過去

 忌憚ない意見を押しいただく高尚な町の掲示板である。厳かな紳士のみが書き込める掲示板ゆえ、タイムリーに交わされる会話は少ない。それでも、機智に富んだその会話は、眺めているだけで愉快で、毎夜ベッドのなかで欠かさず覗いていた。それが友へ挽歌を送り損ねた悪日だったとしても、水に流すような心持ちでお気に入りからスムースに接続する。


「あそこ治安わりぃーからな」


「なるべく近づきたくない」


「確か、自殺者の死体で人身売買をやっちまう運び屋がいるとかなんとか」


「知ってる。内丸マンションから飛び降りると、決まってその運び屋が死体を処理してくれるから、自殺の名所になってんだぜ」


 酒肴に相応しい噂話である。列挙される物騒な文字の連なりは、想像力がよく働き、背筋に冷たいものがおりてくる。


「確か電話番号とか電柱に張られてる」


「お前どうせ無職だべ? 運び屋に電話して運んでもらえよ、自分の死体」


 秘密の遊び場として選んだ小さな山に、自浄作用は期待できず、そう遠くない未来に必ず人の目に触れるという確信があった。孕んだ業の果てでなにが待ち受けていようと、そのときは笑って迎えてやろう。


「はい、こちら、あなた様の大事な大事な品を運ぶ名もなき運び屋一行の電話で御座います」


「すみません、あの」


「早まっては駄目です! 容姿端麗であろうあなた様の身体の内容物が市場に出回れば、珍妙な御仁に腸などを食されかねない。それはもう、惨鼻を極めます!」


 あらぬ空想を捲し立てられ、すっかり虚を突かれたが、全くもって筋違いの勘違いだ。


「俺は男です。それに」


 重ね重ねの認識の齟齬を正そうと、こちらも言葉を並べ立てようとするが、勢い任せに押し寄せる声の圧に屈する。


「居ますよね。声の高い男性。大丈夫です。あなた様のお声は独特ではありますが、しっかりと言葉の通る良いお声です。あ、申し遅れました。私の名前は」


 耳をこすげ落とされるような酷いノイズに襲われ、咄嗟に携帯電話を耳から離す。電話口を訝しく伺っていると、先刻とはまるで違う声の主が呼びかけてきた。藁にもすがる思いで掛けた電話だったが、雲行きの怪しさに肩が落ちる。ならず者に多大な期待を寄せるほうが元よりズレていて、見積もりの甘さが露呈しただけだ。俺は背筋を正して、再び交渉に臨んだ。


「もしもし」


「すみません、電話を代わりました」


 事の流れをつぶさに伝えるのは、些か躊躇われる。だからといって、虚飾を用いて口述する器用さもない。ならば、朴訥と端的に淀みなく云えばいい。


「死体を処理してほしいんです」


「死体? というか、お前餓鬼か?」


 掲示板での物騒な書き込みは本当のようだ。俺の提案を撥ね付けるどころか、声について気を向けるほどの度量があるのだから。


「歳を訊いてどうするんですか」


「学校で飼育していた兎を死なせたことを隠すために頼まれちゃ、馬鹿馬鹿しいからな」


 概して間違いではない。しかし、事態はもっと深刻である。


「ちゃんと人間ですよ」


 胸を張るのは甚だおかしく思ったが、皮相な倒錯は一段と声を張らせた。


「……おいおい」


 呆れたような声の調子が、未だ見ぬしかめっ面が頭に思い浮かんだ。


「場所を云うんで来てください。運び屋さん」


 家主共々出払った家で、目を盗み、忍び足で外出することはない。もっとも注意するべきなのは、偶発的に起こり得る町の住民たちとのコンタクトだ。人気の少ない、普段なら目もくれない道の闇に紛れて、指定の場所を目指す。使い慣れていない道のりで概算を立てる難しさに、携帯電話のデジタル時計と繰り返し目を合わす。ここまで神経質になるのは、人の目に触れる機会をなるべく減らすためだ。待つのも待たすのも、どちらも避けねばならない。幾度かに渡って電話をかけ、走行場所をその都度訊いた。


「そう気張るなって。楽にいこうや」


 呑気な答えを三度も引き出しつつ、示しを合わせていき、かくして指定の場所に時間通り両者が首尾よく落ち合った。路肩に停車した黒いバンのナンバーを記憶しつつ、俺が横に回ると後部座席が素早く開いた。


「今の今まで疑っていたが、こりゃあたまげた。本当に餓鬼だとはね」


 刈り上げた頭とその目付きの悪さを鑑みるに、あまり挑発的な態度を取るべきではないと分かった。だが、電話越しでも言われた、「餓鬼」をこう繰り返されると、癪に障るものだ。


「いけませんか?」


「いけねぇだろ。人を殺しちまうなんて」


 車に乗り込んだ後も、後部座席で横並びになってしまったが為に、直接ぶつけられる真っ当な意見に辟易した。


「殺したわけではないですよ。ただ、事件になることは……ねぇ?」


 助手席に座る、扇の代わりにスパナで口を隠して貴婦人を装う男が首を返して俺を見た。


「悪いお坊っちゃんだ」


 俺は直ぐに気付いた。おかしなことを立て続けに列挙して、顧客であるはずの俺を困らせた電話口の奇妙な男だ。

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