2-3


        *


 おれは、おれがお化けを見たり、お化けに遭遇してしまう、という話を、羽月を除いては、他人にはしていなかった。

 けれども、職場の後生ごしょうさんだけには、お化けの話をぼんやりと伝えていた。

 後生さんは、自身がお化けを見たことがあるだけでなく、お化けに憑りつかれたりしたこともあると、飲み会などでもあけすけにみんなに伝えていたからだ。

 そんな話をしたら、居心地が悪くなるんじゃないの、変な人だと思われるんじゃないの、と他人事ながら心配していたのだけれども、後生さんの場合、そうでもないらしかった。

「話すことで楽になんだよね、メリットのがでかい」

 自分の頭に指を突きつけながら言う。三十代ぐらいで、線の細い女性だ。長い髪の毛を後ろで縛っている。

「話すとお化けたちに輪郭りんかくが与えられる。話すことでお化けたちをある意味、外側のものにすることができるんだね。須磨君はたぶん、お化けの話をすることが、自分の悩みや変調を誰かに告白してしまうようで怖いのだと思っているんだけれど、でも、それを話さないで自分の脳みその中に溜めこんでおく方が、実は脳にとっちゃずっと悪い、とわたしは思っているんだよ。お化けは外に出しちゃったほうがいい。少なくとも、自分の頭にとっては、その方が素直なんだと思う」

 それが本当かどうかはわからないけれども、そんな話を気負いなくしてくれる後生さんには、お化けを見たことがあるのだということを、少しは話していた。

 それで、おれの家にお化けが出てきたのだ、という話をはじめたところだった。「紹介してあげよっか」

「え?」

霊能者れいのうしゃ

 なんの変哲へんてつもない顔で、「もやしがスーパーで四十円で売っていたよ。三つ葉は九十円」と伝えるような顔で言う。

「もち、ボランティアじゃないから、お金は取るんだけどねー。白龍はくりゅうちょう教会きょうかい のスーパー除霊師じょれいし。事故物件の浄化と水子みずこ供養くようが得意。あっ、教会っていうのはね、お寺のちっちゃいやつのことなんで、キリストさんじゃなくてお坊さん」

「……いえ、いいです」

「あやし〜と思ってんでしょ?」

 後生さんは笑いながら言った。

「え、え、ま……その……」

 おれは口ごもりながら言う。親切に教えてくれたのに、と心が痛いけれども、いきなりそういう人に頼るのも、というためらいがあるのだ。

「まー、いつでも言ってよ」とぽんとおれの肩を叩いてくる。

「あたしゃ、須磨くんの幸せを祈ってるぜ」

 ホッとして、

「そうさせてください」と少し前のめりに言った。


 その時点ですでに羽月とは話をしてあって、お寺に行ってお札をもらってこよう、ということにはなっていた。

「もしかすると、赤ちゃんに悪い影響、あるかもしれないじゃない」

 と羽月。とはいえ、おれは気が進まない。そんなことをしても効果はない、と知っているからだ。

 なぜなら、お札のたぐいは父と母と暮らしていた頃に、父に内緒で母が何枚もいろんなところのものを買ってあちこちに貼っていて、それでもお化けは出てきたからだ。

 なんにも効果はない。気休めだ、と自分でもわかっていることをするのが、おれにはたまらなくいやだった。けれどもそれで羽月の気持ちが楽になるなら、そうするべきだろう。

 次の休み、少し離れた大きなお寺へ行った。

 寺務所で受付をして、十三時の回のお護摩を受けた。時間になったら本堂に入って、薄暗い中、ろうそくの灯りでぼんやりと照らされる仏像の大きな顔をじっと見つめた。お護摩ごまがはじまって、お坊さんの言うことに合わせて、仏様の名前を合唱する。般若はんにゃ心経しんぎょうを唱える。お助けください、と心の中で唱える。

 太鼓たいこのどんどん鳴らされる中で、ふいに、これはきっとジャンルが違うんだろうな、という気がしてきた。なにかお願いごとを祈願するということと、お化けをはらうということは、きっと別のものなのではないか。あるいは、ご利益一覧の、厄除やくよけ、の中に、お化けのお祓いも含まれているのだろうか。そうだといいな。

 羽月に「お化け、祓えるといいね」とつぶやいた。そのつぶやいたことが現実になるように祈ったけれども、羽月も、もしかすると、おんなじように「効きっこない」と考えていたのかもしれなかった。遠いところを見ているような顔をして「うん」と言った。

 お坊さんが作ってくれた護摩札を持って帰って、ご本尊の分身だというそのお札をタンスの上に乗せ、お化けが出てきませんようにと手を合わせた。水をお供えするコップを百円ショップで買ってきて、塩と米粒を入れる器も買ってきて、羽月は「こんなんでいいのかな?」と不安そうだった。

「たぶん、いいんじゃないかな」

「だから参道の仏具屋で買っとけばよかったじゃん」と言う。怒っているようで、力なく笑っているようにも見えた。

 でも、それはなんて笑いだろう。効かない、意味がないということを、どこかで気づいてしまっている笑いのように見えて、だからいっそう、おれは苦しかった。

 手を合わせながら、この世にはお化けに効くお祓いなんてあるんだろうか、と思った。効くとはなんだろうか。お化けが祓われるとはなんだろうか。お化けが憑いているとはなんだろうか。考えてしまう。

 たとえばの話、おれは羽月に憑りついているお化けだ、と考えることもできるだろう。おれは生きているからお化けじゃないといったって、そんなのは理由にならない。

 毎日、羽月に料理を作ってもらったり、洗濯をしてもらったりと、なんらかの負担をかけて、よかれあしかれ羽月の精神にストレスを与えているおれは、羽月に憑りついているお化けだ、といっても差し支えはないのかもしれない。

 つまり、憑りついているということの本質は、「一緒にいる」ということだ、と言ってしまってもよいのではないだろうか?

 羽月が料理をしようとしていたので、「おれがやるよ」と言った。羽月は「ごめんね」と横になる。つらそうだった。

 メロンを切って、ノンカフェインのコーヒーと一緒に羽月に出す。おれはレンジでチンした白米を食べる。羽月は食欲はないというけれども、フルーツなら食べることができていたので、もそもそと起き出してメロンを食べる。冬眠から目覚めたクマみたいで少しおかしい。

「大丈夫?」と尋ねる。羽月は無言で、にっと笑う。無理して笑わせてしまった。無理して笑わないでもいい。おれはなんだかいつも羽月に、無理して笑わせてしまっている気がする。

 ご飯を食べながら考える。とはいうものの、お化けがいつでもおれと一緒にいる、というのはなにか違うような気がした。ではなんだろう。なにがあったら、お化けがおれに憑りついている、といえるのだろうか。

 たとえば、地縛じばくれいだなんて言葉もある。子供のときに、お化けについて知ろうと読んだ本でみた記憶があるのだけれども、そういう、場所に憑りついているお化けというのも考えられなくはない。であれば、憑りついているといえるのは本当は家の方であって、お化けはおれに憑りついてなどいないのではないだろうか?

 だがそうすると、次のような疑問に行き当たる。どうしておれたちは毎回毎回、お化けの出てくる家を引き当ててしまうのだろう?

 わからなかった。考えれば考えるほど、考えても仕方のないことだ、というようにしか思えない。だがそれでも考えなければならない。おれたちが幸せになるために。おれの家族が、安心して眠れるようにするために……。


        *


 護摩札を置いて、一週間ほどはなにもなかった。お札の効果があったのかな、と、思っていた。口には出さないけれども、このままなにも出なければいいと。

 朝から雨の降りそうな日だった。羽月は気分が悪いとずっと寝ていた。大丈夫? と聞いたけれども、うなずくだけでなんにも言わない。心配だった。休もっか、と提案したけれども

「有休、とりすぎでしょ」とうながされ、仕事へ行く。

 その日はたまっていた請求書を回してから、近県の三つの市役所に行って名刺を置いて帰った。昼ご飯は自分で作ったお弁当を公園で食べる。空は真っ黒で気温が低く、気圧が下がっているのかかすかに頭痛がした。おれよりも気圧に弱い羽月はもっと大変だろう。よく効くという漢方薬を、帰りに買っていってあげようか。

 定時で帰ろうとしたけれども苦情の電話が長引いて、結局、退社したのは十九時を少し回ってからになってしまって、家に着いたのは二十時ぐらいだった。

 玄関のドアを開けると、しんとしていた。いつもなら、テレビの音が聞こえているはずだったので、寝てるんだろうかと静かにドアを閉める。かばんを置き、ゆっくり、リビングのドアを開けようとした。

 ドサッ、と中でなにかが倒れるような音がした。それから、ドン、という鈍い音。慌ててリビングへ入った。

 テーブルの上に、羽月が、仰向あおむけになっていた。本やコップ、チラシのたぐい、テーブルの上に乗っていたものが床に落ちてしまっている。失神した? とも思ったけれども、目は見開かれて、白目を剝いていた。手には包丁が握られていて、刃には血みたいなどす黒い液体がべっとりついている。料理をしていたふうではない。まるで包丁で自殺を図ったみたいに、そんなふうに見えてしまった。

 間もなく、おれは悲鳴を上げた。

 羽月が、ぶるぶる震える手で、包丁を逆手さかてで持ち上げはじめる。あたかも、包丁を自分のお腹に突き刺そうとでもするかのようだった。

「羽月っ」。近づいて、包丁をもぎ取って投げ捨てる。

 体を揺さぶり、どこか怪我をしていないか確かめた。揺さぶられながらも、羽月は「ぶぶぶ、ぶぶぶ」と寝言のようなことをつぶやき続ける。

「羽月、なに言ってんだ、羽月っ……」

 耳元で叫び続ける。羽月はぶつぶつとつぶやき続けている。呪文のように。ぶぶぶ、ぶぶぶと短くうなり続けるのを聞くうち、徐々にそれが、ものすごい早口でつぶやかれているのだということがわかった。

「だってこの子があたらしいおぎしろになっちゃうんだからだってこの子があたらしいおぎしろになっちゃうんだからだってこの子があたらしいおぎしろになっちゃうんだから……」

 おぎしろ?

「何言ってんだっ」

 羽月の口の端からつーっとよだれが垂れた。夢を見ているのか、あるいは、お化けに憑りつかれているのか。ぞっとする。脳裏に、亨くんを刺した女のことがよぎる。あんなふうになってしまったのか。お化けに支配されて、なにもわからなくなってしまったのか。やめてくれよ。

 羽月の肩を叩く。「しっかりして、しっかりしてっ」と願うように声をかける。

 羽月のまぶたがふっと閉じた。同時に、なにかが戻ってきたような気がした。息をむ。それから、ゆっくりまぶたが開いていく。

 羽月の目がおれを見た。焦点が合った、という気がした。

「わ、わた……し、なにしてた……?」

 怯えていた。自分がなにをしようとしたのか、理解しているみたいだった。おれは羽月が正気を取り戻したことにホッとしたけれども、でも、なにがあったのかなんて、言えるはずがない。

「大丈夫? 怪我してない? 痛いところは?」

「ない……大丈夫……」

 力のない声だった。念のために羽月の服を脱がしてみたけれども、本当にどこも怪我をしていなかった。じゃあ、あの血は? と包丁を見ると、血はついていない。乾いたとか、拭きとってしまったとか、そういうことでもなさそうだった。見間違いだったのか? だが一方で、夢の中の父のことを思い出す。首の裏から真っ黒な液体を垂れ流している父のこと。

「お化けに、憑りつかれてたんだと思う。気を失ってて、それで白目を剝いてて、正気じゃない様子で……」

「そう……」

 ぐったりしながら言う。体を起こそうとして、起き上がる力がないのか、おれに手を伸ばしてきた。手をとると、ぶるぶる震えていた。腹の底から、お化けに対する怒りがこみ上げる。羽月をこんな目に遭わせて。どうして、なんでなんだよ。

 机からおろして、座椅子に座らせた。羽月は憔悴しょうすいし、はあはあと息を上げている。つらそうだった。右手がお腹を撫でていた。お腹の中の赤ちゃんが無事であるということを、確かめているような動きだった。

 それを見て、激高していた頭に、急に冷水をぶつけられたような気がした。おれのせいで、おれについてきたお化けのせいで、羽月に怖い思いをさせてしまった。羽月ばかりでなく、お腹の中の赤ちゃんまで。

「ごめん……」

 口をついて出た。羽月のそばで、力なくうなだれた。

 羽月は「大丈夫……」と言いながら、おれの頭に手を伸ばしてくれる。励まさなきゃいけないのはおれのほうなのに。慰めようとしてくれている。自分の無力感がうらめしかった。雰囲気を変えようと、思いつくまま、

「別なお寺行って、別なお札をもらってこよう」と言ってみた。

「うん。でも……それでもだめだったら?」

 気休めで言ったのだということぐらい自分でもわかっていたはずなのに、そのことを改めて指摘されてしまうと、自分でも動揺してしまった。

「大丈夫、羽月、大丈夫……」

 そう言うしかなかった。無力だった。まるで昔のおれ、子供の頃の、お化けに対して怯えていることしかできない自分に戻ったようだった。

 けれども、冷静に考えてみれば、わずかな間だけでもお化けが出なくなったということ、わずかな間だけでも、幸せな人生を送れるのではないかと思ってしまったことそのものが、間違いなのではないか、という気がしてきた。

 羽月と出会って、結婚することができて、子供までできて、でも、考えてみればそれは、お化けがもっとおれを苦しめるために、いっとき、手を抜いてくれただけなのではないか。

 そうして、一度そう思ってしまったら、もう止められなかった。こんなふうに幸せになろうとして、守らなければならない人まで作ってしまったこと自体、間違いだったのではないか。自分が幸せになるためだけに、おれは、羽月を巻きこんでしまったのではないか、という後悔が、あとからあとから、胸に走っていった。

 だが、ふっと置いた手のひらの下に、羽月のお腹の膨らみを感じた。その下に、おれの赤ちゃんがいるのを。はっとした。

 ちくしょう、と思った。そこにいるな。そこにいるんだな。おまえ。もうそこにいるんだな、と。こんな、情けないお父さんのところにきてしまって、でももういるんだな。

 途端に、嗚咽がこみ上げてきた。口に手をやって、泣くのをやめようと思った。こんなときに泣いたら、羽月をもっと心配させてしまう。けれども止まらなかった。おれは羽月のお腹に手を置いたまま、泣くのを止めることができなかった。

「ねえどうしたの? 大丈夫? ねえ?」

   

 羽月が慰めてくれる。変わらない。出会ったときからずっと、羽月はおれのことを心配してくれる。やさしい人だ。おれなんかより、ずっと強い人だ。

 涙のにじんだ目でお腹を見る。なんとかしなくちゃいけない。この子を不安のない世界に送り出してやらなくちゃいけない。不幸になんかしてはやらない。絶対に。おれが苦しむのはいい。おれがつらかったり、眠れなくなったりするのはかまわない。けれども、この子には、この母子には、おれのような苦しみを味わわせるわけにはいかない。くそっ。そうなんだ。絶対にそうさせるわけにはいかないんだ。

 おれがお父さんなんだ。情けないかもしれないけれども、不幸なことなのかもしれないけれども、でも、おれがきみのお父さんなんだ。

「ねえ、大丈夫? ねえ……」

「だい……じょうぶ」

 無理やり笑みを作って、羽月に聞こえるように言った。

「おれがなんとかするよ、羽月。絶対に、おれがなんとかするから」

 だから心配するなって、最後まで言えなかった。泣いてしまって、言葉にできなかったからだ。でも、噓ではない。おれは生まれてはじめて、お化けに立ち向かおうと思ったのだ。

 絶対に、なんとかしてやるのだ。


「この間お話ししていた霊能者の方、紹介してくれませんか」

 次の日、職場、昼休みでもないのに喫煙所にいる後生さんを見つけ、頭を下げる。

 後生さんは、なにもかもお見通しだ、みたいな顔をして、ふーっとタバコの煙を吐き出し、にやり、と笑った。

「そうだよ。試してみるもんなんだよ。なんでもね」

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