八方塞がり
「誰かぁ……」
魔の手を逃れた者の声が、渡り廊下の反対側、つまり吹っ飛ばされて校舎に放り込まれた数少ない生徒の呼び声が地を這って届く。
「生きている奴がいる!」
三樹は躊躇いなく階段を降りていき、自慢の脚力で行って戻る算段が出来ているようだった。
「思い切りのいい奴だ」
皮肉のこもっていない、誠実な評価を鈴見は三樹に与える。汚れの少ない上履きの立派なゴム底が廊下の床を捉え、ふくらはぎに筋肉が彫刻された。三樹が向ける足先には、まんぐり返しの輩や、くたびれたオットセイ男。ままならないといった様子で床に倒れている生徒達の中で、茶髪の少年が仁王立ち、折れた歯を舌で転がして吐き出した。蜘蛛の糸のような赤い血が口から引いて、顎にかかる。
「大丈夫か?!」
すかさず問う三樹の良心に、茶髪の少年が真っ先に反応した。
「おれ? おれは大丈夫だけど」
茶髪の少年は鉛のような息を吐き、転がるオットセイ男を指差した。
「?」
その注進に三樹が目を凝らすと、オットセイ男の陰からあの胴間声が上がる。
「たすけ、」
三樹はオットセイ男の元へ駆け寄って、おずおずと首を伸ばす。眼下に捉えたのは、ひしゃげた傘のように四肢があらぬ方向へ曲がった身体の奇抜さであり、総毛立つ身体の悪寒に尻もちをつく。
「あーらら。ソイツはもうダメだね」
茶髪の少年はそう言いきり、オットセイ男の体躯に巻き込まれたツキのなさに別れを告げる。
「ここにいると危ない。上に行くぞ」
先導役を買って出た茶髪の少年に倣い、三樹共々、一斉に階段の方へ走り出す。それぞれがの怪我の事情を汲み取って、三樹は最後尾に立って集団をコントロールする。
「驚いた」
淡々と感嘆符もなく、感情の起伏の一切を表さず出し抜けに言われれば、返答は決まってこうなる。
「なにが?」
茶髪の少年は踊り場の鈴見を見上げて言った。
「いや、五体満足でよかったね」
身を案じて発したとは思えない間に合わせの言葉が、茶髪の少年の足を止める。すると、オットセイ男がいの一番に背中を押した。
「早くいこうよ、長親」
「あ? あぁ」
皆は救助を見越して、黙々と階段を登っていく。足に一抹の疲労を覚える、五つ目の階段に差し掛かったところで、茶髪の少年もとい長親が切り出した。
「わざわざ一番上までいく必要ないだろ」
飛行機雲を求め、揃って上ばかり見ていた集団は、窓の外に張り付いた霧を一瞥し、なくなくその意見を受け入れた。屋上に出たとして、救助の目が届くはずがなく、外界に存在する未確認の生物の餌になるのがオチだ。ならば、校内で出来るだけ、時間を潰した方が安全である。
伽藍の教室に入り、朝方まで誰かが座っていたであろう、机にそれぞれ着席した。閉じ込められたといって過言ではないこの状況下で、軽薄に会話を交わす者は一人もおらず、もて余した静けさは、病院の待合室の辛気臭さを想起させる。
「はぁ」
そこかしこでひとしおに上がる湿った嘆息は、お互いに抱える認識の確認であり、命の行方について、無言でやり取りしている。誰もが薄暗い一寸先の将来に憂慮していれば一人、口を開いて言った。
「もう、九人しかいないんだね」
今髪を切ったなら、血が滲むかもしれない。それほど神経が過敏になっていて、無闇に吐かれた言葉はより鋭い緊張をもたらした。だが、長親は平静に反証する。
「いや、まだ体育館に人は残ってる」
鈴見たちは、一陣を見送ったあとに渡り廊下を踏破した二陣であり、長親たちはその後の三陣。次々と触手の被害に遭う姿を見れば、体育館に留まる人間がいてもおかしくはない。
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