2-4
*
待ち合わせ場所に指定された喫茶店は、昭和の純喫茶みたいな、少し照明が暗めの、ビルの一階にあるお店だった。テーブル席の椅子がみんな、革張りの
坊主頭の人が、待ち人を探すようにおれのほうを見ていた。
「
「須磨さんですね。どうぞ」
おれは巌山さんの向かいの席へ座った。臙脂色のソファは思ったよりもずっとふかふかで、座ると腰が低い位置まで沈んでしまう。
「暑いですね」
「ええ、
巌山さんは想像よりも若い人だった。たぶん三十代半ばといったところだろうか。鼻の大きな、頭の形のよい坊主頭で、低くよく通る声をしている。巌山さんの服は、黄土色のスラックスに灰色の半袖のシャツを着ており、足元は白色のスニーカーだった。
「あの、後生さんから伺いまして、須磨といいます」
「ああどうも、巌山と申します」
巌山さんは鞄を漁って名刺入れから名刺を取り出し、きちんと両手で差し出してくる。名刺には「巌山
肩書を見て、怪訝な顔をしてしまったのだろう、巌山さんが
「まあ、いろんな人に名刺を配るのに、霊能者って書くのもあれですから」
ときまり悪そうに微笑む。
「さっそく見てみますか」と巌山さんがおれの方を真っ直ぐな目で見る。どきりとする、強い視線だった。
「あの……わたしのこと、話さなくていいんですか?」
話しておかないとわからないのじゃないか、と思いながら尋ねる。
巌山さんは目を細めて「ふうーっ」と息を吐き、おれの肩のあたりを透かして、後ろを見ているような半眼になった。
あれっ? という、不思議な気がした。うまく言えないが、その目つきは確かに、「ピントが合っている」という感じがしたのだ。「誰に」なのか、「なにに」なのかは、わからないけれども。
十秒か、二十秒ぐらいだと思う、巌山さんは固まったまま、「ふうーっ」と息を吐いた。タバコの臭いがする。
「……なんでしょうねえこれ」
巌山さんは難しい顔をし、鼻の頭を撫でながら言った。
「なっ、なにか、見えたんでしょうか」
「憑き物のようなのですが……」巌山さんは首を傾げながら言う。
「憑き物、というと?」
「そうですね……ちょっと専門的な話になってしまいますけど、
そこまで聞いて、おれは食い気味に尋ねる。
「た、確かに、わたしの曽祖父のような人がお化けとして見えることがあります。わたしに憑いた曽祖父がなにか訴えたいことがあるのでしょうか?」
だが、巌山さんは首をかしげる。
「ひいおじいちゃんですか? いや、今見えてるのはそうではないですね。なんでしょう。真っ黒な顔。天井から出てくる真っ黒な顔と、目……」
「え?」
びくっと震えてしまう。巌山さんにはお化けのことは話していないのに、当てられてしまった。
喫茶店の、茶色い角砂糖の入った器が、天井の明かりを跳ね返してあめ色に光っていた。氷のカランという音が響く。
「なんだかこれ……なんだろうな……なんだかうまくいえないのですが……」
「なん……なんでしょう?」
「感覚の問題なんで、うまく言えないんです。今までわたしが見てきたのと違うような、同じような」
巌山さんはもう一度おれの後ろを見る目をし、目をこすったり鼻をこすったり両の手のひらを両の目に当ててから見たりしたけれども、最終的には、
「わかりません……ちょっと、むずかしいですね」と、首を
「なんだかわかりません。とりあえずあなたの家を見てみましょう」
わからない、と言われて不安になる。プロの人でもわからない、ということはままあるのだろうか? とはいえ現場を見ないではなにごとも判断できないというのは当たり前の話だ。見ていただいたほうがよいのだろう。
「はい、お願いします」
「土曜日、伺います。塩三キロ、お酒を
「えっと……何に使うのですか?」
「ご供養……まあわかりやすく、お祓いに必要なんです」
お米二キロの袋を頭の中で想像して、大掛かりだぞ、と思う。いや、そういえば、お寺でお護摩を受けたときだって、祭壇の前にはたくさんのお供物が上がっていた。儀式にはそういったものが必要なのだろう。
別れぎわに、巌山さんは「大変だったでしょうねえ」といたわるように言った。おれはうなずいて、ちょっと涙が浮かんだ。
そうだ。大変だった。そのことをわかってくれただけでも、巌山さんと話せてよかったと思った。羽月も話を聞いてくれたけれども、でも、お化けが存在することを前提として生きている職業の人の、いわばプロの目線から、そういうふうに言ってもらえたことで、胸のつかえが取れたという気がした。まだなんにも、巌山さんが確実にお化けをやっつけてくれるかどうかもわかっていないのに、そう言ってもらえただけでうれしかった。
*
土曜日。巌山さんがくる時間に合わせて、米二キロを炊いた。何回も炊飯器を使って、なんとか炊いた。机の上に塩と一升瓶を用意する。塩は封を切って、お皿に全部あけてくださいという指示があったから、あらかじめ大きなお皿を買ってあった。そこに塩をみんなざばーっとあける。三キロの塩が皿にいっぺんに流しこまれるのは、「
皿の上になみなみと張られた塩を見ながら、こんなものが効くのかな、と思っていると、みるみるうちに塩が黒くなっていった。
なんだこれ。さーっと、血の気が引いた。こんなことってあるのだろうか? 湿気の問題などでは絶対にない。
塩の黒くなっている部分を指でつまんでみた。濡れているわけではない。木が焼け焦げたあとみたいな感触で、ざらざらした塩の感触ではなくなっていた。蒸し暑い部屋の中なのに、塩だけがひんやり、雪の粒になっているような気がした。
なんだよこれ。
羽月は椅子に座ってだるそうに目をつむっている。あんまり不安がらせたくなかった。
しかたがないので黒くなった塩はみんなゴミ袋に捨てて、新しい予備の塩を開封して皿の上にあける。今度の塩は黒くならなかった。でも、それがたまたまなのか、さっきの塩がおかしかったのか、区別はつかない。いたたまれない。この部屋がおかしいのだ、ということを、リトマス試験紙で測られたような、それを明示されたような、そんな感覚になる。
三時五分前に巌山さんがきた。インターホンが鳴って扉を開けると、渋そうな顔をした巌山さんが立っている。今日はお坊さんみたいな
「お暑いところすみません」
小声で言うが、巌山さんは渋そうな顔を崩さなかった。なんだろう。どうしてそんな顔してるんだろう。巌山さんがきたことで少し
巌山さんが「うーん」と唸ってなにごとか小声で言った。顔をしかめて、
「歩きづらいですね」と言う。
「な、なにがですか?」
「歩きづらいです。ここ。みんな足を引っ張ってきます」
みんなって? 足を引っ張るって? 不安になることばかり言う。怖いからやめてほしい。
巌山さんはちょっと足を振った。ちょうどそれは、緩いサンダルを履いて、海に入るから脱ごうとするときみたいだった。片手で礼をしてから靴を脱いだ。
羽月が座ったまま頭を下げる。「妻は今妊娠してて」と巌山さんに説明するも、「ええお気になさらず」と心ここにあらずといった感じだ。
すると、まだどのタンスとも言っていないのに、お化けが出てきたタンスに近づいていく。三段目、お化けの出てきたであろう引き出しに手をかけた。おれの方を見る。
やっぱり、言わないでもわかるんだ。この人ならきっとうまくいく、と思いながらうなずくと、巌山さんは引き出しを開けた。
「やっ」
巌山さんが叫ぶ。はっと身構えた。タンスの中を見ると、黒いなにかがいる。体が恐怖にこわばった。
引き出しが完全に開き切る前に、黒いなにかはタンスの奥に引っこむようにして消えていく。
「うやっ」
気合とともに、巌山さんがタンスに手を突っこんだ。逃すまい、としているのか。がたん、がたんと引き出しの揺れる音。おれはその音にびくっとした。椅子に座ったままの羽月からも、息を吞んだ気配がする。
「この野郎、逃げんな」
巌山さんはタンスに腕を突っこんでしばらく体を
その腕は日焼けをしたように真っ赤になっていた。ぎょっとして、「巌山さん」と言うと、一瞬気の抜けたような顔をしていたけれども、でもすぐにおどけて、「逃がしました」とひらひらと腕を振った。
逃がした、という出来事なのだろうか。いや、お化けが逃げていく……お化けを追い払うとは、そんなことができるのか。巌山さんだからだろうか。
勇気が
「な、なんだったのでしょうか」
巌山さんは「うーん」と唸り、
「少なくとも、わたしの領分であることは間違いないんですけれども、でもやっぱりなんだか、違うような気がするんですよねえ」
少し不安になる。だが、自分の領分だ、と言い切ってくれたことに安心した。
お祓いのための準備がはじまった。巌山さんは鞄から携帯できる机を取り出し、その上に白い布を敷いて、塩と酒と炊いた米を並べはじめた。それぞれの塩と酒と米の前には短冊をペタペタと貼って、その短冊にはなにか
おれは巌山さんにさっきのことを伝えておこうと、
「さきほどなんですが、その……塩が少し黒くなったんです。なにかあるのでしょうか」と、羽月に聞こえないようささやいた。
巌山さんは、「まあ、そういうこともあるでしょう」と、けろりと答える。なんだか、
「この部屋ならそういうこともあるでしょう。たとえばあそこにお守り、ありますね」と寝室の方を指差す。もちろん、寝室にお守りがあることなんて、巌山さんは見てもいないし、伝えてもいない。わかるものなのか。
「え、ええ」
「なんでもいいですから、一つ持ってきてくれませんか」
持ってくる。厄除けのお守りで、二つ隣の駅の大きな神社で買ってきたものだ。 巌山さんに渡すと、黙ってその封を開けてしまう。思わず「あっ」と声が出た。というのも、お守りは「封を開けると効果がなくなってしまう」ということを昔聞いたことがあったからだ。巌山さんは気にせず開けてしまう。
そんなことをしたら……とはらはらしていると、お守りの中から真っ黒な、髪の毛の塊みたいなものが出てきて、ころっと机の上に転がった。
「え?」
「こうなります。こうですからね」
髪の毛を焼いたような臭いが漂ってくる。お化けの臭いだった。こんなものを、おれは今まで寝室に置いてしまっていたのか。いやそんなことより、お化けがお守りを真っ黒にしてしまうくらい、おれたちの部屋はすでに侵食されていたのだろうか?
「それではお祓いをはじめます」と鞄の中から「
「そ、それって……?」
気味の悪い、藁人形。お祓いの儀式に登場するよりも、どちらかといえば「呪いの儀式」に登場しそうな代物だ。
「
「よりしろ?」
「ふつうは聞きませんよね。憑代といいますのは、霊なり神なり妖怪なりといったお化け的存在を憑りつける容器のことを指します。それはこうした人形であっても、あるいは人間であってもかまいません。神社であればご神木が神様が降りてくるための憑代となります」
「あれ? 神社って、いつも神様がいるんじゃないんですか?」
「それは比較的近代の考え方です。昔――中世とかその頃ですよ、神様というのは祭りのたびごとに降臨を願ったもので、社殿に常駐してはいなかったのです。神様に降臨を願うための器、憑代がご神木、というわけですね。今では神社の中にあるどでかい木、のことを指して言う方が多いですが――さて、これも
「行者って……?」
「あっ、修行の行に、者と書きます。行をする人のことですが、わたしのような霊能者のことを指すことも多いです。それで、わたしは憑き物落としのときはこの憑代を使う方法を用います。具体的には、まずはあなたに憑りついていると思われるお化けを、米や塩、お酒といった供物を使って誘い、あなたから追い出します。ですが、追い出しただけではまたあなたの元に戻ってしまう可能性があるため、追い出したお化けをこの憑代に憑りつけ、その上で追い払う、というのが、おおよそのわたしのやり方です」
ひと通り説明してくれたあと、巌山さんが呪文を唱え始めた。低い声のそれはお経のようで、なんと言っているのかはわからない。
すると突然、部屋が薄暗くなった。夕暮れのような、
羽月は不安そうな顔でおれの手を取っていたけれども、やがて短くうめき声を上げはじめた。
「どうした、羽つ……」
言葉を失った。羽月のまぶたがぴくぴくと震え、やがてぐるっと目が上を向き、白目を剝いた。白目が、なにかを見ようとするようにぎょろぎょろと右に左に動いている。口の端がぴくぴくと震え、「ううううう……」とうめき声を上げる。口からぶくぶくと泡を吹きはじめた。
「いっ、巌山さんっ、羽月が、妻が……!」
助けを求めて巌山さんを見た。
すると、巌山さんは「ええいいっ」と気合を入れ、離れたところから羽月に向かって手刀を振り下ろした。
巌山さんの手刀に呼応したかのように、「いぃいいいっ」と羽月が叫ぶ。すると首の裏から、どろどろとした液体が流れ出した。思わず羽月から手を離しそうになる。液体の中から、髪の毛や爪・歯のようなものが覗いている……いや違う。液体そのものが、髪の毛やら爪やらで構成されているのだ。ぞろり、ぞろりと、羽月の首から垂れ、床に滴って音を立てる。
「はっ、なっ、はっ……?」
「えええいいいっ」と巌山さんがふたたび気合を発した。羽月の首から流れ出した液体が、意思を持つかのように足元を流れていき、巌山さんの藁人形に吸いこまれてゆく。なんだ。なにが起こっている? 巌山さんの力が、お化けの液体を動かしたのか?
巌山さんは
次の瞬間、人形がゴムで弾かれたように跳ね上がった。藁でできた手足を床につけると、逃げ出そうとするかのように、ずるずるっと四つん這いでベランダの方に動いていく。
はっとした。窓が開いている。
直感的に、逃してはいけないと思った。逃したら、お化けはまたおれたちのところに戻ってくるのではないか。人形を止めに走る。床を這う人形を、ばしっと手で押さえつけた。ぬめっとした、藁とは思えない感触がした。
「うっ……!」
短く悲鳴を上げてしまう。気味が悪い。まるで動物の内臓に手を突っこんだような感触。藁と藁の隙間から、黒い液体が押し出されるように流れてきて、おれの手にまといついた。途端、針で刺されたような痛みが走る。
「いっ」
とっさに手を離してしまいそうになる。だがこいつを逃してはいけない。おれは歯を食いしばって人形を摑み続けた。
「そのまま押さえてて!」と巌山さん。
巌山さんが語気を強め、早口でお経を唱える。手の中で人形が、じわじわと形を変えていく感触がある。指の隙間から逃げようとしているのかもしれなかった。突き刺すような苦痛に頭が真っ白になるけれども、絶対に逃さないと力をこめて押さえ続ける。
一分、二分、そのままだっただろうか。
ふいに、手の中で人形の力が抜ける気配がした。動かなくなった? と思うと、ぱん、という音。藁人形がほどけて、ばらばらになった。
「えっ……わっ!」
慌ててあとずさった。藁が飛び散って部屋に散乱していたが、黒い液体はどこにも見当たらない。
気がつけば、それまでの部屋の薄暗さもなくなっていた。部屋の中には、夏の強い日差しが注いでいる。
「終わりました」と巌山さんは言った。
おれは慌てて羽月の元に駆け寄った。羽月はぐったりとしていたけれども、意識を取り戻したみたいで、
「またわたし、なにかあった……?」と言った。
「大丈夫。巌山さんがなんとかしてくれた。体は平気? なんともない?」
「大丈夫……気持ち悪いだけ、でもこれつわりかも……」
と言ってふふっと笑った。安心したのかもしれない。
「大丈夫です。お祓いは終わりました」
巌山さんがおれたちを安心させるように大きな声で言った。
「これは帰りにわたしが川へ捨てていきます」と言いながら、部屋中に飛び散った藁を集め、丁寧に銀紙のようなものの中にしまった。
おれはまだ動悸が収まらないでいる。巌山さんが部屋を片づけてくれるのをうろうろ手伝いながらも、まだお化けが出るのじゃないかと不安になる。巌山さんはそんな様子を見て取ったのか、にこっと笑って、「もう大丈夫ですよ、安心していいです」と言ってくれる。
「落ちついて、座っていてください」
「でっ、でも、わたしも片づけを……」
「うーん、そうだ。お茶でも入れてくれませんか?」
巌山さんが提案してくれた。そこまで言われて、はっと、気を遣ってくれているのだということに気がついた。日常的なことをして、落ち着きなさい、と言ってくれているのだ。
息を吐いた。大きく吸い、また吐く。電気ケトルに水を入れ、急須にお茶っ葉を震える手で入れていると、ゆっくり、体の緊張が取れていく気がした。そういえばと、お化けに触っていた手を、洗面所で洗った。黒い液体に触れたとき、針で刺されたような痛みがあったのだけれども、今見ると、なんともなっていない。
「落ち着きましたか。手は、そんなに洗わなくても平気ですよ。お化けはやっつけましたので、害はありません」
「すみません……」
おれの気持ちを見透かしてくれている、とありがたかった。お湯が沸いて、お茶を淹れる。
「どうぞ」とお茶を出した。
一緒に飲んだ。飲み物を飲むと落ち着いた。息が詰まっていたのが自分でもわかるようだった。熱いお茶にして正解だ。お腹があたたまると、
「あの、あれはなんだったんでしょうか」
気になって、尋ねた。巌山さんは顎に手を当てながら、「うーん」と唸る。
「おそらく、この土地の妖怪なのだと思います。妖怪という言葉が耳障りだったら、負のエネルギーとか、そういう説明でもいいです。それがこの部屋に憑りついたのでしょう」
巌山さんは
「そ、それでは、わたしには、曽祖父の顔が見えたのは、なんなんでしょうか?」
「お化けって、結局、見る人によって姿が変わるところがありますからね。須磨さんの目には、この土地のお化けが、ひいおじいちゃんの姿で見えた、ということなのかもしれません。ただ……」
「ただ?」
「ただ、影響の範囲がずいぶんとピンポイントではあるのが気になりますね。この部屋の隣も、どうも空室が多いみたいですので、もしかするとこのアパート全体が妖怪に憑りつかれているのかもしれない。ほかの部屋って、人、住んでますか?」
「……そういえば、住んでいないような気がします」
そうだった。おれたちがここへきた当初は、右隣の部屋にも初老の男性が一人で住んでいたはずだった。それがいつの間にか空室になっていて、一方で左隣の部屋は途中で一度入居があったようだけれども、ひと月もせずに出て行った記憶がある。
「それも……お化けのせいなのですか?」
「直接・間接はわかりませんが、影響は大きいでしょう。お化けは目に見えなくとも、人の精神に影響を及ぼします。この部屋にきてからなんとなく調子が悪い、蕁麻疹が出る、夜に動悸がする、エアコンの風からいやな臭いがする……たとえお化けに気づかないような人でも、そうした徴候が現れて、『なんとなくいやだな、この部屋』となることはあります。そうしたときに、出ていけるものなら出ていってしまうでしょう」
巌山さんは一息で言って、それから部屋のあちこちにするどい目線を飛ばした。おれは眉をひそめ、まだそこにお化けが残っているんじゃないかと振り返る。
「大丈夫です。一応確認をしているだけで、お化けはみんな祓いましたよ」
巌山さんは笑顔で言った。安心する。そう言ってもらえれば大丈夫だという気がした。
それから巌山さんは持ってきた組み立て式の机を片づけ、ラップで握ったご飯を鞄に入れ、「どうも」と言って出て行こうとした。慌てて謝礼を渡すと、巌山さんは「いやあどうも」と笑い、鞄の中に入れる。
帰る間際、ふと思い出して、おれは巌山さんに近づいた。疲れて寝ている羽月に聞こえないよう、万が一と小声で、
「この間なんですが、羽月が今日みたいに、正気を失ってしまったことがあって、そのとき、『この子が新しいおぎしろになる』というようなことを言っていたのですが……」と尋ねた。
巌山さんはぴくりと眉を動かした。
「おぎしろって、なんでしょうか? お化けと関係があるのでしょうか?」
「おそらくは……
ぞっとする。
じゃあ羽月はあのとき、お化けの側からものを言っていた、ということなのだろうか?
よほど心配そうな顔をしていたのか。巌山さんはおれを取りなすように肩をたたいてくれる。
「大丈夫です。もうお祓いはしましたから」
巌山さんの言葉を、心の中で繰り返す。大丈夫、と自分に言い聞かせた。
「またなにかありましたら、ご連絡ください」
巌山さんは帰っていった。扉が閉まると、疲れがどっと出て、部屋の中に寝転んだ。部屋にはまだ、日本酒の、アルコールの匂いが漂っている。
「お化け……いなくなったかな」と起きてきた羽月。おれはまだ確信がもてなかったけれども「いなくなったよ」と断言した。
口に出して言うと、お化けが本当にいなくなったような気がした。そうだ、間違いなく、おれたちはお化けをやっつけたのだ。
人形を押さえつけることで、間接的に自分もお化け退治に協力できた。それが誇らしかった。
今まで逃げ続けていたお化けに、霊能者に協力してもらったとはいえ、果敢に立ち向かっていくような勇気が自分にあったことに、おれは誇らしさを感じていた。
「大丈夫、もう大丈夫だよ」
自分を鼓舞するみたいに言った。もうお化けは出てこない。おれと巌山さんがやっつけた。
だから羽月は安心して赤ちゃんを生めるよ、とおれは思ったのだ。
一週間後。
夜の九時、居間にいて、二人でテレビを見ていた。旅行番組で、東北の特集をしている。
とっさに固まってしまう。そんなことがあるはずない。なにかの間違いだ。気のせいだって。
けれども、そうではなかった。
お風呂場の扉が、ぎっ、と音を立てて開いた。
羽月は、隣にいた。だから羽月ではない。泥棒、とも思った。むしろ泥棒であってくれ、とも思った。だが違う。そうじゃなかった。
開いた扉の、上端に近いあたりから、ゆっくり、頭が出てくる。ぶるぶると震えながら、真っ黒な頭がゆっくりと、現れた。
発作的に、息を吸いこんでしまう。頭をぐっと後ろにのけぞらせる。お化けだ。また、出てきた。効いていなかったのか。巌山さんのお祓いは無駄だったのか。なんでだ。どうして。わからなかった。
羽月を守ろうと、おれは覆いかぶさろうとした。
胴体が、見えてくる。首が、大きく曲がっている。かくかくと、関節の外れたような動きで、風呂場から出てくる。ひゅっ、ひゅっと、おれは息を吸いこんでしまう。悲鳴を上げようとして、一生懸命、嚙み殺した。
次の瞬間、お化けがすーっと迫ってきた。
「うわっ!」
思わず、顔の前に腕を突き出した。こないでくれ。こっちにこないでくれ。目をつむってしまった。
一秒、二秒。なんの音もしなかった。目を開いたら、お化けが目の前にいそうな気がして、開けられなかった。ふっ、ふっと短い呼吸をする。突き出した両腕が、ぶるぶる震えていた。
いつまでもそうしてはいられない。おそるおそる、目を開く。
いなかった。お化けは消えてしまっていた。
涙目になっていた。歯の根ががちがちと音を立てている。怖かった。震えていたのだ。勇気が萎えてしまって動けない。まだお化けがそのあたりにいるような気がして、動けない。
五分か十分か。お化けがもういないことを確認して、羽月に振り返る。羽月はおれの背中に顔をうずめたままでいた。肩を起こし、「羽月……」と小声でささやくと、ぼんやり目を開けた。
はっとした。羽月の目は、おれを見ていたけれども、おれのことは見ていなかった。諦めているような表情をしている。もうおれのことなんか頼りにできないって、そう言われているような気がして、ショックだった。
「わたし、お母さんのとこに、いったん帰るよ……」
ぼそっと言う。おれはうなずいた。しかたがない。羽月を守ろうとして、腰を抜かしてしまう男のところにいつまでもいるわけにはいかないだろう。おれはうなずいた。
けれども内心では、怯えていた。帰らないで、羽月、おれ、一人でいるのは怖いよ、怖いよ、助けて、って……。
「うん……それがいいよ羽月、落ち着くまで、そうしてなよ……」
怖いよ、怖い……羽月の肩を摑みながら、思った。どうしてこんなに情けないんだろうって、立ち向かう気概を持てないんだろうって、哀しくなった。
「帰ってたほうがいいよ、おれのことは、心配しないでいいから。落ち着いたら、いつか、また……」
帰ってこいよ、と言おうとして、言えなかった。いつになるかわからなかったから、黙ってうなずくことしかできない。
手が震える。一人ぼっちになってしまうと思って、手が震える。涙が出てきた。
「ごめんね……」と羽月は言って、泣いた。おれを一人で残すことを、申し訳なく思っているのかもしれない。
「あやまんないで、あやまんないで。おれのせいなんだから、おれの……お化けの……」
いつまでも、涙は止まらなかった。 日付が変わって、羽月はアパートを出ていく準備をした。着替えとか一式、持っていくものが意外に多い。こんなにたくさんのものがこの部屋にあったんだなって思った。羽月の使っているものはおれも一緒に使っていることが多かったので(ドライヤーとか)、そうしたものがなくなると生活を半分失ってしまう気がする。一緒にいるということは、あるものを一緒に使うことなんだなって。
家を出る前に、「巌山さんに、もう一回、お願いしてみたら」と羽月。おれは気が進まない。
一回お願いして効かなかったものを、もういっぺんお願いして、なんとかなるとは思えなかったからだ。
けれども「できることはなんでもやんないとさ」と羽月は言う。その通りだ、と思い直す。
登録してある巌山さんの電話番号を探す。朝十時。もう十分、起きている時間だろう。発信のアイコンを押した。
しばらくコール音が聞こえた。けれども、そのあとでぶつっと音が止まって、
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われていないか、もしくは……」と流れてくる。
「どうしたの?」
「……使われてないって」
発信を、切る。「間違えてる?」
「いや、この番号でやり取りしてる、記録もある。間違いないと……思う」
不安になる。つい、一週間前にやり取りしていた電話番号が、急に解約されるようなことってあるのだろうか。「なにかあったら、またご連絡ください」と言っていた人の電話番号が? まさか、とは思うけれども、巌山さんのお祓いの一件は全部が茶番で、おれは騙されていたとでもいうのだろうか。あの、藁人形の感触や、羽月が憑りつかれたようになったことも含めて? そんなばかな。そんなことがあるだろうか。けれども、おれはこの電話番号しか知らないのだから、確かめる術はない……。
その不安を見透かすように、「あのさ」と羽月。
「いやな想像だけどさ、もしかして、お化けに……」
ゆっくり羽月を見た。そんな怖いこと、言わないでほしい。
荷物をまとめて、レンタカーを借りて、羽月の実家まで送り届けた。
家につくと、お
「ちょっとそれが早まっただけです」という言い訳をした。
おれも羽月も、お化けのことは言えなかった。口に出したってどうしようもないし、信じてもらえないことはわかっていた。
羽月のいない部屋で、一人ぼっちになった。部屋の隅の柱の影が、いやに目につくようになる。羽月がいてくれたから、それらの影や暗がりを思考の外に追いやることができていたんだな、と思った。
でも、羽月はもういないから、おれは一人でその影や暗がりに向かいあうことになってしまう。そんなことはとてもできない。暗がりを消すようななにか――明かりとか、そういうものをたくさん買いこもうと、ホームセンターへ行った。
閉店間際のホームセンターは静かで、人がいなかった。家電コーナーで回っている扇風機が、首を左右にうろうろ振っている。動いてるなあと思う。動いているもの、予想外の動きをしないものは、大変よかった。大きな時計の振り子をじっと見ているうちに眠くなってしまうような感覚を思い出しながら、しばらくぼうっとした。ああ、おれはもうここにはいない。お化けも、いない。
そうだったらいいな。
明かりのコーナーなんてものはないから、ホームセンター中をめぐっていろいろな明かりを手に取った。スポットライト、デスクライト、LEDランタンにキャンドルライト、イルミネーション、月の形をした間接照明、家庭用プラネタリウムにミラーボール……。
「こんなにたくさん買って、どうするんです」
茶色の髪をした、二十代後半ぐらいのレジの男性店員が、不思議そうにおれに尋ねてくる。人の良さそうな雰囲気をしているけれども、でも今は、誰にも話しかけられたくない。
どうでもいいでしょ、と思いながら「お化けがでるんで、明るくしようと思って」と、噓だと思われてもいいや、と半ばやけくそで本当のことを言った。
店員は一瞬、ぽかんとしたけれども、「同好の士を見つけた!」みたいな笑みを作りながら、「盛り塩、やってみました?」と聞いてくる。おれは瞬きした。
「おれんちも、お化け、でるんすけど」
冗談、だと思われているのかどうか、わからなかった。店員は笑ってこそいたけれども、まじめな話をしているようにも見えるのだ。
みんな、けっこう家に、お化け出るのだろうか?
「もうやったよ」
「効かなかったすか」
「うん」
「おれもっす」と少ししょんぼりした顔で店員。
そんなもの勧めるなよ、と苦笑する。なんなのだろう。不思議と怒る気持ちにはなれなかった。案外、今のおれの気持ちをわかってくれるのは、この店員だけなのかもしれない。
部屋に戻って、どれが一番暗がりを消すことができるか試してみようと思って、買ってきた明かりを一度に灯した。まぶしい。一度に灯すものではないな。
ちかちかと点滅するイルミネーションは賑やかな気がして悪くなかったけれども、ばかみたいだから消してしまう。いや、かえってこういうばかみたいな明かりこそが、お化けには効果的なのではないだろうか。悩んだ。不安をかき消してくれるのは、どんな明かりだろうか。
家庭用プラネタリウムは部屋を真っ暗にして使う用途だったけれども、ほかの明かりで明るいと見えなかった。でも真っ暗にするときれいなのかもしれない。部屋の中に星が見えているとすごく楽しいのかもしれない。点けとこう。いつか部屋を真っ暗にできたら、そのとき、楽しくなるかもしれないから。
いろんな明かりが、いろんな光を出していた。
でも、たくさんの明かりを買ってきても、影や暗がりは光を遮る物があれば簡単に生まれてしまう。ここにも、あそこにもまだ暗闇がある。おれの見ていないとき、背後で部屋は真っ暗になり、その暗がりがもっとも恐ろしい。
もっと明かりがないといけない。部屋の隅々までを照らす明かりがないといけない。液体のように空気に染みこんでいく明かり。すべてのお化けを、出る前から出てくる気をなくさせる明かり……。
その晩、羽月から電話がきた。声を聞いたら、暗い気持ちも楽になった。ずっと声を聞いていたい。
「わたしの部屋が物置にされててさ、ひどくない? というか、早くない? 物置化」
「あー、そっか、羽月の家、ずっと同じだからね、おれの家はほら、転々としちゃってるから」
「あー、ノキくんとこはそうだっけね……あとわたしの写真がチェストボードの上に飾ってあったんだけど、遺影みたいで面白かった。ご存命だろって」
「わはは。そっちはどう? お化けでる?」
「でないよ」
明るい声だった。そのことがうれしくもあり、羨ましくもあった。
「そっか。赤ちゃん生まれるまではそっちにいたほうがいいね」
羽月と楽しく話しながら、考えてしまう。
もしもだけれども、このまま羽月と別れて暮らしていさえすれば、羽月は幸せになれるのじゃないかって。
そうすれば、確かにお化けは出ないかもしれない。でも、一人で子育てするのは大変だろう。羽月と子供に、そんな苦労はさせたくない。
「生まれたら?」
だから、子供が生まれたら、また一緒に暮らそう。そう思ったのだけれども、口をついては出なかった。どうしても出なかった。それは弱いからだけれども、おれは黙ってしまう。
もしも、羽月と別れて暮らすということが、あんまり短絡的な考えだとしても、ほかに方法がないのだったら、一つの選択肢なのではないかって。
「なに考えてんのか、わかるよ」
見透かしたように羽月は言った。みぞおちを指で突かれるようだった。
「だめだよ、ノキくん、一緒に暮らすんだよ」
「うん。ごめん」
「あやまっちゃだめ。努力するって言いなさい」
うなだれる。諭されているみたいで、その通りだった。おれが諦めかけてしまっているのを、まだ、一緒に暮らそうと言ってくれているのがうれしかった。そうしなければならない。勝手に自分の中で完結して、羽月と赤ちゃんと、二人を置いていってしまってはいけないのだ。
「努力する……いや、一緒に暮らすよ、絶対に」
「うん。それでよし」
満足そうに羽月は言った。頑張るよ。
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