平野平

「どうして、平野平になんか」


 鵜飼は訳を説いてもらう必要があると思い、彼に聞き返す。だが、睨みを利かせた三白眼で肩先を射貫かれ、直下の疑問を説いてもらうには至らず、やおら首を捻って肩の黒ずみに再び目を落とそうとした。すると、彼に手首を掴まれ強引に引っ張られてしまう。


「な、なんですか?!」


 取り付く島もない、並々ならぬ力に誘引されてそのまま走り出された。


「ちょっと!」


 空回りしかける足をなんとか制しながら、

有無を言わさぬ彼の背中から折檻に繋がる力強さを感じる。


「絶対に振り返るなよ!」


 彼がそう言えば、首筋から頭部にかけて、獣のような荒い息が吹きかけられた。よしんば振り返ったなら、低いながらも出っ張った鼻を食いちぎられかねない。鵜飼はひたすら彼の背中を見据える。海底の藻を掻き分けるように霧の中を駆ける勢いとは、蹴り飛ばした缶が祝いの音を立てて転がるほどの必死さがあり、笑窪に歪んで跳ね上がった。草をクッションにして着地した缶の静けさを聞いた彼は、後を追うようにして横っ飛びする。鵜飼は転び掛けたものの、手で地面を押しやって、どうにかやり過ごす。が、踏み潰されて涙を流す草に足を取られる。


「痛っ」


 ついて出る言葉に合わせて尻をさすった。後ろ髪に触れる危機は、彼のとっさの機転によって通り過ぎたようだ。彼に頼りきりの鵜飼は、現状の確認に口を開く。


「助かりましたね?」


 疑問符を添えたのは、彼がアレについて詳しいと肌で感じたからである。


「どうだろうね」


 学校を仮病で休めば、疚しさに指を焦がして、昼間からテレビで映画を見ていた。殊勝なテレビ局が流すのは、子供心に火傷を負わすような凄惨さを誇示しながら、それでいて無類の映像センスと洗練された物語で作られたモンスター映画だ。今現在、そのモンスター映画を地でいく環境に身を置いている。映画の結末から云えば、カメラに映り込んだ総ての人間たちは平らげられて、異形のモンスターが優美に吠えるバッドエンドだ。


 同じ轍を踏むことは御免だが、解決の糸口はこの霧の中では見えてこない。ならば今は、途絶していた彼の質問について改めて訊くのが常套だろう。


「あの、平野平のことなんですけど」


 すっかり失念していたと彼は首をすぼめる。そして、まるで遠い昔のことをぽつぽつと語る老人のような佇まいで、やおら話し始める。


 ――エイリアンの血を被ったような、人畜無害とは言い難い緑色に変色した死体だった。月を好んで送る生活が引力となり、このような奇怪な物体と相対したのだろう。助手席と後部座席に雁首揃えて鎮座する、奴らの鼻歌気分に迎合したオレは、アクセルを深く踏み込む。仄かに膨らんだアスファルトの勾配で緑色の死体がごろりと転がった。


「やっぱり加賀美さんは頭のネジが二本、三本と外れてるねぇ」


「塩見、お前の白髪染めを加賀美に奉納しろよ」


 柳の揶揄を空笑いで受け流しつつ、殊更にハンドルの操作に集中する。


「しかしよ、もう何年も前になるが、最年少記録を叩きだした死体の山を選ぶ辺り、お前は本当に性格が悪いね」


 終わる気配のない減らず口をバックミラー越しに一瞥する。不遜な態度で後部座席に座する柳は当然ながら、シートベルトを閉めていない。オレは比較的、緩やかなカーブを荒々しくハンドルを切って、その姿勢に鞭を打った。


「おい! 運転ヘタクソか」


 ここまで来ると、愛らしく思えてきた。


「いやー、猫が横切ってね」


 今世に於いてこれほど下手な芝居を打つことは二度とないだろうな。


「んー、着いた?」


「タダラ! お前はまだ寝てろ」


 西日を集めて進む黒いバン。ヒトの骨格に皮だけを被せたような緑色の死体は、西日に当たると忽ち日照りの様相を呈した。


「陽が落ちきる前に着かせろよ」


 柳はこれ以降、無駄口を叩くのをやめ、鳴りを潜める。害した気分を早々に翻して鼻歌を歌えれば、きっとオレも柳のような手前勝手な振る舞いに準ずることが出来るのだろう。だがオレは、ただ運転に没我して、柳の注文通りに車を走らせるだけだ。


 木々が生育して緑色に染った山の鬱蒼とした景色は、傾く太陽の日差しなど簡単に阻み、柳が繰り返し「暗い、暗い」と、嘆くだけの暗闇がそこにはあった。しかし、シャベルを担ぎ、死体を担いだオレとタダラの苦労を微塵も知らない柳の悪態は、有り余る体力から捻出されたものであり、そぞろに睥睨してしまう。


「早いとこ埋めて退散しようぜ。俺等も巻き込まれかねない」


 不確定な自然現象を前に、仕掛ける側も戦々恐々とする。黒いバンを目指し足早に山を下りると、今度は柳が自らハンドルを握った。身に降りかかるかもしれない火の粉を他人の裁量で決まることを嫌った、柳らしい判断である。心配事もなく車に揺られる感覚というのは、ほかに比類するものがないほど、心地良い。いつだって、何かに追われているような気分に晒されている身の上は、目を瞑り寝息を立ててる以外に、安息はない。


 その日暮らしの生活で、テレビもろくに見ることはなかったが、電気量販店で偶さか見た、一つの町が霧に包み込まれる壮観な様子に打ち震えた。張りつめた静寂がこだまとなって背後に迫り、心は追い立てられる。絶望の澱へ――


「平野平に発端が埋まっている。だが、この濃い霧だ。土地勘もないオレには、どうしても方向感覚が分からなくてさ」


 色や匂い、着膨れした不安や恐怖が鮮やかに蘇る。名前を聞いただけで全身に起こった狼狽えを鑑みるに、その地に足を踏み入れればどのような感覚に陥るか。鵜飼は生唾を飲み込む。


「案内します。俺が」

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