1-4


 結局、高校生のときに、両親は離婚した。

 おれは母と一緒に暮らすことにし、今の家から引っ越そうと決めた。都営住宅に応募したのだ。

 母は、入居を決める前に周辺の住民に聞きこみをした。その団地で奇怪な事件は起こっていないかとか、今度申しこもうとしている部屋にはかつてなにか告知事項のあるような事件は起こらなかったかとか、自殺した人はいなかったかとか、殺人事件は起こらなかったか、近所に不審者はいないか。何度も何度も周辺の住民に確認した。もちろん、おれもついていく。内見をして、明るい部屋かどうか、さわやかな部屋かどうか、息のしやすい部屋かどうか。そんな部屋がはたしてあるのか、おれはわからなかったけれども、でも考えるしかない。試行錯誤するしかなかった。

 そうやって、ここなら大丈夫そうだと思える部屋に申しこんで、引っ越した。お化けが出ないかどうかは実際に住んでみるまでわからなかったけれども、賭けるしかなかった。出ませんように。絶対に、もうお化けの出る家には当たりませんようにと。

 結果として、新居にはお化けは出なかった。

 はじめは、もちろん、半信半疑だった。けれども、一ヶ月経っても二ヶ月経っても、半年経ってもお化けが出ないので、徐々に、おれたちの傷ついた心も癒えていくようだった。クリスマスのときなど、母は小さいツリーを買って、それを居間に飾っていた。「子供じゃないんだから」って半ばあきれながら言ったけれども、でも、ツリーなんて、そんなものを、飾ろうとする気分になるのなんて、もう何年ぶりかわからない。「お祝いしたっていいでしょ」と母。なにを、なのかは言わなかったけれども、おれにはわかった。お化けが出なくなったお祝いなんだ。おれも気持ちは同じだった。「ケーキ買ってこようよ」って言った。イルミネーションがちかちかした。赤や黄色の小さな明かりが明滅するのを見ると、おれは心がやすらぐのを感じた。お化けの出ない部屋。おれがずっと求めていた、安らぎと静けさの部屋。ここが、そうだった。

 これまでの経験から、おれは夜中に聞こえるかすかな物音にも敏感になっていて、大音量で音楽を流さなければ眠れない体質になっていたのだけれども、ようやく音楽を流さずに眠れるようになった。

 母も同じだった。お化けが出てこないことに気をよくして、元のように働けるようになっていった。長いこと無沙汰をしていた職場はありがたいことに母をまた正社員として雇ってくれるようになったらしく、母は「また忙しくなっちゃったねえ」と愚痴っていたけれども、うれしそうだった。

 少しずつ、高校にも通えるようになっていった。家が安心できるところになると気持ちも落ちついてきて、勉強をするのも、まあ悪くはないかな、と思えるようにもなる。学校へいって、級友と話して、部活にはついていけそうもなかったから参加しなかったけれども、たまには数少ない友達と放課後に遊ぶ。性格のせいか、あんまり友達はできなかったし、亨くんのことがあったせいで、積極的になれなかったけれども、でも何人か、会えば話すような友達はできて、そのことはしみじみとうれしかった。

 もう、お化けは出なくなったのだ。それは本当のことだった。


 別れたあとも、父とはたまに会っていた。

 別に、もう小さい子供ではないのだから、定期的に会わなくたっていいだろうと思うけれども、父はおれに会いたがった。

 会おうと言われたって、そう簡単にハイハイと返事をする気分にはなれなかった。だがともかく、おれの学費だとか生活費だとかを折半してくれているのは父なのだ。半ば義務のように父には会っていた。

 ある日のこと、ファミリーレストランで食事をしながら、おれは父に、「あの家、今もお化けでる?」と尋ねた。父がばかにしてくるのがわかっているから、それを聞こうとするのは、相当、勇気のいることだった。けれども、

「でるわけないだろー、まだ言ってるのか」

 と、父はやっぱり、ばかにするように言った。ちっとも変わらない。はあ。やっぱりそうだ。あなたにはどうせ、わからないですよ。

 それでも、お化けの話題を避けさえすれば、父はおれのことを気にかけてくれる親だったのだ。今後はもう二度と父の前ではお化けの話は出すまいと思う。

 もくもくとスパゲティナポリタンを食べる。ケチャップの味がおれは好きだった。父が昔、休みの日に作ってくれたことを思い出す。

 ふと、隣の客の会話が耳に入ってきた。若い二人組の女性のようだ。ひそひそと声を潜めながら、

「トイレの横、あそこずっと人立ってない?」

 相手が振り返る気配がソファ越しに伝わった。なにを見ているんだろう。

「いないよ?」

「そうかな、そういう模様に見えるだけかな」

「模様? どうしたの? 疲れてるの?」

「そうかも、最近、リテイクばかりでさ……」

 胸騒ぎがした。なにが、というわけではないけれども、みょうに、その会話の雰囲気が、お化けについて語っているように聞こえたのだ。

 彼女たちの会話がべつの方面に移ったことを確認してから、トイレの方に振り返ってみる。

 黒い、ぼんやりとした、なにか。見ようによっては確かに、人が立っているようにも見える。けれども、はっきりとはわからない。黒い服を着た人であるようにも見えるし、一方で、そういう壁紙の模様や、お店の照明の具合でできた陰影だといわれてしまえば、そうだというようにも見える。身動ぎをする様子もない。人の気配がないから、やはり、模様や影なのだろう。きっとそうだ。

「どうした、軒人」

「なんでもない」

 父に向き直り、なんでもないというのを強調するようにスパゲティをフォークでかき回した。パセリを脇へのける。

 だが、父にも今の会話が聞こえていたのだろう。わざとらしくため息をついて、

「なんでも気にし過ぎなんだ。おまえくらいの歳の頃は、確かにそうなっても仕方がないかもしれないけれども、なあ軒人、お化けなんて心の弱い人間が見るものだよ」

 いつものお説教。おれはあからさまにならない程度にいやそうな顔をしながら、下を向いてウインナーの切れ端にフォークを突き立てた。ぷす、という感触が、みょうに指にひびいた。

 父は続けて、「お父さんの実家もお化け屋敷なんて呼ばれていたこともあって、そのせいで子供の頃にからかわれることもあった。でも、お父さんは家でお化けなんか見たことないぞ」と言った。

 耳を疑った。

 そんな話は一度も聞いたことがなかったからだ。子供の頃、夏になると毎年家族で行っていたあの家がお化け屋敷だったなんて。にわかには信じがたい。だいいち、あの家でお化けを見たことなんて、一度もない。

「おっ、お化け屋敷?」

「だから噂だって、そんなことはなかったんだよ、軒人、お化けなんていない」

 父はこともなげに言う。

 だがその発言は、むしろおれの推測を強化してくれた。そのほうが、辻褄は合う。そのお化けとやらの正体が、もしもおれの前に姿を現すお化け、曽祖父の顔をしたお化けと、同一なのであれば。

「ね、ねえ、そのお化けって、ひいおじいちゃんじゃないかな?」

「またその話か、軒人」

 父はおれをばかにするような顔をした。けれども、一瞬、答えあぐねるように父の言葉が止まる。なにかを言おうとして言いよどんだような、そんな間があった。

「ねえ!」

「軒人、なあ、いい加減、大人にならなきゃだめだぞ」

 父は首を振りながら言った。結局、「お化けなんて存在しないんだよ」と、いつもの主張を繰り返しはじめる。

「臆病な人が見るんだよ。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』、って言うだろ。見えないものを見ようとするのは、結局、自分の中に芯がないからでさ、芯、わかるか? 草冠に、心って書いて……」

 だが、おれはもう父の話を上の空でしか聞いていない。父の実家のこと、曽祖父の顔をしたお化け、そして父自身、本当はなにかを知っているのではないかという、ぼんやりとした感触……。


 食事のあと、

「少し歩かないか」

 と父。駅に行くまでの道を遠回りをして、大きな緑地みたいなところを歩く。正直、歩きたくなんかはない。学校帰りでくたくただった。

 緑地の中に街灯は灯っているけれども、ところどころでしかなく、全体的に、木々の暗がりのほうが濃い。おれは暗いところは怖いから歩きたくない。けれども父は、自然がいいだろうとかなんとか言って、そんなところを歩こうとするのだ。こんな緑地はなくなってしまえばいい。木は全部切ってしまったらいいのだ。怖いから。暗いところを、この世界からみんな、なくしてしまったらいい。

 遊歩道があって、湧水からできた池がところどころにある。水の流れる音が木の葉の下から聞こえる。ときおり、散歩をする人がいる。それだけだ。

 閑散としていて、もの寂しい。お化けだって、出てきてもおかしくないようなところ。出てきそうだ。お化け。

「大学、行くつもりなのか」とか「お母さんの調子はどうだ」とか、そんなことを尋ねられて、つらつら答える。なんでそんなこと聞いてくるんだろうなと思う。もっとほかに聞くことや喋ることがあるのじゃないだろうか。おれはだんだんうんざりしてきて、

「もう別れた息子なんだから、別にいいじゃん」

 と、突き放すように言ってしまった。

 言ってから、言い過ぎたかな、怒られるかも、とびくびくしたけれども、なにも言われなかった。父が頭を掻き、歩幅が少し、大きくなった。

 黙りこくりながら歩いた。スーツを着た父の靴の裏の、コツコツ鳴る音が響いている。

 なんにも話すことがなくなったせいか、ふと、先ほどのファミリーレストランでの出来事を思い出す。トイレの横にあった黒い影のこと。あそこには、確かに、真っ黒な人が立っていたようにも見えた。今になって思えば、あれは目の錯覚でもなんでもなく、やはり、お化けだったのではないか、という気がしてしまう。

 確かめればよかった。近づいて、お化けかどうか、目の錯覚ではないかどうか、確かめておけばよかった、と後悔が頭をよぎった。

 歩いていく足音が聞こえる。父の足音。その足音を聞きながら、ぼんやりと考える。どうしてそんなふうに後悔しているのだろう。お化けには会いたくないと思っていたのに、自分はお化けが好きなのだろうか? いやいや、ありえない。そうではなく、なにかヒントのようなもの……お化けの出現に対するヒントのようなものが、そこに見え隠れしているからではないか、と気がついた。

 はっとした。そうだ。ヒントのようなものだ。お化けが本当にそこにいたかどうか――は、ある意味、この際どうでもいい。いや、どうでもよくはないか。言い方が違うんだ。お化けが、あの場所に、ファミリーレストランのあの場所にいた理由は、この際どうでもいい。それから、お化けの出てくる理由も、どうでもいい。従業員に恨みがあるとか、あそこで自殺者がいるのだとか、そういうことも、どうでもいいのだ。

 問題は、、ということではないか。

 意識が、急に鮮明になった。目を見開く。答えに近づいてきている、という気がした。

 おれたちはあの家から離れて、やっとのことでお化けの出ない家に住むことができるようになった。そう思っていた。それまでは、おれたちはお化けの出る家を次々に引き当ててしまう、不幸な一家だった。そう思っていた。父と別れて今の家に引っ越して、やっとお化けの出ない家に住むことができるようになった。そう思っていた。

 けれども実際には、違うのではないか。

「父さん」

 おれは覚悟を決めて聞いた。

「お化けが出る原因は、父さんにあるんじゃないの」

 言ってから、おれは思わず、父から目線をそらしてしまう。父の顔は見られなかった。そんなことを言って、今度こそ怒りを買うのじゃないかと、恐ろしかったのだ。だが、聞かずにはいられなかった。その可能性を黙っているわけにはいかなかったのだ。

 沈黙。一分、二分、黙って歩き続けた。その沈黙が、恐ろしい。おれは顔を見られないまま、そむけたまま、歩き続けた。

 だがやがて、父は大げさにため息をつく。

「そんなわけないだろ?」

 いかにもがっかりした、みたいな感じで頭を落として、笑いながら、あきれながら、父は言い放った。おれは唇を噛む。もちろん、もうおれは、その言葉を信じることができない。

 現に、父と別れていたここ半年、おれと母はお化けに遭っていないのだ。なのに今日、このときに限って、ファミリーレストランでお化けのようなものに遭遇した。そんな都合の良いタイミングがあるだろうか。父と会っているときにだけ、お化けと遭遇するなどということが、偶然の出来事として起こりうるだろうか。

 そうだ、やはり間違いない。自分に言い聞かせる。父が原因なんだ。父がお化けを呼び寄せているか、父にお化けが憑りついているのだ。逆にいえば、父と一緒にいることさえなければ、自分はもうお化けに遭うこともなくなるのだ。お化けとは無縁の生活を送ることができるようになるはずなんだ。

「おれたちもう、会わないほうがいいよ。おれ……怖いよ……お化けに遭うの……」

 緑地は、長い。駅まではまだしばらくかかる。どうしてこんな中途半端なところで、こんな重たいことを言ってしまったのだろう。もう少し、駅に近いところで言えばよかったって、このあとずっと、気まずい沈黙に耐えていなくちゃいけないのかって、後悔した。

 父はぽつりと、

「軒人、いいか、心を強く持つんだぞ」

 といつもの調子で言った。おれはその調子に落胆する。人間はそう簡単に変わらないし、変えられないのだ。だからおれもいつものように父に言い募った。

「父さん、そうじゃないんだ、聞いてよ」

「聞いてるよ、軒人。そうだな、強迫性障害って知っているか?」

「父さん……」

 もう、おれの言うことなんて聞かないだろうな、という気がした。

「たとえば、手が汚いような気がして、手を洗わずにはいられない、一時間も二時間も洗ってしまって、生活に支障が出る、という病気があるんだ。父さんも、昔ちょっと、受験のときとかにそうなったことがあったんだが、これを治すにはどうしたらいいか。薬を飲むのもそうなんだけどな、結局は、ちょっとずつ我慢するしかないんだ。わざと汚いものに触って、手を洗わないで我慢していられる時間を少しずつ長くする。今日は十分間、我慢していられた。明日は二十分我慢しよう。そうやって少しずつ我慢していくしかないんだ」

 つまりは、おれはある種の強迫性障害だ、と言いたいのだろう。ショックだけれども、父がずっと、おれのことをそんなふうに捉えていたのだとしても、意外ではない。

「でもな、そうやって頑張っていればなんとかなるんだ。『アドヒアランス』って言うんだ。患者自身が、治ろうとする意志のことだよ。そういう意志がなければ治るものも治らないんだ。いいか軒人。お化けなんて無視するんだ。無視していれば、きっとそのうち、見えなくなる。なんにも聞こえなくなる。お化けがおまえに害を与えることなんてできなくなるんだ。きっとだ、軒人。信じるんだ。そうすれば……」

 父の声が詰まった、その瞬間、近くの池から水音が聞こえ、ぎょっとした。お化けではないか、と体が硬くなり、父にすがりついた。夕暮れの、まだ白い色の方が多くて空よりもかえって明るい水面に、波紋ができている。

「怯えすぎだよ」と父。どこか困ったように、笑いながら言った。

 だが、そんな悠長なことは言っていられない。もしお化けがいるのなら、一刻も早くこの場から逃げなくてはいけないからだ。緊張感が高まり、ふっふっと呼吸が荒くなった。

 一秒経ち、二秒経つ。なんにもない。早とちりだったか、水鳥か、魚が跳ねたかだけだったか、と考えはじめた。

 次の瞬間、池から真っ黒な腕がニュッと飛び出して、池の淵の玉石を掴んだ。体がびくっと震える。腕の下から真っ黒な顔が、その下から細長い胴体が、腕に引っ張られるようにぬっと出てくる。べちゃ、べちゃと水音を立てながら、黒い影が四つん這いでこちらに近づいてくる。

 お化けだった。おれは駆け出した。

 後ろから父が、「おおいどうしたんだ」と近づいてくる。だが待っている暇はない。逃げなくては。お化けに追いつかれたら、今度こそ殺されてしまう。全力で走った。途中で段差にけつまづいて転んで、手を思いきりすりむいてしまう。痛い。立ち上がって走った。手のひらにぬるっと、血の出ている感触。だが確かめている余裕はない。逃げなくては。息が荒くなる。喉の奥に乾いた鉄の臭い。この場から去らなくては。走る。お化けがくる。追いつかれてしまう。

「おーいおーい、軒人、おーい」

 遠くなる父の呼び声を聞きながら、やはり父なんだ、と思った。

 すべての糸が一本に繋がったようで、ある意味、爽快ですらあった。父をめがけてお化けはやってきて、父がいなくなったからお化けは出なくなったのだ。今、父と一緒にいたこのタイミングで、池からお化けが出てきたことで、はっきりと気がついた。

 どうして父がお化けに狙われるようになったのかはわからない。けれども、父が原因、もしくは原因に近い存在だと考えれば、これまでのあれこれにすべて説明はつく。父だ。父が原因なんだ。

 そう考えれば安心だった。父と会いさえしなければ、二度と、二度とお化けには遭わなくて済むのだ。

 おれはいつまでも走っていった。逃げるんだ。立ち向かう必要なんてない。逃げてさえいれば、いつか、安心できる場所までたどりつくことができるかもしれない。そう考えていた。

 父はどんどん遠くなる。小さくなっていく。お化けと一緒に。真っ黒なお化けと一緒に。どこまでも……。


        *


 それから長いこと父には会わなかった。

 父は寂しがったし、なぜ会わないのかといぶかったけれども、「父さんと会うことでまたお化けがでてきちゃうんだ」ということを何度も話し、それで納得してもらうしかなかった。父の立場からすれば、とても認めるわけにはいかない理由だろう。けれども、繰り返しそうやって断るうちに、最後には父も、おれたちと会うことを諦めたらしかった。

「いつか、そうだな、お化けを見なくなったら、会おうか」

 父は寂しそうに言うのだった。

 結果として、おれと母の家にはお化けは出てこなくなった。おれは仮説が間違っていないことを喜び、そして父と会おうとしない自分の態度に少しだけ罪悪感を懐いだきながら毎日を過ごしていた。

 「もう会わない」と息子から言われるのはどんな気持ちなのだろう。母がチェストボードの上に飾っている、三人で長崎に行ったときの写真、そこに今よりもずっと若い父と母とおれが写っているのを見ると、わずかに胸が痛んだ。家族。お化けがいなければ、今でも三人で暮らしていたはずの人たち。おれと同じ血の流れている人たち。もうふたたび、そんな写真を撮ることはない人たち……。

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