3-3

 明け方、だろう。部屋が明るいせいで何時かはわからない。

 目を覚ますと、金縛かなしばりだった。

 首だけで置田さんの方を見る。布団の中にはいなかった。一瞬、置いていかれた、という恐怖が頭をよぎる。けれども置田さんはタンスのそばに立って、腕を組んでなにかを見つめていた。置田さんのいたことには安心するけれども、でも、お化けの出たタンスのそばに立っていたことにショックを受ける。なにをやってるんだろう。いやそんなことより、そんなところに立たないでほしい。そこから動いて、と心の中で呼びかける。

 置田さんは顎に手をやってなにか考えているふうだったが、やがて引き出しを開けた。「はっ」と息を吞む声が聞こえる。弾かれるように窓の方を向いた。すると、驚いたように肩を震わせる。

 なにごとだろう。おれは首だけ動かして窓を見た。カーテンが、閉めていたはずなのに開いていて、窓の外に大きな顔が見えた。真っ黒な、目と口の中が真っ黒な、お化けの顔だった。

 顔は少しずつ震えるように動いて、部屋の中へ入ってきている。「うっ」と声を上げると金縛りが解けた。慌てて布団から出て、置田さんの方へ這って逃げる。置田さんはおれを後ろにし、窓から入ってこようとしている顔に向け、なにごとかを短くつぶやいた。すると、顔はすぐに溶けて消えてしまう。

 だが直後、タンスがガタゴトと音を立てて揺れ出した。電気が明滅し、誰かの笑い声が逆再生されたような奇妙な音が聞こえてくる。音はどこから聞こえてくるのかわからない。あちこちに反響して重なり、おれの頭を押さえつけてくるようだ。おれは耳を塞いで、「置田さん、助けてくださいっ」と叫んだ。

 置田さんは鞄からお札と液体糊を取り出す。タンスに向かい、横の壁に糊で貼りつけだした。

「ひっ……ひっっひ……ひひっ……ひっ……」

 お化けの声の響く中、一か所、二か所、三か所と貼りつけていく。柏手かしわでを打ち、祝詞を唱えた。パンッ、という澄んだ音が、笑い声を打ち消すように鳴り響く。すると急速に、声は聞こえなくなっていった。明かりの明滅も収まっていく。

 静かになった。

 置田さんが「ふーっ」と息をついた。気がつくと、おれは置田さんの脚にしがみついていた。お札を貼る邪魔じゃまをしてしまったかもしれない、と後悔したけれども、そんなことを言っている場合ではなかった。

 なにも解決していない。

 お腹がざわっとする。みぞおちのあたりを殴られたような、重たい感触。なんともなってないじゃないですか。あんなにきちんとお祓いをしたのに。置田さんがやってくれたのに。

「なんともなってないじゃないですか」

 声に出して、責めるように言ってしまった。震えていた。

「これ……これなあ……」

 置田さんは耳の穴を搔きながら、隣の部屋と風呂場とトイレの様子を見に行った。

「げっ」

 置田さんは新たなお札を二枚取り出し、トイレと隣の部屋の壁とに貼りつけていた。置田さんの様子におれは不安になる。なんで、そんな、二枚、新しく貼るんですか。二枚も。

「おっ、置田さん! なんとも、なんともなってないじゃないですか。どっ、どうして」

「須磨さん、言っとくけど、手落ちはなかった」

「でもお化け、出てきてるじゃないですかっ」

「そこなんだよ」

 置田さんはたった今貼ったばかりのお札を指差す。

「ここ、穴なんか開いてなかったんだよ、昼間は」

「今は開いてたんでしょう?」

「昼間は開いてなかったんだ。だから、おれがここを出て、戻るまでの間に、穴ができてたってことになる」

「そんなこと」

 あるんですか、と尋ねようとして、おれはお化けのルールについてなにも知らない、と歯嚙みする。いや、でも、少なくとも、筋の通った説明をしてほしい。わからないんだから。なんにもわからないんだから。それぐらいはしてほしい。

「もしかするとだ、須磨さん」

「なんです」

「これ、おれの手に負えないかも」

 血の気が引いた。なに言ってんだ。そんなこと、言っていいわけないでしょう。足元が崩れるような感覚に、全身が冷たくなる。唯一、頼りになるはずの人間から、そんな言葉は聞きたくなかった。

「いや、いや、でもだって、今、お化け、追い払えてたじゃないですか。いや、できますよ置田さん、できますよ。続けてください。お願いです。見捨てないでください」

 おれは置田さんがこの件から手を引いてしまうのではないか、と想像して、慌てて言った。

「うん、それだけならたぶん、間違いないんだけど」

 置田さんは考えるそぶりをし、額にしわを寄せた。

「いやなんとかしてくださいよ。して……してくれよ、お金払うって言ってんだから」

「須磨さん。すまないけど、たぶん」

「たぶんじゃなくて。困ってるんですよおれ、怖いんですよ、なんとかしてくれないと」

「須磨さん。一旦ね」

「もういやなんだよおれ。お化けとか見るの、でるのも、ねえ、どうしてこうなの? どうしておれだけこうなの、置田さん、おれがなんかやったせいなの? おれとか羽月がなんか、おれのせいで、おれだけのせいでなにかやっちゃったせいなの? おれが悪いのかよぉっ」

 言葉が止まらなくなって、置田さんに怒鳴ってしまう。自分でもばかばかしいなということはわかっていて、置田さんに言うべきことじゃないってことぐらいわかっているけれども、止まらなかった。情けなかった。おれの現状をわかってくれて、一緒にいてくれて、お化けをなんとかしようと頑張ってくれる人だから、愚痴をこぼす相手にぴったりだったからだ。それが情けなかった。助けてくれようとしている人に、こんなことをしていいわけはないのに。

 でも、怒鳴り続けていなければもう本当に駄目になってしまいそうだった。不安や恐怖を自分の中に押し留めておくことができなくて、そうしていなければ今すぐにでも、頭がおかしくなってしまいそうだった。

 おれは置田さんにまくし立てる。叫び続けるうちに涙が出てきて、止められなくなってしまう。

「なんでなんだよ、おれがなにかやったってのかよっ、ずっとそうなんだよ、子供の頃から、お化けが出てきて、それからおれの人生はもうずっとぐちゃぐちゃなんだよ。誰がこうしたんだよ。こんなの望んでないのに、もうずっとだよ。もうずっと明かりを点けないと寝れないし、明かりを点けても寝れないし、暗がりはだめで、電気がないと、電気がないと……なんとかしろよ。なんとかしろよあんた、あんたがなんとかしてくれないとさあ」

「須磨さん……」

 置田さんは困ったような顔をして、でもそれ以上おれにかける言葉も見つからないみたいだった。おれはだんだん、声を荒げるのも疲れてきて、考えることもできなくなってゆく。

「あー……うー……」

 頭を抱えながら考える。もう、お化けはどうにもならないんじゃないかって。

 そうしたら急に、おれは自分を助けてくれるかもしれない相手を罵倒ばとうしてしまったことを後悔しはじめた。あんなふうに言っては、置田さんはもうおれを助けてくれないかもしれない。助けるかいもないやつだって、見捨てられてしまうかもしれない。おれは慌てて、取り繕うように、

「ごめんなさい、置田さん、あやまります。失言でした。ゆるしてください。どうか見捨てないでください……」

 正座をして、頭を下げる。けれども置田さんは悔しそうに顔をしかめながら、

「須磨さん。今のおれじゃ、これをどうにかはできない可能性が高い」

「じゃあ……どうすれば、なにをすればおれは助かるんですか」

「わからない」

「これは……曽祖父のお化けなんでしょう? そうだ、たとえば、曽祖父の供養とか、法要とかすれば……」

 思いつく端から言った。けれども置田さんは「いや」と言い、

「そんなんじゃない。これは、そんな話じゃない。ひいおじいさんの法要やったって無駄だ」

「そん……」

「だから巌山さんにもなんとかできなかった。見えなかったんだ。いや、見えてたけど、見間違えたんだ。こんなことって……」

 巌山さんが見間違えたって、なんだ、それ。唾を飲みこむ。見間違えた、だって?

「でも、どうにかするよ。お代はそのときでけっこう。連絡を待っててくれ」

「待って、って……」

「待っててくれ。この家は引っ越すしかない。どこかへ行って、おれの連絡を待っててくれ。これ、お守り」

 引っ越せないよ。そんな簡単に事は進まないよ。引っ越したくないからあなたを呼んだんだ、と思ったけれども、そのどれも言葉にはならず、ただ、置田さんを呼んだのになにもできなかったことへの落胆があった。胃もたれのように重たいものが、胸につかえていた。 置田さんはおれにお守りを握らせながら、

「須磨さん。約束する。おれはお化けの専門家だ。おれはあんたの状況を取り巻いてる全部をなんとかしてやる」

「どうやって」

「……なんとかしてやる」

 具体的なことはなにも言わなかった。おれは全身の力が抜けるのを感じた。

 きっと、お化けはくるだろう。またお化けはくるだろう、置田さんが帰ってしまえば。

 置田さんが膝をついて、勇気づけるようにおれの肩を摑んだ。

「気を強く持つんだ。須磨さん。お化けはあんたの弱気にも食いこんでくる。だから……」

 無念そうだ。けれども、今この場で、これ以上なにかをすることはできないのだろう。動き出そうとしないおれを気にかけるようなそぶりをしながらも、置田さんは帰ってしまう。

 ばたんと、扉が閉まり、部屋の中が静かになる。また一人になる。今度はきっと、置田さんは戻ってきてはくれないだろう。

「もう無理なんだよ、置田さん」

 床につっぷしたまま、吐き出すように言った。


 二日、体調不良ということで会社を休んだ。いつまでも休んでいたかったけれども、職場から電話がかかってきて、出勤した。もちろん、本調子に戻ることなんてない。いつも頭にお化けのことがあって、考えることぜんぶに靄がかかっていた。払いのけようとコーヒーやエナジードリンクを何杯も飲むけれども、机の下に片づけていない空き缶が何本も溜まってしまう。空き缶が甘ったるい匂いを放つようになった挙げ句、「ボウリング大会でもする気かよ」と上司に注意されてしまう。やりませんよ。

 仕事もミスばかり。どうしてこんなにだめなんだろうな。誤字脱字、細かな名称の違い、宛先の間違い、「何度やったら覚えるの、きみ何年目?」と𠮟しかられる。二年目です。その都度胸が痛くなるけれども、だんだんなんにも感じなくなってしまう。後生さんもお祓いに行っているとかで休暇中、頼れる人もいない。朝も昼も夜もご飯が喉を通らない。白米と納豆も食べられない。アイスとゼリー飲料だけ、つるつると植物みたいに飲んでいる。

「嫁さんと喧嘩けんかしたとか?」

 さすがに不審に思ったのか、ある日、上司がおれを会議室に呼び出した。

「いえ……」

 沈黙。おれはそれ以上言うつもりがない。言ったところで、理解してくれるわけはない。

 上司はおおげさにため息をついて、

「なんか言ってくれないと、わかんないよ。エスパーじゃないんだから」

「すみません、寝れてなくて」

「なんで?」

「……」

「エスパーじゃないんだからさ」

 薬局に行き、睡眠改善薬を買う。かかりつけの医者からは、「これ以上の増薬はむずかしい」と言われてしまっている。だからもう薬局に行くしかない。眠らせてくれるのならなんでもいい。お酒は飲めないから、市販の薬に頼るしかない。倒れるように眠りたい。真っ暗な深夜の海の中に、ずーっと沈んでいくみたいに。

「用途はなんですか」

 レジに出された十箱の薬の量に、店員も不思議に思ったのだろう。

「いえ、寝れなくて……」

「申し訳ありませんが、まずはお医者さんにご相談なさっては」

 そんな場合ではないのだ、ということを婉曲えんきょくに伝えるけれども、店員はまじめで、おれの言うことに全部、「ですから、できないのです」と取り合ってくれない。あんまりぐだぐだいうので、ついかっとなってしまう。

「眠れないって言ってるだろ!」

 大声を出してしまってから、自分で驚いた。なんだ。なに言ってるんだ、おれ。どうしてこんなところで、仕事を頑張っている店員に怒鳴っているんだ。なにやってんだ。ばか。人間のクズ。恥ずかしい。ごめんなさい。

 レジに、買おうとしていたものを全部残したまま、急いでドラッグストアを飛び出してしまう。別のお店で買うしかない。けれども、こんなことを繰り返していたら、どこも出禁になってしまうんじゃないだろうか。

 ぽーっと、顔が赤くなる。感情を自分でも抑えきれなくなっている。ちょっとしたことですぐ怒ってしまうし、悲しくなる。今日も、自分の席で泣いてしまったのを、同僚に見られて心配されてしまった。

 それもこれもみんな、お化けが出るからで、誰にもお化けをなんとかできないからだ。

 もうだめかもしれなかった。みんなが幸せになればいいなと思った。おれも含めて。幸せなところで暮らせればいいと思っていた……。

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