1-2
*
小学三年生の、ある冬の日のこと。おれは学童からの帰りにマンションの階段を登っていた。もうすぐ冬至なのであたりは薄暗い。明るいエントランスを抜けて共用廊下に出ると、明るさの違いが大きなシンバルを打ったように感じられた。暗いところは嫌いだ。足早に自分の部屋に向かう。
気温は十度を下回っている。寒い。指がかじかむので、ポケットに突っこみながら歩く。駐車場の街灯は、切れかかっているのか点いたり消えたりしていた。おれはどうして街灯の電球を替えないんだろうと不思議に思い、またその明かりの一瞬の明暗が作る雑木林の暗闇を不安に思いながら、小走りでマンションの廊下を通っていた。暗いところにはお化けが出る。そういうものだということを、おれは実体験として知っているからだ。
あと少しで部屋の前だ、という段になって、雑木林の方から、「ひー、ひー」という、女性の泣き声のようなものが聞こえてきた。直感的に、脳みそばばあではないかと体が震えた。ポケットの中で、拳をぎゅっと握りしめる。
このまま部屋に帰ってはいけない。見られたらいけない。もし本当に脳みそばばあだったら、部屋を覚えられてしまう。覚えられたら、丑三つ時に、両親の寝ているすきをついて、脳みそばばあがベランダからやってきて、子供の脳を長い口で吸ってしまう。
回れ右をし、音を立てないよう、きた廊下を戻りはじめた。
そこに亨くんがきた。おれと同じくらいの身長の亨くんは、上着はピーコートを着ているのに、下は半ズボンだった。寒くないのだろうか。
「どしたん、軒人」と声をかけてくるので、「シッ」と指を唇に立て、雑木林を指さした。亨くんはおれの様子を察したのかすぐに黙り、やがて泣き声に気がついて、「うわっ」と言った。
「脳みそばばあだ!」とうれしそうに亨くんは言い、おれは脳みそばばあに聞かれたらまずいと慌ててシーッと言ったけれども、亨くんは「倒しに行こうぜ!」と目を輝かせる。なんて恐れ知らずなんだろう。そういうところ、おれはちょっと尊敬していた。
「怖くない?」
「軒人、おまえ、そんなんだから、キンキン橋も渡れないんだぜ」
キンキン橋とは学校のそばに架かっている橋で、いわゆる住民が勝手に架けた勝手橋のたぐいだ。ぼろぼろで細くて手すりもない、足を下ろせばぎしぎし揺れて、いつ数メートル下の川面まで落っこちてしまうかわからないから、そこを渡ることができるのは勇気のある男だとされていた。亨くんはもちろん渡ることができていたけれども、おれはそうではなかった。
「でも、それとこれとは違うでしょ。脳みそばばあだったら、すぐ、殺しにきちゃうし」
「いーからいーから、行こうぜ。おれたちで退治しちゃおうぜ。なあお化けっていると思う軒人?」
なにを言っても亨くんが意見を翻すことはなく、足早に階段を下りていく。行きたくなかったけれども、ここで帰ったらもっとばかにされてしまうと思って、亨くんの後ろについて階段を下りた。雑木林のほうに向かって歩いていく。
マンションの一階、ただでさえほかの棟の陰になって、昼間でも薄暗い共用廊下を歩いた。吐く息に、街灯の青みがかった光があたって、一瞬だけ紫色の蒸気が見える。ひー、ひー、という泣き声に混じって、雨の漏っているような水滴の音が、一瞬、どこからか聞こえた。
こんな一階に住んでいるような人たちは、どうして脳みそばばあが怖くならないのだろう。この泣き声が聞こえないのだろうか。それとも、毎度のことだったりするのだろうか、と考え、ぞくっとした。
亨くんの背中の裾を掴んだ。ぎゅっと力がこもる。おれはすり足で雑木林に近づいていった。
「なんかいる、人だ」
「そりゃ、脳みそばばあも、見た目は人だと思うよ」
「ばばあじゃねーよ、女……」と亨くんは言った。
女、と言った最後が不自然に途切れた気がして、亨くんの背中から顔を上げた。肩越しに雑木林を覗き見る。一番奥、隣のマンションとの境の、背の高いブロック塀の下、街灯の灯りの届かない暗がりの中に、はたして、女がいた。息が止まる。亨くんの背中の服を、ぐっ、と引いてしまう。
なんでだ。
白い服を着た、髪の長い女だった。なにか黄色いものをお腹の上に両手で抱え、ぺたんこ座りで土に座っている。
頭がぐるぐるした。逃げ出したい。亨くんを置いて逃げてしまいたい。口の中がからからになった。
「いや、怪我してるよ」
亨くんが言った。目をつむりたくなるのをぐっとこらえて、見た。
女は、全身、赤い絵の具のはねたように真っ赤だった。白い服を着ているから、よけいにはっきりとわかる。服の模様なんかじゃない。暗くて見えづらいけれども、確かに、怪我をしているように血まみれだった。
「脳みそばばあとか言ってるばあいじゃないよ。助けなきゃ」
「う、うん」
その通りだ。おれたちは女のそばまで駆け足で近づき、「大丈夫ですか」と尋ねた。
すると、うつむいている女が、おれたちのほうに顔をカクンッと向けた。
こちらを向いた女の目は、白目を剥いていた。黒目が上の方にいってしまって、少ししか見えなかった。その、少ししか見えない黒目が、ギョロギョロと高速に左右に動いているのが見えた。
ぶるっと、全身に震えが走った。
あ、だめだ、これ。
女の唇が上下にわかれて、「ウヒッ」という声が漏れた。笑い声だ。人間の声には思われない、甲高い声。動物が鳴いているみたいだ。
亨くんの裾を握る手が、どんどんどんどん熱くなった。だめだ。はやく。逃げないと。亨くん。逃げないと。
早く。
女は、カクカクした、機械のようなぎこちない動きで、お腹の上の黄色いものを、おれたちに見せるように持ち上げた。
生首。
男の人の、眉間にシワを寄せた顔。水分のない、張りの失くなった目や口が、真ん中に集まるように不気味に縮こまった生首。
おれは貧血を起こすみたいに視界が白くなる。見てはいけないものを見てしまったという感覚。目をつむりたくなる。なにも見てないのだと、言い聞かせたくなる。心臓の音が、耳のすぐ後ろで聞こえはじめた。
逃げなくちゃ。警察に言わなくちゃ。大人に知らせなくちゃ。体が固まったみたいに動かない。亨くん、逃げなくちゃ。
「ウヒヒヒッ」
女が笑う。ぐっと頭が前に倒れて、右手を土に突き出した。膝立ちになる。その顔が、ぐるんと上を向いて、おれたちのほうをふたたび見た。女が、ゆっくり、腕をだらっと垂れ下げたまま、立ち上がっていく。
こっちにきちゃう。下腹から、突き上げるような危機感。頭の中にいろいろな言葉やパニックが襲ってきて、動き出そうと思っても動けなくなった。やばいやばいやばい、怖い怖い怖い、なにもできなくなる、あとからあとから涙がにじんでいく。
「ああああーっ」
先に動き出したのは亨くんだった。亨くんは一目散にきた道を走っていった。
残されてしまった。はっとする。目の前には、生首を掲げたままの女。目がぎょろっと動いて、黒目が、こちらを向いた。生首を持った手の指がぱっと開いて、生首が、ぼとっと落ちた。
「ぎゃっ」
声を上げる。女は、腰をかがめて、地面にあるなにかを拾い上げた。刃物だった。包丁のようなもの。街灯の光を反射して、一瞬、ぎらっと光った。刺される。殺される。死んじゃう。かーっと頭が熱くなる。口から、悲鳴ともうめき声ともつかない声が漏れていく。
「ひやっ、あっ、あっ」
だが、女はおれの横を走って、すり抜けていった。亨くんの声に反応したのだろうか。ばっ、ばっと手を大きく振りながら走っていく。女の着ている服が、おれの顔にふわっと一瞬、かぶさって、髪の毛を焼いたような臭いが漂った。
おれは立ち尽くしている。ぴーんと全身を硬直させたまま、女に少しでも気取られまいと、動けないでいた。
助かった。亨くんが囮になってくれて、助かったのだ。
「ああああーっ」
亨くんの悲鳴は続いている。おれは声の方に振り向いた。女は、あっという間に亨くんに追いついた。マンションのエントランスの、茶色いタイルが外の光をはね返して光っているところで、女が亨くんの襟首を掴んだ。「あーっ」。女が亨くんを押し倒す。ガンッ、という、頭がタイルにぶつかる音。
「いやああっあああっ」
亨くんの悲鳴。甲高い声。それから濁った重たい声。
助けなきゃ。大人を呼ばなきゃ。
でも、体が動かなかった。恐ろしい。近づきたくない。女に気づかれたくない。麻痺したように動けなかった。
女が、持っていた包丁を亨くんの体に振り下ろした。いったん、途中で止まったように見えた腕が、そのあと、ゆっくりと下に沈んでいく。あっ。人の体に刃物が入っていっている。ごぼごぼという、亨くんのうめき声。耳を塞ぎたくなる声。ぶっぶっぶっという音が聞こえる。その音が、なんなのかも知りたくない。もうやめて。もうなにもしないで。ざわざわちりちりしたものが、体中から、頭に入ってくるみたいだった。
女が腕を持ち上げた。包丁を、亨くんの体から引き抜いたのだ。途端に、濃厚な血の臭いがここまで漂ってきた。くらっとする。
「あーっ」と亨くんが悲鳴を上げた。女はその声を聞いても止めないばかりか、面白がるようにいっそう笑うのだった。
女が腕を持ち上げ、もう一度亨くんの体に押しつける。簡単に包丁は亨くんの体に入っていく。何度も何度も、亨くんは刺されていく。悲鳴も、だんだんちいさくなる。うっ、ぶっ、ぐっ、という音だけになっていく。ぶっ、ぶっ、という、空気の抜けるような音。亨くんが、だんだん、死んでいくのだ。ぱくぱくと、金魚みたいに、口が開いたり閉じたりしている。なにかが漏れていってる。
死ぬというのはこういうことなんだ。空気を抜かれて、ぺしゃんこになっていく。何度も体をおされて、圧縮布団みたいになっていく。死にたくない、と思った。逃げなくちゃ。ここから動かないと、って。
はっとした。体が動くようになっていた。自分の家に向かって走り出す。無我夢中だった。転んで額を打った。どうやって起き上がったのかも忘れるくらい。女が今にも、後ろから追いかけてくる気がしている。カクカク動きながら、ばっばっと腕を振りながら。
ドアの前で、家の鍵を取り出す。手が震えて、うまく鍵穴に入らない。後ろからくるんじゃないか。もう、そこまできてるんじゃないか。いやだ。早くしないと。必死に鍵を押しこんだ。
がちっと、鍵が入った。急いでドアを開け、中に飛びこんで、ドアを引いた。ダーンという重たい音。鍵をひねる。鍵がかかる。はーっ、はーっと息をついた。
チェーンロックをかけ、リビングに行って、ちゃぶ台を縦にしてドアの前に置いた。布団を全身に巻きつけ、包丁で刺されても大丈夫なように厚みを作った。震えが止まらない。ほとんど痙攣のようにお腹が震えている。お腹が震えるって、あるんだ。腰が上下にずれてしまうんじゃないかというくらい震えた。女が今にも家に入ってくるんじゃないか。それだけが心配で、怖くて、吐きそうになる。おくびが胃から上がってくる。
死にたくない。強く死にたくないと思う。ぺしゃんこにされたくない、亨くんみたいに、何度も突き刺されて、空気を抜かれたくない、ものみたいに扱われたくない。圧縮布団みたいに。思い返すだけで、自分のことのように、亨くんの体に入ってくる包丁の感触が伝わってくる気がした。いやだ。どうしてそんな目に遭わなくちゃいけないんだ。死にたくない、怖い……。
それからどのくらい経っただろうか。廊下の外から誰かの悲鳴と、男の人の怒号と、それからたくさんの人の足音が聞こえてきた。パトカーの近づいてくる音がした。もうほかの大人がきて、外へ出ても大丈夫になっただろうか。おれは少し落ちついて、亨くんのことが気になった。よくいじってきた亨くん、でも勇気があって、ほかの子供よりもずっと強くて、怖いものにも逃げようとせず、立ち向かおうとする亨くん、尊敬していた……。
エントランスにはたくさんの人だかりがあって、警察があたりを囲んでいた。たくさんの人の顔がうろうろしていた。涙でにじんだ視界の中を、魚のようにうろうろしていた。
顔見知りのおばさんがいたので、「どっ、おばちゃん、どうなったの……」と、さっきまであったことを伝える勇気もなく、話しかけた。
「亨ちゃんが殺されちゃったのよ!」
聞きたくない言葉だった。頭をがんと、打たれたような気がした。
「まあねえ、驚天動地ねえ。お腹切って生んだ子なのにねえ」
おばさんは興奮した顔で言う。どこか、楽しそうですらあった。
見た。エントランスには入れない。その前におおぜいの人がたむろしていた。廊下の壁に血が飛び散っている。亨くんの血なのだろうか。頭がくらくらする。立入禁止の黄色いテープ。救急隊員の青い服。スーツを着た人の持っている、交通誘導の赤い棒の光。その残像。警察が青いバケツで水を持ってきて、「そんなんじゃ足りねえだろ」と先輩らしい人に怒られている。水の音。血を、流そうとしているのだろうか。人々の足の間から見えるブルーシート。亨くんが、まだその下にいるのだろうか。もう病院へ行っているのか。救急車とパトカーの、緋色の回転灯が遠くから何回も目に映るのが、どういうわけか、ひどくつらい。
「そうですか……」と蚊の鳴くような声で言う。けれども、おばさんはもうおれの言うことなんか聞いていない。
家へ帰った。椅子に座って呆然としていると、猛烈に吐き気がしてきた。間に合わない。びちゃっと、リビングの床に嘔吐してしまう。汚れたカーペットを見ながら、どうしてこんなことが起こるのだろうってずっと思った。トイレに行って、もういっぺん、おまけみたいに吐いた。
そのしばらくあと。勢いこんで帰ってきた母が「なにもなかった?」と聞いてくる。おれは下をむいてうなずいた。
「
母は、おれと亨くんが親しいということを知っていたから、ショックを受けないようなやさしい口調で説明してくれた。犯人の女は、長いことつき合っていた男性と別れ、そのショックで男性を殺害、事件後、放心しているところに亨くんがやってきたので、亨くんも殺してしまったのだと。
母の言っている日本語は理解できるけれど、何を言ってるのかということは理解できなかった。亨くんがいなくなってしまったということや、おれの目の前で殺されてしまったということが、まるで一連の夢のように感じられて、明日学校へ行ったら、また亨くんに会えるのではないかという気がしていた。今すぐにでもインターホンが押されて、「軒人、おまえ、脳みそばばあ、見た?」って、聞かれるような気がした。
その夜、おれは眠れなかった。ここしばらく、眠れるようになっていたのに、また眠れなくなってしまった。女の顔、白目を剥いて笑った顔が、何度もまぶたの裏に現れる。包丁の光。血まみれの服。干からびた、
目を開けた。
明かりがついたままの天井が見えた。ぎっ、という音がした。顔を向ける。天井の隅。そこから音がしたような気がした。
ざわざわした。腹の底が落ち着かなくなる感覚がした。動悸がいたずらに速くなっていく。
この感覚を、知ってる。
天井の隅をじっと見る。そこから、真っ黒な顔が少しずつ、現れる。ぎっ、ぎいっという音が聞こえて、その音に、ぴたりと枕につけた頭が、かすかに振動を感じた。
吐き気が上がってきた。がちがちと歯が震える。
「全部、全部、おまえの……」
しわざなのか。
最後まで、言えなかった。顔はなにも答えず、おれのほうに近づいてきた。いやな臭いがする。顔が近づいてくる。お化けの周りから滴り落ちる黒い液体が、フローリングの床に落ち、じゅっという音を立てる。お化けの口が開く。その口の中の、赤黒い舌が、ちらっと見える。
だがその瞬間、おれは、お化けの顔に見覚えがあることに気がついた。
「……ひいおじいちゃん?」
その顔は、父の実家で見たひいおじいちゃんの写真と、よく似ていたのだ。
唐突に、お化けの動きが止まった。時計の止まったように、ぴたりと、動かなくなる。やがてお化けの顔が、砂の崩壊するように薄れていき、見えなくなった。
「はっ、はっ……」
深く、息を吸いこんだ。まだお化けがあたりにいるのではないかと
気がつくと、朝になっていた。窓から日の光が射している。光の照らす白い埃が、かすかに、気泡のように漂っている。じっと、その埃の揺らいでいるところを見た。
繋がっているのだ、と思った。
引っ越してから、出なくなったと思っていたお化けがまた出てきたこと。そして、母の言っていた、村内さんの家に出るというお化けのこと、不審者のこと、亨くんを殺した女のこと、おれの家に出たお化けのこと――そうしたものはすべて、繋がっているのじゃないか、と。
けれどもそれと同時に、いやそれ以上に、お化けの正体がつかめたのかもしれない、とおれは思った。
おれの前に現れているお化けの正体は、ひいおじいちゃんではないだろうか。
唾を飲む。もしそうだとしたら、なにか、言いたいことがあって出てきているのかもしれない。それを確かめれば、お化けから解放されるかもしれない。確かめなくては。お化けの正体を、父に聞いて確かめなくてはと思った。そうしなければ、次はおれが亨くんのようになる。
次はおれが、殺されるのだと。
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