2-1
「『
おれは隣にいる、同じ語学のクラスの
「死んだらどうなるとか、どうしたら死なないようにできるかとか」
「うん」
「そういうこと教えてくれるもんだと思ってたんだ」
遠野さんは春物の緑色のコートを脱がないままでいる。寒いのだそうだ。確かに、講義室は少し冷えている。
「シラバス読みなよ〜須磨くん、説明書読まないタイプでしょ」
「うん……」
大学西棟の三階の、もうすぐ取り壊しになるせいか、心なし薄暗い校舎の隅っこで行われる死生学の講義は、そのせいだからというわけでもないのだろうけれども、あんまり人気がなかった。いや、人気がないのは、たんに教授の人望がないだけだろうか。
「ドミノ肝移植とか、脳死が盛んに言われるようになったのは移植用に足りない臓器をカバーするためだとか……そんな話だとは思わなくて」
「なんで死んだらどうなるかとか知りたいの?」
「そりゃあ」
おれは言葉に詰まる。
そこに教授がきて、勢いよくドアを閉めた。助かった、とほっとする。
「今日の実習はグループワークです」
あるテーマについて、班ごとにわかれて検討しよう、と告げた。
正直、つらいなあと思う。自分の性格的に、少し顔見知りだけれども、積極的に世間話をするわけでもないというぐらいのポジションの人と話すのは、なかなか気を遣ってしまって大変なのだ。これなんかも、お化けのせいなのかもしれない。お化けがいなかったらおれは、もっと社交的な人間になれて、色んな人と話すのも、苦ではなくなっていたのじゃないか。
「さて、世界的に有名なヴァイオリニストが珍しい内臓の病気にかかってしまいました。治療には別の人間の内臓が必要となるのです。そこで、ファンの人たちがある人を誘拐し、無断で臓器を使用することにしてしまいました。目が覚めたその人は、ヴァイオリニストとパイプで繫がれてしまっていることに気がつきます。施術した医師いわく、九ヶ月間、そのままの格好で過ごしていさえすれば、ヴァイオリニストの病気も治り、その人も完璧に元通りになれるとのこと。さて、もしその誘拐された人が皆さん自身だったら、ヴァイオリニストに協力して九ヶ月間、そのまま、パイプで繫がれたままでいられるでしょうか」
「できないなあ……」
思わず感想を言うと、遠野さんは苦笑する。
「いきなり?」
「だって無関係な人だったら、いくら有名だっていったって、おれはそこまで献身的にはなれないと思うな……遠野さんは?」
そこまで話したところで教授が、「また、ヴァイオリニストが身内だった場合についても考えてみてください」と補足した。
「身内だったら、うーん……」と同じ班の人たちが悩んでいるが、おれは身内だといっても、やっぱり難しい、と考えてしまう。
一瞬、父のことがよぎって、胸が痛くなる。お化けに憑りつかれているはずの父のこと。父を見捨てる選択をして、自由になった自分のこと……そんなことが、今の話と、妙に繫がってしまう。
「わたしは協力してあげてもいいかもしれないって思っちゃうな」
と遠野さん。
「なんで? そんな……お化けに憑りつかれてるかもしれないみたいな状態、おれだったら絶対いやだよ」
「お化け?」
遠野さんはきょとんとしながら聞いてくる。あっと思い、慌ててごまかす。父のことなんて考えていたからだ。
「とにかく、いやだよ、おれは。遠野さんはどうしてそう……?」
少し強引に話題を変えて、お化けのことには触れないでおく。言ったって、どうせ信じてはくれないだろう。
えー? と遠野さんはいじわるそうに目を細める。
「わたしなんか、だって、たいした才能もないでしょー。趣味も献血ぐらいだし」
「献血?」
「自分の血が役に立つの、いいよー。須磨くんもやんなさい。薬飲んでるとできないけど、十回献血するとグラスがもらえる」
「なんでグラス……?」
「さあ? で、いっぽう、その人は世界的なヴァイオリン奏者なんでしょ? だからその人が助かったほうが、喜ぶ人がたくさんいるし、これから先も新しい曲とかを作って世の中を明るくしてくれる気がする。だからわたしなんかより、その人が助かったほうがいいよ。あ、もちろんお金ももらうけどね」
おれはうーんと唸る。遠野さんの目を見る。本当に、そんなことを思っているような気がする。
「ところでこれ、なんかの比喩ですか」と遠野さんが教授に尋ねる。
「そうですね、よく気がつきました。これはグループワークの終わったあとでお伝えしようと思っていたのですが、今年は女性の受講者も多いので、先にお話しましょう。これは妊娠のメタファーです」
あっ、そういうことか。確か赤ちゃんがお腹の中にいるのは十月十日らしい。
ちらっと遠野さんを見る……もし遠野さんだったら、お化けに憑りつかれてしまったとしても、「いいお化けだったら我慢する」とでも言うのだろうか、と考える。この人だったら、もしかするとそういうこともあるのかもしれないな、と思ってしまった。
講義のあと。いつも遠野さんは友達とご飯を食べにいっていた。「じゃあおれも一緒に」と言えるほどの、人づきあいのできる人間ではないので「また来週」と別れようと思っていると、遠野さんはたったったとおれの横に走ってきた。少しどきっとする。なんだなんだ、話したいことでもあるのかな。
遠野さんは下から覗きこむように、
「で、お化けって、なに?」
尋ねてきた。
……どうしよう。
困って目をそらす。冗談だって言おうかなと後悔する。あんまりうかつにお化けの件に触れてしまったのかもしれない。
お化けはおれの中のやわらかい部分に絡みついているし、自分の芯の部分ともしっかりくっついてしまっているから、そんな簡単に話してしまうべきではなかったんだ。
縁を切ることができたとはいえ、簡単に笑い話みたいにして話せるようになるのには、まだだいぶ、気持ちとしてはつらい部分がある。今でも、亨くんの殺されるところの夢を見る。お化けに足を引っ張られる夢を見る。
それに、話したところできっと、誰も信じてはくれないだろう、という気持ちは、いつまで経っても拭えない。
「ご飯行くんじゃないの?」と尋ねると、遠野さんは淡々と「今日はみっちーもようこちゃんも休んでんだよね」。いいのがれはできないぞ、と言っているみたいだ。
「お化けの話が好きなんだよ。実話怪談系が大好き」
「あー、いやー、ね、その……」
「ごめん、けっこう、言いたくない話?」
「いや、そうではなくて……」
口ごもってしまう。かっこわるいなと思うけれども、そんなことを、こんなふうに聞いてくる人なんて今までいなかった。緊張から、両手の指を強く曲げる。ああ、なんか、気持ち悪い、もじもじした情けないやつだな。
「それにちょっと須磨くん、冗談でそういうこと言わない人だったなって思って」
「それは……そう」
言ってしまった。「それはそう」って言ったら、冗談にできなくなっちゃうじゃないか。ああもう、どうしたらいいのかな。寒かったのに、背中に汗をびっしょりかいてしまう。
「だから。聞かして。いやだったら、いいよ、変なこと聞いちゃってごめんね」
遠野さんは気遣うように言い添えてくれる。その話し方が、すごく気を遣ってくれている気がして、ほっとする。頭ごなしに、父みたいに否定する人ではないのだろうというのがわかって、おれの言うことを聞いてくれそうだ、って思う。
遠野さんに話そう、と決めた。
それに、本当のところはきっと、おれは誰かにお化けの話をしてみたかったのだ。
おれはお化けの話をはじめた。全部ではないけれども、でも、肝心なところ、小さい頃からずっとお化けに苦しめられてきたこと、原因はおそらく父ではないかと考えられること、父と別れて以来、お化けとは遭わなくなったから、もう大丈夫だと思うのだということ、つらつらと、した。
話しづらいところ、亨くんの話のときは、遠野さんも顔を曇らせて、「つらかったでしょ」って言ってくれた。今でもお化けが怖いんだと言ったときは、うんうんと何度もうなずき、「わたしも、実際見たらお化け怖いと思うよ」って、たぶん、おれが話すことに
噓をついているんじゃないかとか、頭のおかしい人なんじゃないかとか、そんな態度は少しもなくて、最初から最後までおれの言うことを信用して聞いてくれている気がした。不思議だった。こんなふうに、おれの話を受け止めてくれる人がいるということは、今まで考えたこともなかった。でも、驚きよりもうれしさのほうがずっと上だった。話すこと、おれの体験したことを、否定しないでずっと聞いてくれたことが、ものすごくうれしい。
話しているだけで、自分の中の
「ハンカチ、使う?」
少し、いじわるそうな感じで遠野さんが言う。そりゃ、いい年の男が泣いていたら笑っちゃうだろうなと思う。いらないです、と言おうとして、言ったら嗚咽しそうな気がしたので、首を振るだけにする。かっこ悪い。やさしくしないでほしい。もう十分、助けてもらったし、話を聞いてくれて、それだけで救われたような気持ちになれた。もう大丈夫です。話を聞いてくれてありがとう。自分でも、びっくりするぐらい、感情、溜まってたみたいだ、って言おうとした。
けれども、先に、「須磨くん、お化けが出てこなくなって、本当によかったね」と言われてしまって、はっとした。
もう、父親とは別れていて、お化けのいない人生を何年も送ってきていたというのに、そんなこと、今さら言われなくたってわかっていたというのに。遠野さんに言われて、おれははじめて、本当にお化けのいない世界に、夜の闇や、家の暗がりを、必要以上に怖がらなくてもよかった、あの世界に戻ってくることができたんだ、と気がついた。そして気がついたら、ためていたものが一気にこわれて、泣いてしまった。
遠野さんがハンカチを押しつけるように渡してくれる。あとからあとから、涙が止まらなくなる。波のように、胸の方から、頭の奥の方から、ずっと凝り固まっていたなにかが押し出される。うれしかった。泣いているのに変だけれども、いや、泣くことができたからこそ、ばかみたいに、かっこ悪く泣くことができたからこそ、うれしかった。
やっと――元に戻れたんだって思った。小さかったころのおれに、怖いことなんて、なにも知らないでいられたおれに。
しばらく泣いて、落ち着くまで、遠野さんは黙って見ていてくれた。体が震えるのを止められるようになってから、「ありがとう……」と絞り出すように言う。
「そう……そう、言ってくれたの、遠野さんだけだよ……」
「話せばみんなわかってくれる……ないか、けっこう、重たい話題だしね」
「ごめんね、みっともなくて、もう少しで、落ち着くから……」
「いいよ。お姉さんが見ててやる」
からかうような顔で遠野さん。おれに必要以上に気を遣わせまいとしてくれているのがわかって、少し楽になってきたので、「一コ上だっけ?」と冗談めかして聞いた。無理したけれども、そう、冗談を言ったことで、自分でもいつもの調子に戻れた気がした。
「言わなくていいよ」
遠野さんは笑いながら言い、おれの腕をこづいた。
本当にいい人なんだなって思って、また、胸のうちからこみ上げるものがあった。それを隠すのが大変だったけれども、でも、そのときにはたぶん、もう遠野さんのことを好きになっていた。
それからしばらく経って、おれは遠野さんとつき合いだした。遠野さんみたいな誰にでも好かれているような人に「好きだ」って言ってしまったこと自体、大変無謀なことだとは思うのだけれども、でもOKしてくれたのはどういう幸運だったのかわからない。あとで聞いたら「誠実そうだから」というような答えが返ってきた。本当にそうか? あやしいものではないか? と自分でも思うけど、うれしい。
人生の中でも、一番、幸せな時間だった。そんなことがおれの人生の中で起こるのかなって、自分でも疑問だったし、幸福であることはかえっておれを不安にさせた。人間、あんまり幸せだと、不幸を感じるものだというけれども、まさにそんな感覚だった。遠野さんに限ってないだろうけれども、騙されているんじゃないだろうかとか、あるいはまた、こんなに幸せだと、お化けがやってきて幸せをぶち壊しにしてしまうのじゃないだろうかという疑いがなかなか消せなかった。
つき合ってもいいよって言ってくれた日の夜も、寝てるときにお化けが出てくるのじゃないかと不安だった。一緒に鎌倉まで旅行に行った日も、お化けが現れて遠野さんを怯えさせるのじゃないかと不安だった。
けれども、お化けは出てこなかった。本当に、おれは幸せになることができていたのだった。
大学二年の終わりに、遠野さんに同棲しようという話をした。遠野さんはかなり考えて、いいよと言ってくれた。
おれたちは新しいアパートに引っ越した。お化けが出ることを警戒して、その何日も前から不安になってしまったけれども、新しいアパートにもお化けが出てくることはなかった。
同棲してしばらくして、結婚を申しこんだ。羽月は「大丈夫?」と聞いてくれた。わたしで大丈夫? て意味だと気がついたのは、少し間をおいてからだ。大丈夫もくそもあるか。きみじゃないとだめなんだ。だから「大丈夫」なんていう返事だと、弱すぎる。ここはいっそのこ
と、「きみじゃないとだめなんだ」って言おうとして、だいぶ恥ずかしい台詞だなって思って、しりごみした。考えた末に、
「問題はないよ」って言った。
なんだそれは。
「なにがだよ」
羽月は満面の笑みで突っこむ。
「ちゃんと言えよ」
「いや、すいません」
恐縮してしまう。情けないなおれ。
「よろしくお願いしたいです……よろしくお願いします……!」
「いいよ、頑張ろう。二人でさ」
頑張らないといけないのはおれのほうだけれども、そう思う。二人でだったら大丈夫だと思う。おれは絶対に、彼女を幸せにしてやるのだ、と心に決めた。
あとは、幸せになる未来だけが待っているように思われた。おれにはもう、生首も飛び降り自殺も、池から這い上がってくる真っ黒な影も、すべて、縁遠いものになる……。
はずだった。
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