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        *


 大学を卒業して、働きだした。

 道路の車止めなんかを売る会社で、配属されたのは東京営業所。役所を回って道路だとか公園だとかを管理する部署に製品のパンフレットを置いていく仕事だ。はじめは先輩と一緒に回って、しばらくしてからは一人で回った。

「従来型と比較して、設置も取りつけも簡単ですからね」と緊張しながら説明すると、

「回覧しとくので置いといてください」

 たいていは、こうしてあしらわれる。それでも、たまには聞いてくれる人がいて、詳しく内容を聞かれることもある。自分のところの製品を覚えておかないといけないので、まずそれを暗記するのが大変だ。一方で、先輩はすらすら出てくるので尊敬する。

「もう慣れだよ慣れ。一年もやってりゃ暗記しちゃうよ」

 もっと頑張らないといけないなあと思う。地味な仕事ではあるけれども、町中に、自分の会社の車止めが置かれていたり、その車止めがぶつけられたのか少し曲がって立っていたりするのを見ると、頑張れという気持ちがした。

 初めて作った名刺は光沢紙に印刷された、照明の角度によってはきらきら光るきれいな名刺だ。

「なんだか水戸みと黄門こうもん印籠いんろうのような気がします」と言うと、先輩は、

「きみはまだ何者でもないからね?」と笑う。でもおれには、印象深い。大人になるとは、社会人になるとは、きらきら光るきれいな紙の名刺を持つことなのだ。

 持って帰って羽月に見せて、「うちの会社の名刺、こんなの」とちょっと自慢した。羽月は就職浪人になってしまっていて、おれがそういうものを見せると「きいー」と言って羨ましがる。思わず笑ってしまう。「大丈夫、すぐ決まるよ」と笑いながらなだめると、羽月は「べつにそこまで本気で羨ましがってるわけじゃないからね」とすねるのだ。

 おれたちの会社の商品が採用されることは滅多にないのだけれども、でも、事務処理の手の空いたときには色んな役所へ行って挨拶をして回った。先輩なんかはもうわりと手を抜くことを考えていて、「そんなにあくせくしなくてもいいよ」と言ってくれるのだけれども、まだ新人なのだから頑張らないとと思って、毎日そうしていた。


 就職してから一年ぐらい経って、羽月の妊娠がわかった。子供を作ろうというのはもちろん決めてはいたのだけれども、いざその事実を告げられると、うれしくなるのと同時に怖くなった。生まれてくる子供に、お化けの恐ろしさみたいなものは、絶対に味わわせてはだめだ。もうお化けは出てこないのだから、そんなことは考えるだけ意味はないのだけれども、そう強く思うのだ。

「おれ、頑張るよ、羽月」

「なに一人で頑張ろうとしてるんだ?」

 羽月に笑われる。そうだった。二人で頑張るんだ。

 羽月は赤ちゃんのためにとコーヒーを飲まないようになった。「お腹の子供にとっては良くないんだよ」と教えてくれる。

「へー。いや、へーじゃないな、そういうの、おれも勉強しないとな……なんか、羽月の前で無神経なこと、しそう」

「そんときゃ言うよ」

「いや……勉強するよ」

 羽月はデカフェのコーヒーはまずいまずいと言いながら飲み続けて、おれも羽月に合わせてカフェインの入っていないコーヒーを飲みはじめる。職場でもコーヒーを飲むのを止めたので、係長になにかあった? と聞かれる。

「彼女に合わせてるんです」

「まじめだねえー」と笑いながら茶化される。でもおれにとっては本当にそうなのだ。

「まじめでないと……なんでしょうね、たぶん……」

 お化けに脅されるような気がしているんです。とは言えなかった。でも本当だ。まじめに過ごしていないと、今の幸せが、なくなってしまうような気がしているのだ。


 ある日のことだった。

「ノキくん、最近、タンスから音がするんだけど」

 羽月が言う。少し不安そうだった。

 その頃、お腹の赤ちゃんは九週目ぐらいで、家計の足しにやってくれているスーパーでのパートも休みがちになっていた。羽月自身もかなり精神的につらそうな日々をすごしていたから、不安そうなのは気がかりだ。

「どんな音?」

「カタカタいう音」

 タンスの板が収縮して音を立てているのではないだろうか、と思った。それとも、考えたくはないけれども、ネズミだとかゴキブリだとか、そういう害獣のたぐいがいるのかもしれない。ピカピカの新築住宅ではないのだ。まだ見たことはないけれども、そんなものがいたって不思議ではない。

「どのタンス?」

 羽月はおれたちがホームセンターで買った、きりのイミテーションの、本当はプラスチックでできたタンスを指す。上は洋服をハンガーにかけて入れるようなクローゼットで、下にはこまごました小物とかが入るような引き出しになっていた。

 おれはタンスの前に膝をついた。「ネズミ、出てくるかも」と冗談めかして言ったあと、ふと、お化けのしわざかもしれない、と思った。一瞬、心がささくれだったけれども、でも、一瞬だけだ。お化けはもう過去のものになってしまっている。この家に出てくるわけはない。

 下から一つずつ引き出しを開けていった。少し、怖い。お化けはもういないはずなのだけれども、万が一ということもあるかもしれない。気を引きしめ、開けた。

 なにもない。

 開けてから、いちおう、引き出しを揺さぶって、音がしないかどうか確かめる。カタカタという音なんてしない。全部の引き出しを手前までいっぱいに引いて、もう一度、わざと音が出るように揺さぶるけれども、やっぱりそんな音はしない。ほっとした。ネズミやゴキブリがいなかったこともそうだし、それ以上に、お化けが戻ってきた可能性を否定することができたからだ。

「あーほっとした。正直さ、あの、お化け戻ってきたんじゃないかと思ってさ……。あ、いや、かえって残念かも。羽月にもお化け見せてやれると思ったのに……」

「あのさ、そんなふうに言わないほうがいいよ」と羽月はまじめな顔をする。

 そんなに心配しなくても、と思ったけれども、確かにそうかもしれない。羽月の前で泣き出してしまうくらい怖かった出来事を、いくら過ぎ去ったことだからといって、笑いごとや冗談にしてはいけないのかもしれなかった。

「そうだね。よくなかった。ごめん」

「わたしにじゃなくて、ノキくん自身に言いなさい」

「ごめんごめん。もし続くようだったら買い換えようか」

「タンスが原因なのかなー」

 少し、上ずった口調で言う。大丈夫。なんにも起こらない。自分に言い聞かせていた。


 その夜、夢を見た。

 夢の中で、夢だと気がついている夢だ。馴染みのない場所――だがおそらくは、小学生の頃、毎年行っていた父の実家――に、おれはいた。

 ずっと前からここにいて、この広い居間、大きな、汚い、カビみたいな黒ずみがあちこちにあるちゃぶ台の前に座っていて、誰かを待っているような気がしていた。なにかがこぼれたように、黒い液体が、つーっ、とちゃぶ台の上を伸び広がっていき、端から滴り落ちている。ぴし、ぴし、という、水滴の音がした。

 畳はぼろぼろで、誰かがひっかいたようにささくれだっている。上を見上げると、天井板は不思議なマーブル模様。それらはみんな、人の顔のようにも見えた。

 心細かった。放っておかれている気がした。夜なのに部屋に明かりがついていないからあたりは薄暗いけれども、どこからか差しこんでいる青い光のせいか、ぼんやりとものの文目はついた。明かりを点けたかったけれども、電気がきているのかどうかもわからない。

 家のどこかから、ぎっ、ぎぃっ、という音が聞こえてくる。歯ぎしりみたいな、布を強くこすり合わせたみたいな音。こわい。こんなところにはいたくない、お父さん、お母さんはどこにいるのだろう、と立ち上がる。音は、近づいたり遠ざかったり、動いているように聞こえる。

 こっちへきているような気がする。近づかれてしまったら、いけないような気がする。

 出よう。

 ふすまを開け、隣の部屋へ行った。床の間だ。長押の上に、先祖の肖像画がずらりと並んでいた。そこに描かれている人たちはすべてもうこの世にはいないのだと思うと、不気味だった。まるで、お化けの写真みたいで。

 あれは五代前のご先祖の顔、あれはひいおじいちゃんの顔、あれは……と、おれの見ている前で、ひいおじいちゃんの口の端が、つうっと顔の半分ぐらいまで吊り上がる。肖像画の目が、こめかみのあたりまでがり、きしきし、という、虫の鳴き声のような音が聞こえてくる。心臓が大きく跳ね、慌てて床の間を通り過ぎた。

 板敷きの廊下はぼろぼろで、あちこちにカビのような黒い大きなシミがある。歩くたび、壊れそうに鳴った。

 扉の前に着いた。その向こうから、ぎっ、ぎぃっ、という音が聞こえてくる。同時に、中からは人の声がしているような気がする。誰かいるのだろうか、お父さんやお母さんもいるのだろうか。家が暗いのは、みんな、この部屋に集まっているからなのだろうか。

 中は明るいのかもしれない。光が見たいと思って、取っ手に手をかけ、開けた。

 薄暗かった。何も見えなかった。けれども、徐々に目が慣れてくる。人がいるように見える。たくさんの人が、ひしめいているように見える。顔は、薄暗くてよく見えない。けれども、そこにいる人たちはみんな、おれの先祖たちの肖像画とよく似ているようだ。人々の手足が、ゆっくり、ばたばた動いている。痙攣けいれんしている。手足がぶつかるたび、ぎっ、ぎぃっ、という音がしている。さっきからしていたのは、この音だった。

 なんだ、これ。

 はっ、と気がついた。たくさんの人の中に、父がいる。思わず、「父さん」と声をかける。

なにしてるんだ。そんな気味の悪いところで。早くこっちにきて。出ようよ。

「父さん、ねえ」

 けれども父は気がつかない。ほかの人たちと同じように、ばたばたと手足を動かして、いつまでもいつまでも痙攣している。

 ぬるっ、とした感触が足の指に伝わった。あとずさる。床の上には、ねばねばする液体が溜まっている。近所の川の、流れの止まった一隅に、いつも溜まっている分厚いおりのようだ。どこからそんな液体があふれたのだろう。見回すと、部屋にいる人々の首のうしろに穴が空いて、そこからたらたらと液体が流れている。脊髄せきずいのあたりから。真っ黒な液体が。

 いつの間にか、父が目の前に立っていた。びくっとする。生気のない、ぼんやりとした顔が、おれのことを見下ろしている。

「おまえも須磨すますえなのだから」

 父は口を動かしていない。なのに、声が聞こえる。受話器の向こうから聞こえるような、くぐもった声。

 なんのこと。

 背中に、ひんやりとした冷たい感覚が走った。びくりとする。どろっとした、血のような体液が流れ出す感触。はっと手を伸ばす。液体に触れた指を、顔の前に持ってくる。見た。指先から、真っ黒な液体が滴っている。

 父に振り返る。その瞬間、ものすごい勢いで、父の首の周りから、どろどろと大量の黒い液体が流れ出していく。

「ひっ、のき、ヒッ、ヒッ、ヒッ……」

 おれは動けない。耳を塞ぎたくなる。

 やがて、目の前で父の形が崩れていき、あとかたもなくなり――。


 ぎっ、ぎぃ、ぎっ……。


 目を覚ました。

 まだ、父がそばにいるのじゃないか。先祖たちが部屋の中にいるのじゃないかという気がして、目を開いたまま、じっとしていた。

 夢の中で聞こえた物音が、今も、耳の奥に残っている。なにかにみつかってしまうのではないかと思うと、身動ぎすることもできなかった。

 息を殺しながら、ゆっくり、首の裏に手を回した。そこに液体がついていないか確かめたけれども、汗だけだ。真っ黒な液体はこびりついてはいない。ほっとする。ただの夢だ。

 だが、ぎっ、ぎいっ、と言う音が、聞こえた。背筋があわつ。慌てて、上半身を起こして耳を澄ます。音は、タンスのほうから聞こえてくる。

 同時に、部屋の向こうから、なにかの気配を感じた。自分以外のなにかが部屋にいる、という緊張感。

 羽月は寝ている。なにも気がついていない。起こすことはない。でも、本当は、怖い。起こして、すがりたい。ぎゅっと唇を嚙む。だめだ。自分で、なんとかしなくては。

 動悸が速くなる。まるで、生まれてはじめてお化けを見た日の夜のようだった。本能が、そこにお化けがいるのではないかということを伝えている。

 おれは自分に言い聞かせる。ネズミだ。ネズミに違いない。虫だ。ゴキブリがいて、そうだ、巣ができてる。お化けなんかじゃない。お化けはいなくなったのだ。父が連れていった。もう出ない。

 ここにはもう出ないんだ。

 総毛立っている。喉がからからに乾いて、あえぐように唾を飲みこむ。

「なんでもない。なんでもないだろ……」

 立ち上がる。もう一度横目で羽月を見る。眠っている。眠っててくれ。なんにも気づかないでくれ。

 おれのことを見捨てないでくれ。

 ぶるぶる震える。羽月を怖がらせてはいけない。それがおれの役目なのだ。守ろうと決めたのだ。

 だからどんなに怖くたって、おれは確かめないといけないのだ。そこにお化けなんていないのだということを、もう、お化けとは縁が切れたのだということを。

 おれは走るようにタンスに近づいていき、そして、ガタガタと揺れているタンスの引き出しに手をかけて、開けた。


「ノキくん、ノキくん……」

 気がついた。目を開けるのと同時に、ぶわっと汗が吹き出して、シャツが湿る。

 おれは肩に手を当てられ、揺さぶられていた。半開きの口から、乾いた息の臭いがした。

 羽月が目の前にいる。不安そうな顔でおれを見下ろしている。おれは手を伸ばして、大丈夫、という身ぶりをした。

 体を起こし、あたりを見回す。おれはタンスの前に倒れていた。気絶していたのだろう。右肩がじんじんと痛いのは、もしかすると、倒れたときに打ったせいかもしれなかった。

「おれ……どうしてた?」

 おそるおそる、羽月に尋ねた。

「叫んでたの、ずっと」

 羽月は青ざめた顔をしている。

「なんて……?」

「お化けだって、くるなって……」

 なにも覚えていない。けれども、ものすごく恐ろしいものを見たという印象だけは残っていて、それがかえって、はっきりと記憶があるより恐ろしかった。おれはなにを見たのか? なにが戻ってきたのか? 決まっている。

 お化けだ。

「羽月は、見た?」

 尋ねると、羽月はためらったように口ごもる。

「見たんでしょ?」

 見た、と言いたくないのだ。おれにはよくわかる。あれを、お化けの存在を、口にしてしまうのは恐ろしい。自分の正気や理性を、試される気がするからだ。

「タンスから、顔みたいなのが見えて、わたしが叫んだらタンスの中に引っこんだんだけど、でも、おじいさんみたいだった。年をとった感じのする、顔みたいに見えた……」

 冷たいものが、背中と胸のあたりに広がった。

 やってきたのだ。

 連中がやってきたのだ。

 どうしてこんなことが起こってしまうのかわからなかった。連中は、父に憑いていってしまったのではなかったのだろうか。原因は父なのだから、父から離れれば、お化けとは無縁の人生を送ることができるはずではなかったのか。

 仮説は間違っていたのか。また、夜に眠れなくて、部屋の隅っこや天井の端を、お化けが出てこないかどうか疑いながら、じっと眠れない目で見つめる生活に戻ってしまうのか。

 どうして、なんで、そんなことが起こるんだよ。おれは震え、怒りがこみ上げてきて、叫びたくなった。拳をぎゅっと握りしめた。涙がにじんで、それを羽月にさとられないように顔をそむけた。

 心の中で叫んだ。血管のちぎれてしまうくらい、心の中で、叫んだ。

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