させて読者を欺こうとする叙述トリックも知られていますね。いずれにしろ、ばらばらになったピースは作品の終了と共に必要な数だけ出揃うわけですから、最後には時間のパズルが完成し、納得出来る形での解決が提示されるわけです。ですが今回の作品は、その全く逆のパターンであると言えるでしょう。一見すると時間の上では何でもないような状況です。座談会に男が乱入してきて、そいつが何やら長々と喋り出しただけですからね。けれども、その男が乱入したからこそ、提示されてもいなかった謎が現れ出し、さらには辻褄の合わない時間観念の中に落とされ、虚構の中で更なる虚構がのた打ち回り始めます。私が座談会に飛び込んだことにより、そこで初めて、座談会は作中作へと身をやつし、この世界が無防備に表出したわけです。一見自然に繋がっていたその一連の流れこそ、この世界における時間評価を完全に狂わせてしまっており、その矛盾を説明するためには、作中に作者=メタ探偵の介入が必須となってしまったのです。つまり、私が現れたからこそ私が必要になる、という、目くるめく自己言及の構造がここに完成しているわけです。皮肉にも皆さんにとっては、選考という他人の小説に言及していく過程において、それが巡り巡って、自己の立ち位置を根底から危うくしてしまっていたのです。私が乱入するまで、あの座談会はこの世界と全く同じレベルで存在したというのに。そう、……勿論、池君も。私がどうしても池君を完全に否定できなかった理由がおわかりですね? 池君には、幽霊でも魂でも何でも良いから、とにかく何らかの形で存在していてもらわないと拙いのです。少なくとも、この世界の皆さんにとって最初から違和感のあるような存在でなかったという証言が必要だったわけです。そうでなくては、先程の指摘通り、私の介入した座談会自体が完全なる虚構であったことになり、謎解き役である私、さらにはメタ探偵としての私の存在意義が全くなくなってしまいますからね」

 私は大きく笑った。

「事件が起こるから探偵が必要なんじゃない。探偵がいるために事件が必要なんですよ。この世界では」

「そんな……」

 黒田さんが二の句を告げなくなる。もしかすると、今、この瞬間まで、私のことを正義の味方か何かだと勘違いしていたのかもしれない。

 岡本さんが、鋭い目でこちらを睨む。

「確かに、その冷徹なまでのミステリー観は後期木谷栄二作品に見られる傾向と一致していますな。しかし、だからこそわからない。どうしてあなたは、純粋な作中作に終始しなかったのですか? 作中作が嫌なら、作中作中作にでも展開すればよかったのです。どうして、矛盾という巨大な腫瘍を内側に抱えたままで、小説そのものの枠組みを鎖そうとしたんですか? 自壊は目に見えているというのに。ゲーデル問題の次は、後期クイーン的問題でも語る気ですか? そして最終的にアンチミステリーにでも辿り着くんですか? 問題作が出てくるから賛否両論が巻き起こるんじゃなく、賛否両論を巻き起こすために問題作を書く。要するにあなたは今、こういう姿勢で小説を書いていると言うわけですか」

「予定調和的皮肉をどうもありがとう」

 私が軽く言ってやると、岡本さんはぐっと悔しそうに押し黙った。

「私は昔から、書きたいものを書いているだけです。極端な話、どんな思想を伝えようと考えて書いているわけではありません。知識をひけらかす目的も無ければ、賞賛の声が欲しいわけでもない。あえて言うなら、安息のために書くのです。純文学的作品からメタミステリーにシフトした、などとよく言われていますが、初期と後期の作品群で、私自身、何らかの変化を意識したことはないのです。書きたいものを書いていたら、偶然そうなっていた、とそれだけの話。わかりますか? 書きたいものを書いていたら、偶然、それが純文学方面で絶賛された。書きたいものを書いていたら、偶然、それがメタミステリーと呼ばれるようなものだった。書きたいものを書いていたら、偶然、池始氏は交通事故で他界し、偶然、座談会は絶妙の位置に浮かぶ作中作になり、偶然、メタ探偵の必要が生じた。それだけのことですよ」

「では――」

 岡本さんが、全てを観念したように言った。

「――その中で偶然、私は木谷栄二賞の選考で不正を働く役を与えられた、というわけか」

 町村さん、黒田さん、弓削さんの三人が、瞠目して彼の顔を見た。ずっと、興味無さそうな素振りで煙草を吸っていた町村さんの反応が一番早かったのは意外だった。

 私は、少し寂しそうに笑った。探偵のために登場する悪人。それが岡本さんだった。

「どういうことか、説明してください」

 弓削さんが、何故か私に詰め寄る。最後まで、私は謎解きの役を降ろされはしないらしい。渋々、というには場慣れしすぎた饒舌さで、私は解説を始めた。

「皆さんにとっては全く無駄なだけの講釈から始めます。そもそも、池君は一体何者なのか。これについて触れさせてください。座談会を見ただけで、皆さんの肩書きは大体わかるようになっています。皆さんのことを全く知らない人でも、選考委員長の岡本さんは文芸評論家、弓削さんは本格推理作家、黒田さんは若手女流映画監督、町村さんがわかりにくいですが、ルポライターかジャーナリストであろうことまで予想できます。では、池君はどうでしょう。読者層代表のようにも見えそうですが、前日に選考委員長直々に声がかかっているわけですし、作家の端くれと言っているので、どうもそうではない。では何かと言うと、注目すべきは、来年からは木谷栄二賞をペンネームのセンスだけで選ぼうと言う冗談に対する反応です。『選考基準変わる前で良かった』と彼は言いました。これは一見、選考基準が変わる前に選考委員になれて良かった、という意味にとれますが、そうすると、次の岡本さんの返し『確かに痛切な問題かもしれませんね』がどうもしっくり来ない。そこでこれは、こう考えるのが正解だとわかるわけです。選考基準が変わる前に受賞出来て良かった、とね。彼は、切刖家というとんでもないセンスのペンネームに比べ、池始という実に大人しい名前ですから、ペンネームのセンスが決め手なら受賞出来なかったろう、と笑っていたわけです。そこから、皆さんよくご存知の通り、彼が以前の木谷栄二賞の受賞者であることがわかるのです。さらに言えば、今回が第三回で、前回は石油王が暇つぶしに書いた作品が受賞したとのことですから、池君は記念すべき第一回木谷栄二賞の受賞者なのですね。さて、そんな彼が、一体どうして事故死にもめげず、幽霊になってまで選考に加わりたがっていたのか。その猛烈なまでの志向性は、何に由来するのでしょう。結論から言えばそれは、皮肉にも、私が乱入したのと同じ動機です。つまり、『選考の公正さを守るため』。どういうことか、説明しましょう。私が最初に違和感を覚えたのは、座談会において、やけにその作品の著者に対する言及が多いことです。確かに、原稿を応募させるという形式から見て、どうやら新人賞のような色合いが強い賞らしいですから、書いたのがどこの馬の骨なのか気になるのはわかります。でも、作者の人間性に触れていては、作品そのものの評価を鈍らせるのではないかという危惧もあります。どうして毎回のように一言触れるのだろう、と不思議に思いました。そしてさらに、池君本人のセリフ。昔、黒田さんの映画にエキストラのアルバイトで出たことがある、という話の時、『莫大な遺産が転がり込んできて楽になった』と彼は言ったのです。遺産、ですからね。いかにもありそうな、貧乏生活の中で苦労して執筆した作品が木谷栄二賞を受賞し、賞金が入って楽になった、というサクセスストーリーではないのです。彼は、受賞の前に既にお金持ちになっていた、というのです。これだけだったら、波瀾万丈の一言で片付けても良かったのですが、どうにも引っ掛かる。何が引っ掛かるかと言えば、第二回の木谷栄二賞の受賞者が石油王だということです。どれだけ控え目に見ても、石油王と言うからには勿論、財産の方もしっかり持っているのでしょう。つまり木谷栄二賞は、二回続けて受賞者が大金持ちだったわけですね。ここまでなら偶然で済ませても良かったんですが、三度目の今回、岡本さんが一押ししていた『キエナイキズアト』の作者立花樹氏のことを覚えていますか? 若くしてカウンセリングセンターの所長であり、テレビにも引っ張りだこ、弓削さんによると、『かなり儲かってるみたいですよ』。また大金持ちじゃありませんか! ここまで来ると、私の仮説も牽強付会とは言えなくなって来るでしょう。選考委員が候補者と連絡を取り、木谷栄二賞を与える代わりに金銭を受け取っているのではないか、という仮説です。そしてそう考えると、池君の選考会への固執も説明出来るんです。彼は、第一回の不正の張本人ですからね。最初は軽い気持ちで飛びついたのかもしれませんが、名声をお金で買ってしまったという事実は、実際に作家活動を始めてからの彼に重く圧し掛かってきたことでしょう。不正があったのはおそらく最終選考だけでしょうから、そこまで残るだけの、ある程度の実力はあったはずです。しかし、受賞作が本当に素晴らしい作品だったのかどうか、少なくとも一流の評論家岡本鉄兵がこれをきちんと認めてくれているのかどうか、一番本質的な部分で自信を持つことが出来ないのです。他人から浴びせられる賞賛も、酷く虚無的に映ったことでしょうね。金で買った栄冠を笠に着て評価を受けているようなものですから、素直に喜べないに決まっています」

 岡本さんが、続きを引き取った。

「全くその通りです。彼は、私と取引したことを酷く悔いていました。受賞以前は随分多作だったようで、受賞作が出版された後も、ストックを加筆修正して、早いペースで短編を発表出来ていました。でも実際、新作の執筆は殆どしていなかったのです。去年の今頃からは、全く筆が進まないと嘆いていましたよ。挙句に、第一回木谷栄二賞を返上するとまで言い出しましてね。どうにか説得はしましたが、本当に参りました。選考での不正をもしも暴露されれば、私は大変なことになりますからね」

「実に犯人らしい利己的なことを言い出しましたね。もしかして、池君の交通事故というのもあなたが――」

「いや、とんでもない。そんなことは神に誓ってもやりませんよ」

 岡本さんが慌てて否定する。あまりにも出来すぎた偶然。片っ端から陰謀で埋まるよりも、それくらいの方が収まりが良いのかもしれないが。

「第一、殺すならもっと早く殺してますよ。選考委員など頼む前、木谷栄二賞の返上を仄めかした辺りでね。こんなことを言っても信じてもらえるかどうかわかりませんが、私は彼の作品が純粋に好きでした。だから、罪の意識などに押しつぶされたりせずに、作品を書き続けて欲しかったのです。それは、単なる私のエゴだったかもしれません。しかし彼も、私の熱意を感じ取ったのか、幾重にもわたる説得に耳を傾けてくれて、どうにか頑張ってやってみるということを約束してくれました。実際、今度はミステリーに挑戦するのだと、その構想を聞かせてくれたりもしました。ただ、彼がその際に条件として私に提示してきたことが二つ。一つは、次回以降の木谷栄二賞――これは、つまり今回です――の選考において、公正な審査をすること。そして、もう一つが、出来るなら彼を最終選考委員の一人に加えることでした。前者は、私の心意気次第ですからね、その場で確約しましたが、後者は私の独断で決めるわけには行きませんでした。選考の全てを私の独断で決めているわけではありませんからね。それでも何とか、万が一欠員が出たら可能かもしれない、とだけ告げて、その場は納得させたのです。そして、いざ本番。第三回の選考が始まりました。三次選考まで何事もなく進み、最終候補が出揃った次の日、選考委員の一人が突然行方不明になりました。期日までには戻ってくるだろうと高を括っていたのですが、どうにも連絡がつかない。あれよあれよと言う間に前日となってしまい、仕方なく、池君に声をかけることになったのです。何故そんな、本当に切羽詰った時期になったのかと言えば、そういう止むに止まれぬ事情があったからなのです。もしかすると戻ってくるかもしれない、という希望に縋っていたわけですね」

「……その言い方からすると、岡本さん。相当池君を選考委員に引き入れたくなかったみたいですね。やっぱり今年も不正を行っていたんですか?」

 弓削さんが、詰問するように鋭く訊いた。岡本さんは、じっと、その目を正面から受け止めて、溜息をついた。

「いや。今年は不正を行ってなどいないからこそ、池君を呼びたくなかったのです。三次選考に残ったものの内、私が本当に一番評価したのが『キエナイキズアト』だったので。作者が大金持ちだったのは、神の悪戯でしょうかね。全くの偶然。後から知ったことなんですよ。でも、そんなことを言ってもおそらく池君は信じてくれないでしょうし、そうなると、私の推薦作品に猛烈に反発してくる可能性がある。でも、そうなるとそれこそ、公正な審査であるとは言えなくなるでしょう? だからどうしても、嫌だったんです。結局、池君が選考委員の失踪の噂を聞きつけていて、声をかけざるを得なくなったんですがね」

「皮肉な話ですよね」

 黒田さんが、本当に悲しそうな顔で、続けた。ちらりと時折、岡本さんの顔色を窺っている。

「だって、池君は、公正な審査がしたかったからこそ選考委員に加わりたがっていたのに、今回はそのせいで逆に、公正性が失われそうになっていたんですから。その上、短時間で六作品も読まなくちゃいけなくなって、ずっと原稿から目が離せなくて、結局そのために交通事故で死んじゃったということになるでしょう? ……どうしてこんなことになっちゃったんですかね」

「私が言うとどうしても胡散臭くなってしまうでしょうが、全ては運命だった、としか言いようがないですね。天国から作中作に介入してまで最終選考に拘った池君の執念は素晴らしい。その遺志を汲んで、死者がいるという奇怪な状況でもあえて選考を続行した岡本さんの決断も、ある面から見れば美しいのかもしれない。しかし、結局導かれたのは、フィクション史上最大級の悲喜劇です。池君は、六作品中四作品にしか目を通していないのだから、どうしたって公正な審査は不可能でした。だからこそ私が一言文句を言いに現れ、結果全てが露見してしまった。誰の思惑も果たされないままです」

「はん! よく言うよ。あんたさえ現れなければ何事もなかった、と半ば認めていたくせによ。探偵がいるからこそ事件が起こるんだろ」

 私はゆっくり首を振った。

「どんなに見た目を綺麗に繕っていても、土台が腐り、枠組みが歪み、建材が痛んでいたのでは、城はいつか崩れ落ちてしまうのです。私は今回、局地的地震のように振る舞い、崩壊の直接の引き金となりましたが、観察者である読者が白蟻のようにここに群がっている以上、遅かれ早かれ崩落することにはなっていたでしょう。少なくとも私は、そう信じたいです」

 私はこの事件をそう締めくくり、今更ながら、本当に第三回木谷栄二賞に相応しかった作品はどれなのだろうか、と、とりとめもなく考えるのだった。岡本さんはがっくりと項垂れ、町村さんは相変わらず無関心を装って煙草をふかし、弓削さんは、苛立たしげに私の周囲をうろうろと歩き回り、黒田さんはそんな弓削さんを心配そうに見つめている。そしてここにいる五人で、もう一度最初から審査をやらないか、と誰かが言い出さないか、私はそんなことを期待してしまうのだった。今残っているこのメンバーならば、まさしく厳正な審査が出来るのではないか。名が冠されている木谷栄二本人が選考に加わることで、賞のありがたみは何倍にも増すのではないか。そんな風に考えている者も他にいるはずだ。私は確信していた。

「あの、皆さん」

 案の定、その期待を一心に背負ったように、意を決した様子で岡本さんが顔を上げた。そして、おそらく人生の中で最も楽しそうな口ぶりで、こう告げた。


「茶番はここまでにして、そろそろ私達の真実で小説を動かしませんか? この人は、鬱陶しくて適わない」

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