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「一番最初の記憶はなんですか」と聞かれたら、おれ、須磨すま軒人のきひとは「お化けの記憶だ」と答えるだろう。

 それは五歳か六歳か、小学校に上がったか上がらないかくらいの頃だ。秋から冬の、肌に当たる風の重たく冷たい季節。

 その当時、母と父とおれの三人はアパートに住んでいた。トイレとお風呂が一緒の、よく虫の出るアパートだ。トイレの臭いの記憶があったから、もしかすると、下水道が整備されていなくて、浄化槽だったのかもしれない。なんにしろ、古いアパートだった。

 ある日の真夜中、おれは目を覚ました。

 外は、強い風が吹いていた。そのたびにアパートはぎしぎしと揺れて、まるで大きな動物が、屋根に乗っかって押しつぶそうとしているみたいだった。ぎっ、ぎぃっと壁の揺れる音が、枕のすぐ近くから聞こえてきていた。

 どうしてこんな夜中に、目を覚ましてしまったのだろう。

 おれは両親の間で川の字になって眠っていた。隣には、両親の体で盛り上がった布団が見える。壁にかかったいやに大きな時計の秒針の音と、母の寝息と、父のいびきが、部屋に響いていた。音といえばそれだけ。静かな、魔法のかかったような静かな世界。

 また風が吹いた。ばたばたっと窓のおさえられる音がして、体が震えた。その音で目を覚ましたのだろう。寝ぼけまなこを猛烈にこすった。もう眠れないくらい、目が冴えてしまった。

 蛍光灯の紐がゆっくり前後に動いていた。豆電球の橙色の光が、紐が目の前を横切るたびに、ちかっ、ちかっと遮られる。紐の動きはだんだん大きくなっていくようだった。誰かの乗ったブランコみたいに、勢いをつけて大きく、速くなっていく。

 どうして紐が揺れているんだろう。地震でもないのに。窓が開いているわけでもないのに。その疑問が、たぶん、自我の目覚めだったのかもしれない。

 ふつうでないことが起こっていること。これまでとは違うことが起こっていること。それがきっかけで、おれの自我が目覚めたのかもしれなかった。

 すると、天井の方から、かたっという、かすかな物音がした。おれは顔を向けた。

 そこに、真っ黒な顔があった。

 人の顔のように見えるなにか。真っ黒な、顔のような大きさのかたまりが、天井の長押の隅から、スッと現れたのだ。ちょうど、父の寝ている布団の真上あたりだった。

 それは泥棒が天井から下りてきたとか、大きなゴキブリがそこにいたのだとか、そういうことではなかった。顔だけ。胴体から切り離されたような顔だけが、天井の隅に現れたのだ。

 眠気が吹き飛ぶ。悲鳴を上げようとして、げっぷのように空気だけを吐き出してしまう。しゃっくりするようにその場を飛びのこうとした。けれども、体はまだ布団の中にいたから、脚が布団を跳ね上げるだけだった。布団を蹴り飛ばす、ばさっ、という音が聞こえる。下半身がじわっと温かくなる。漏らしてしまっている。

 顔は、男のように見えた。唇の色は真っ黒。目も、黒目と白目の文目あやめのない真っ黒な色。でも、こちらを見ているのだということがわかる。その、ぶるぶると震えている顔の中で、目だけが動かずにおれを見ているからだ。

 両親に助けを求めようとした。けれども、体が動かなかった。動かせなかった。恐怖からか、あるいは、お化けの力なのか。ぴくりとも。

 なんだ、これ。

 お化けが長押の上を動いていった。おれのほうを向いたまま、向きや角度を変えないまま近づいてくる。胃が縮み上がる。悲鳴を上げようと、助けを呼ぼうと息を吸いこんだ。

 その途端、喉に張りついていた舌が外れて、「わあああ」と悲鳴を上げることができた。

 真っ黒な顔は天井の隅に吸いこまれるようにして消えた。

 時間にして、五分も経ってはいなかったのだろう。それなのに、ものすごい長い間、お化けと見つめ合っていた気がした。

 もう、お化けはいなかった。ただ、豆球のぼんやりとした明かりだけが、あたりを照らしている。紐の揺れが、ゆっくり、収まっていく。

 髪の毛を燃やしたようないやな臭いが、部屋の中に立ちこめていた。両親が、おれの悲鳴を聞いてもそもそと、目を覚ます気配がする……。

 それがはじまりだった。お化けとおれとの長い因縁の、最初の日。


        *


 八歳の秋、両親はアパートを引き払い、中古のマンションへ引っ越した。おれが成長して、手狭になってきたからというのがその理由だった。

 恐ろしい思い出のあるアパートを引っ越すことができておれはうれしかった。このアパートのせいで、子供ながら不眠症みたいになってしまったのだ。

 寝ているときに、不思議な音のするアパート。ふと目を覚ましたときに、目の前にお化けの顔があるアパート。一人でいるとき、部屋の隅に、真っ黒な水たまりのようなものが溜まっていて、そこからお化けの顔が浮かんでくるアパート。そんなところにいて、落ちついて過ごすことのできるわけはなかった。

 べつのところに行きたい、家を変えて、お化けの出ないところに住みたい。そう主張したことは何度もあった。だが母も父も子供のいうことだからと耳を貸さなかった。信じてくれないのだ。軽く思われていることが悔しかった。

 だから「引っ越すよ」と言われたときの喜びようったらなかった。

 家具を出してしまってガランとしたアパートを見たとき、この部屋のどこかにまだお化けがいるのだろうかと思った。天井の隅や、柱の陰、トイレの扉の奥、シンクの下の収納の暗がりに。ありとあらゆる暗がりに。おれの見ていない視界の後ろに。

 まだそこにいるのだろうか?

 母がアパートのドアを閉める。部屋に閉じこめられたお化けが、漫画みたいに涙を流して残っているところを想像した。

 ざまあみろ。おまえはまだここにいて、おれたちを追いかけてはこれないんだぞ。やった。ふふふ。やっと昼寝をしたり、息をしたり、目をつむっていても、大丈夫なようになれるんだ。ふふふふ。愉快だ。笑っちゃう。

 引っ越し先は十階建てのマンション、縞ぶどうヶ丘ハイツの二階。白い外壁は太陽光を跳ねて檸檬色に輝いていた。ゲームに出てくる神殿みたいで、神聖そのもののようだった。

 新居も光り輝いていた。おれにはお世辞抜きにそう思えた。2LDKのマンション。入ってすぐ右に洗面所。廊下。リビングの壁紙の色も白。大きな茶色いソファは入居に合わせて購入していたものだ。窓から外は隣のマンションが見える。少し離れたところに、電車の操車場。電車が音を立てずに止まっている。動かない電車は、眠っているクジラみたいだった。

 お化けがいないというだけで住まいはどんなに魅力的に見えることだろう。おれは新しい部屋で文字通り飛び跳ね、父に怒られるまで何度も何度も飛び跳ねていた。

 ある秋の朝のこと。「隣のA棟の村内むらうちさん、いるじゃない」と食事中に母が言った。

 父は思い出すように少し間を空け、梅干しを噛む。

「管理組合の」

「そうそう、村内さんね、眠れないんだって」

「ふうん」

 椅子に座り、テーブルに着いている。三人とも、パジャマのままだ。朝食の神秘。パジャマのまま朝食を食べるのは、睡眠の続きみたいで好きだった。

「聞いたらね、最近、お化けがいるんだって」

「ふーん」

 突然の言葉におれは動揺した。トーストを持つ手が震え、マーガリンを塗るやつを落としてしまう。勢いこんで尋ねた。

「どっ、どんなの?」

「なんかねー、死んだ叔母さんなんだって、ああこれあんまり言わないでねって言われてたやつだけど。恨みでもあるのかなーって。遺産のねえ、分割でねえ、ちょっと揉めたからって、それで毎日、疲れててさあって言ってて」

「そういう人、多いよね」

「えっ」

 トーストに塗られたジャムのかたまりを、ぼとりと、テーブルに落としてしまう。血みたいに、いちごのゼリーが光った。

「確かに、変な人が多いのよね。こないだもさ二階の廊下で、顔腫らした人が歩いてきて、どうしたのかな、って思ったら、そこの家、旦那さんが、ちょっとね」と母。右拳を握って、空中を殴るようなジェスチャー。

 そういう話を聞きたいんじゃない。お化けの話に繋がらなかったので、おれは少し不満になる。とはいえ、近所には確かにいわゆる不審者が多くて、夜昼関係なく叫んでいる人がいたり、子供にお菓子をあげようと声をかける人がいたりした。

「そういう人、みんな、お化け見てるのかしらね」

 前夜の残りの肉じゃがを、一人だけつつきながら母。

「そんなことはないだろう。みんなそれぞれ、疲れてるんだよ。それぞれね」

「お化け出たって、それ、どこ?」

 お化けの場所の話に戻そうと聞いた。

「村内さんちよ、隣のA棟の。ああ、軒人、お化け嫌いだものね」

「嫌いとか、そういうレベルじゃないんだよ。ねえ、どこで出たって?」

「村内さんちだけよ。家にね、出たんだって。でもそれだけよ」

 母は面倒そうに、もうその話を続けるな、と言わんばかりにぴしゃりと言った。納豆をかき混ぜる、しゃわしゃわという音がする。

「ねえそれ、駐車場の雑木林とかじゃないの?」

 駐車場の雑木林というのは、おれが恐れていたマンションの片隅の場所のことだった。駐車場の脇にあって、北東側にあるせいかいつも日の当たらず、じめじめとした場所。十㎡程度の雑木林は、手入れはされているのだろうけれども、落ち葉が溜まっていたり、空き缶やゴミが捨てられていたり。おまけに片隅には、古ぼけて苔むした石の灯籠があって、古寺の境内にある石の像を連想させる。全体的に、どことなく気味が悪かった。

 なかでも、「脳みそばばあ」なるお化けが棲んでいるという噂は、とくにおれを震え上がらせた。

 脳みそばばあは身長が三メートルはある、人間の脳みそを吸いとってカラカラに干からびさせてしまうという妖怪だった。同級生のとおるくんたちは、「軒人ー、おまえ、脳みそばばあ、怖いんだろ」と言っておれをからかってきた。お化けの話をされると顔をこわばらせてしまうということに気づいていて、よくその話をネタにいじってくるのだった。だからおれもみんなの前ではその存在をばかにしていた。

 けれども、本当は怯えているのだ。なにしろ、お化けは漫画や映画の中に登場するだけの存在ではなく、本当にこの世に実在するのだということを、おれはもうすでに知っているのだから。

 毎日学童から帰ってくる午後六時頃、特に冬になって日も落ちるのが早くなって、マンション駐車場の街灯が胡乱な水色で灯るような時間になると、なるべくその雑木林からは離れた階段を通って、自分の部屋に向かうようにしていたのだった。

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