嗜虐心
触手に窓を突き破られて半狂乱に至った阿鼻叫喚は、水の張った水槽が破られたようなもので、人流の流れから逃れることは些か不可能であった。目の前を通り過ぎる触手を前にして、一心不乱に渡り廊下を走り抜けた鈴見の背中を押したのは、消し去ることができない過去の経験か。
鈴見に触発された他の生徒たちも、渡り廊下を走り抜けて校舎の中へ次々と逃げ込む。燃え殻の身体を抱えて小刻みに揺れる男子生徒の恐怖は触れずとも伝わってくる。廊下の壁に星々を照射し、星座を描く黒目がちな女子生徒は太ましい脚線美をさらして目先で蛾を羽ばたかせている。
三者三様の反応は、眺めるだけの面白みがあり、鈴見はそれをねぶるように楽しんだ。出し抜けに窓の外へ目を向ける。そこには書割の霧が跋扈し、白いキャンパスを眺めているようだった。町の輪郭を描こうと何度試みても、線は途切れて形を成さない。鈴見は自覚する。どれだけ横着に毎日を過ごしてきたかを。
肩を不意に掴まれれば、誰だって不躾に感じ、眉間に不運を託つはずだ。鈴見も例に倣い、振り向きざまにあからさまな表情を作る。
「良かった! 生きていたんだな鈴見」
みだれた制服から過剰に醸す薔薇のパフュームの下品さを嫌悪する審美眼は、見知った仲とはいえ曲げるつもりはないだろう。鈴見はにべもなく臍を捻ってかわせば、色紙で型を取ったような薄い顔の女と相対した。
「あの、すっ、鈴見くん」
「誰?」
鈴見の頭をはたくように、再び肩を掴んで三樹が振り向かせる。
「同じクラスメートの浅木だろうが! そして何故におれを無視した」
三樹の最たる性質は、便器に張りつく便のようなしつこさで、黙殺しようものなら挽歌で尻を拭くことになる。だったら、此方が軟化し苦虫を潰す他ないだろう。
「三樹は偉いね。クラスメート全員の名前を把握しているなんて」
「当たり前じゃないか。このクラスの委員長なんだから」
矜持でいっそう広がった三樹の鼻の穴は、どれだけ飾り付けても見るに耐えない。そぞろに目線を外した先で、息を乱しながら渡り廊下を走る喧騒に気付く。
「ドケェ!」
血気盛んな叫び声が木霊して、既に渡り廊下を走り終えた鈴見たちの顔が一斉に揃う。
「離れたほうが良さそうだな」
鈴見は股を開いた階段の右足を速やかに登り始めると、三樹や浅木などの生徒たちが鈴見を先導者とみなし、連なって続く。そんな受動的な姿勢に鈴見は落胆した。眼前で起こり得た惨事を見逃したことも相まって、踊り場で腰を屈める。
「鈴見、どうした?」
鈴見の了見など露知らない三樹は、脇に手をかけて立ち上がらせようとする。水揚げされた魚が念仏を唱えるように、鈴見の口がブツブツと動く中、ゆくりなく、死角となって見えなくなった渡り廊下の方から、炭酸のように弾けた後続の生徒たちが飛び出してきて、階段の踊り場へ上がったことを感謝する勢いで断末魔も絶え絶えに目の前を横切っていく。
「!」
アリクイの舌さながらに興味が伸びて、鈴見は炯々と目を輝かせた。
「逃げるぞ! 鈴見」
そんな鈴見の興味を遮るように、三樹は腕を掴んで上階に連れて行こうとする。だが、興奮した犬の鼻を叩くかのような、極めて冷静沈着な手捌きで鈴見は三樹の手を払い除ける。
「大丈夫だよ。俺たちを狙っちゃいない」
渡り廊下から弾けて飛んできた数人の生徒たちが、不具合の生じた身体を引きずって、廊下の奥へ逃げようと試みている。しかし、ミミズのように伸びてくる触手によって絡め取られ、無常にも外界へ連れ出されていく。階段に上がって難を逃れた鈴見たちへ助けを求める嘆願は、無理解な衆目に晒されただけであった。
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