本文試し読み

 縄。

 それから釘。

 ビニールシートなんかも、あったほうがいいのだろう。下が汚れてしまうだろうから。

 平日の昼間のホームセンターだ。人気がなくて、がらんとしている。

 たくさんの工具が棚に並んでいた。ビスやパイプ、用途もわからない不思議な形をした金具も並んでいる。

 なにかわからないものが並んでいるのはいいものだ。自分にはわからないけれども、用途が確かにあるんだろうということが感じられるのは。

 いい空間だった。レジも二つしか空いていなくて、店員さんも暇そうにしていた。いい空間だ。ずっとここにいられたらいい。でももう、そんなことは、自分にはできない。

 この世のどこにも、ありとあらゆる場所に、自分は留まってはいけないのだ。

 そう、なってしまった。

 縄のコーナー。

 麻紐、紙紐のたぐいはだめだろう。弱すぎる気がする。試したことなんかないけれども、すぐに切れてしまいそうだ。もっと丈夫なものがいい、といったって、どれが丈夫なロープかなんてわからない。知識もない。そのことを実施しようと考えたことでもない限り、ふつうは、ない。

 とりあえず、耐荷重のところに、体重以上の数字が書いてあるものを選ぶ。ナイロンロープのパッケージに九十kgfと書いてあるから、これがよいのだろうか。でも、kgはわかるけど、最後のfはなんだろう。

 まあいいか。

 本当はよくないのだろうけれども、でも、そんなことを人に聞くわけにもいかないし、調べる気力も湧かないから、数字の大きなものを選ぶ。細すぎず、太すぎず、適切な大きさのもの。おさまるべきところにおさまったときに、おさまりのよさそうなもの。

 釘のコーナー。

 小さい、細いものは論外だろう。でも、どのくらいの大きさであれば必要な重さを支えられるのかなんてことも、やっぱり、わからない。

 棚の上に、釘の太さについての説明書きが掲示されていた。釘の太さは、「#何番」という単位で表記されるのが一般的であるらしい。たとえば、#1番は約七mm、#21番は約〇・八mmである。あるんだなあ、こういうのが。みんな、わからないんだろうな。少しおもしろくなる。

 とはいえ、ネジという選択もある。そのほうが、トンカチでトントン叩く音で、近隣に迷惑をかけなくても済むかもしれない。

 でも冷静に考えてみれば、ネジを一本一本柱にねじこんでいくのは大変だし、電動ドライバーを買ったって、操作をいちから覚えるのも億劫だ。それに今後、二度と再利用する機会なんてないだろう。羽月はつきが後片づけをしているときに、「これは便利そうだから、とっておこう」だなんて思うことは、考えられない。

 なるべくなら、直感的に済むようにしたい。直感的に、なにもかも終わってしまうようにしたい。なにしろ、DIYするわけではないのだ。本棚とか、ラックとか、道具入れとか、そういうものを作るわけではない。

 それにどうせ、近所には迷惑をかける。騒音なんか比じゃないくらいの迷惑だ。だったらはじめから、それくらいの暴力性は覚悟しておいたほうがちょうどいいのかもしれない。

 と、そのときだった。

 釘の入った小さなパッケージが、フックにかかっていくつも並んでいる棚の奥。ほかのパッケージとパッケージの隙間から、真っ黒な人の顔が、スッ、と現れた。

 原油のように真っ黒な顔だった。目と鼻と口にあたる部分に、ぽっかり穴の空いた顔が、おれの顔を覗きにきたように、棚の横から現れた。

「うっ」

 とっさにロープを落としてしまう。顎が痙攣する。恐怖が喉元まで迫って、叫び出しそうになるのを、すんでのところで、こらえる。

 十秒か、三十秒か。一分にも満たなかっただろう。

 顔は、棚の横に引っこむように消えてしまう。あとには、なにもない。

 なにもないはずだ。棚の商品を全部下ろして、隅から隅まで調べたって、なにも出てこない。

 なにしろ、そいつはお化けなのだから。

 、お化けなのだから。

 つま先で床を叩いて落ち着くのを待って、ほどほどの大きさの釘の入ったパッケージを三つ、適当に、急いでカゴに入れた。それだけあれば、たぶん、どうにでもなる。

 それから、最後にブルーシート。濡れるだろうから、防水タイプ。五メートル程度の大きさのもの。これを敷いておけば、万一、発見が遅れても、なんとかなるかもしれなかった。とはいえ、そのことを考えると憂鬱になる。発見が遅れたあとの、壮絶な部屋に広がっている、自分だったもののこと。

 でもまあ、本当は、そんなふうになってしまった時点で、なんとかなるもくそもない。そんなふうになってしまった時点で、「気づかい」も「配慮」も「思いやり」も、なんにも説得力を持たない。どの口でものをいうのだ、という塩梅。まったくその通り。なんにも、反論することはない。

 けれどもまだ、自分が人間らしさを持っているのだと思いたいから、おれはこういう、くだらないことを、懸命に考えているのだろう。ばかげているな。おろかだし、みっともない。やめりゃあいいのに、そうしない。やめないのは怖いからだけれども、でも、そうすることでしか守れない、プライドだか、尊厳みたいな、肝心かなめのものがあるのだと……。

 考えこんでいると、ぎっ、ぎぃっ、という、骨をぶつけるような音が聞こえはじめた。

 幻聴か、空耳か、あるいは、ガーデニング売り場で、植木にシャワーで水を撒いている音が、そんなふうに聞こえてしまっているのか。おれにはもうわからない。きっと、お化けの音だ。長居しないほうがいい。早く出ていったほうがいい。そうして――。

 することを、すませたほうがいい。

 おれがいない世界の平穏のことを、寂けさのことを、妻と、生まれてくる子供のために。

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