3-2

 羽月が実家に帰ってからというもの、おれの部屋は片づいていなかった。少しずつ物が溜まっていて、そのことに、部屋の前まできて気がついて、恥ずかしくなる。通販のダンボール。買ってきたものが入ったままのドラッグストアのレジの袋。いつか読もうと思っているチラシ。いつか読もうと思って買ってきた本。昨日か一週間前に着た服。カメラとか電子機器の付属でついてきたけれども、それと同じものはもう持ってるから余ってしまっているなにかのケーブル類の束。

 羽月がいたなら、「きちんとしろい」と怒られてしまうような部屋。そんな部屋にしてしまっている自分が、恥ずかしい。「片づけた方がいいね」と床をぐるぐると指で指し示しながら置田さん。

「お化けってゴキブリとかと一緒でさ、片づいた部屋より、片づいてない部屋の方が好きなんだ」

「そっ、そんなことがあるんですか」

「そーいうもんよー」

 置田さんは玄関から中へ入ろうとしない。さすがに抵抗感があるだろうか、と申し訳なくなって、床に落ちているゴミとかを急いで拾いはじめると、

「でもこれ、明らかになあ」

 うんうんとうなずきながら置田さんが言う。

「な、なにか……?」

「場所のものだ。でも確かになにもなかったし。なのになぜ」

 置田さんは玄関で立ったままだった。ゴミを拾って、横に避けて、人の一息つけるぐらいのスペースを作る。冷蔵庫からペットボトルを取って、置田さんに渡そうとすると、置田さんはいや、と手でそれを遮る。

「いや、しばらくは飲みません。飲み食いはできない。『よもぐい』のいいは、人んちで出されたものは簡単に食べるなってこと」

「よもつへぐい……?」

「古事記、お読みでない? 伊弉諾イザナギに帰ろうよって言われた伊弉冉イザナミが、『現世に帰れなくなっちゃったのねん……』っていうくだり。意味はつまり、自分の知ってる火だけを使えってこと……このへん?」

 置田さんがタンスのあたりの床にしゃがみこんで、指をクッションフロアの床に押しつけた。

置田さんの背中に、力が入ったようだった。

 部屋がパッと暗くなった。

「えっ?」

 それはたとえば、エアコンとアイロンを使っているときに電子レンジのスイッチを入れて、あっブレーカー落ちるな、と感じる瞬間に似ていた。

 一瞬だけだった。部屋はすぐに明るくなる。

「なっ、なに?」

「探査してる。おれ自身をアンテナにして、あとあんたも使ってる。ここと、ここと、ここ」

 置田さんが場所を変えて地面に屈みこむたび、電気の一瞬のひらめきが起こった。タンスの前、トイレ、窓のすぐそば、鏡のそば。

「湧いてんねえ〜」

 豊作だねえ、みたいな感じで、苦笑いしながら置田さんが言う。

「あの……なにが起こってるんでしょう……?」

「お化けがふん井戸いどみたいに湧いてるってこと。お化けって地下水に乗るし、地下水のイメージがけっこう適用できる。井戸を掘るみたいにお化けの通れる『お化け穴』を開ければ、そこからお化けが出てこれる。ここはお化け穴が開いてるのよ。俗っぽくいうと『霊道』ってやつ」

「霊道って、その……確か……」

 中学生から高校生ぐらい、お化け関係の本をむさぼるように読んでいた時期に、そんなことの書いてある怪談本を読んだ気がした。

「お墓とか、病院とかが近くにあると、そこを通っていくお化けがいて、で、そういうところのそばに家があると、お化けの通り道になって、大変だ、っていうやつですか?」

「そうそれ。まるであたかも事故物件よココ。ホントに事故物件じゃないの? 事故物件載せてるHPあっただろ。見てみようぜ」

 おれたちはスマートフォンで事故物件を載せているHPを見て、おれたちのいるアパートにその情報が載ってないことを確かめた。

「ないね」

「ない……ですね」

「まあ、ありゃあ気づくんだよこの稼業の人は。事故物件って、言ってみれば商売道具みたいなもんだからさ。不動産屋の次に事故物件チェックしてるのがおれらの稼業だから、ここが事故物件じゃないってのは知ってんだけど」

 知ってたんなら確かめさせないでほしいな……と思っていると、考えが伝わったように、

「万一だよ。ちなみに一般的な話、どうして事故物件にお化けが出るんだと思う?」

「死んだり殺されたりした人の霊が、その場に残るから、ですか?」

「うん、それもあるんだけど、それ以上に『穴』が開いちゃうってのもあるんだ。さっき言った、お化けの通れる穴を開けちゃうっていうのが。あんまり幸せな死に方をしなかった人の怨念がお化けの穴を呼んじゃうの。だから事故物件にはお化けが出やすいから、それを祓ったり穴を塞いだりしないといけない。この家も、開いてるんだよ、穴」

 言いながら、鞄から札束のようななにかを取り出し、それをぱらぱらとめくって何枚か引き出した。

「とりあえず穴を塞ぐ」

「な、なんの紙ですか?」

「お札。東北の墨染すみぞめ大社たいしゃのやつ」

 よく見ると、確かにそれはすべてお札だった。表に「大国主オオクニヌシ之命ノミコト」と書かれて、赤い印が押されている。やや黄色がかった、和紙なのだろうか、薄い紙に刷られたお札である。白い帯封が巻かれて、札束のようにまとまっているお札、というものははじめて見た。

「買って……るんですか? そんなに大量に?」

「業務用スーパーみたいのがあるんだよ、霊能者用の。タヌキ延年えんねん商店とか。そこでお札売ってるの、百枚単位で」

 霊能者用のグッズがところ狭しと並んでいるような、怪しい店を連想した。なにごとも「プロ専門」みたいなお店があるものなのだろうか。あるのだろうな。おそらく。

 置田さんはペタペタとお札をビニールクロスの上に貼りつけては移動し、貼りつけては移動した。全部で五か所。

「とりあえずこれで穴塞いだので剝がさないでおいて。剝がすとまたお化けが出てくるから。あとはこの部屋の中のお化けを追い払ったらいいんだけど……」

「だけど?」

「いやあ、やっぱ、不思議なんだけど、さっき巌山さんのこと疑ったけどさ、今見たらこれ、巌山さんちゃんと仕事してるんだよね。穴も閉じた痕があったし……これ、『新しく』開いてるんだよ、穴」

 新しく、と言われたことにぞっとする。そんな、お化けの穴が簡単に開いてしまうような……そんな家だというのだろうか。

 それから置田さんは鞄から折りたたみ式の台を取り出す。ふつうの、白い小さなちゃぶ台みたいなものだ。薄い白いプラスチックの板でできている。その上に真っ白な布を敷き、鎮祭ちんさいのときに立てるようなさかきを、これもまた鞄から取り出して立てた。木でできた台、三方さんぼうというのだろうか、それが二つ出てきて、そこにカップ酒、パックの切り餅が供えられた。

 なにがはじまるのだろう、と思っていると、置田さんが頭を下げ、「おぉぉぉぉぉ……」と低い声で唸った。急にはじまったので、驚いてしまう。芯のある、太く低い声で、部屋の空気が震えるようだった。

 それからカップ酒の口を開け、祝詞のりとみたいなものを唱え出した。

「……此の家の一室に招奉をぎませ坐奉ませまつる掛けまくもかしこ産土うぶなすの大神おおかみ祓戸はらいどの四柱よつばしら大神おおかみ等の大前に斎主さいしゅ置田山延やまのぶかしこみ恐みももうさく……」

 祝詞、というものを、直に聞いたのはそういえばはじめてだ。不思議と落ち着くような気がして、心が休まる。

 唱え終わると、置田さんは毛ばたきみたいな紙のついたふさふさした棒を部屋のあちこちで振り、それからカップ酒に蓋をして、もう一度「おぉぉぉぉぉ……」と唸り声を上げた。

 しばらく、沈黙が続いた。なんとなし、部屋の空気が変わっている気もする。

「はいお終い。お疲れさん」

 終わったのか。

「あっ、ありがとうございます。あの……突然のことで。なにをなさったんですか?」

 尋ねると、置田さんは首をうんうんとうなずきながら、

「おれがやったのは地鎮祭みたいなもん。家祓いとか、家祈禱とか、そういう名目でメニューに上げてる神社もあるよ。それの応用。須磨さん、知ってる? 地鎮祭って」

 おれを指差しながら置田さんは言う。

「聞いたことぐらいは、はい」

「つまりは土地にいらっしゃる神様に仁義を切るっていうことなんだよ。土地の神様をお祀りして土地建物の安全堅固、弥栄を祈願する。土地にいる不浄なものや、家に憑いてる憑き物を祓うという効果もあるけど、あくまでも基本はそこの神様に『これからここに住ましてもらうモンです。よろしくお願いしますわ。これ上納品です』っつー感じの儀式。今もそれをやったわけ」

 この場合、お酒や切り餅が上納品に該当するのだろうか。

「とりあえず一通りのことはやったので、もう大丈夫なはず」

 置田さんの言葉にほっとする反面、「はず」という、中途半端な言葉がつけ足されていたので、困惑する。

「あの……はずというのは……」

「そ。気になるのは、さっきも言ったように巌山さんちゃんと仕事してるんだよね。そこが不思議なところなんだよ。だからおれもわかんない。あんたが言ってるのが本当なら、巌山さんがやったあとに一ヶ月もしないでこれだから、もしかしたらお勧めなのは引っ越すほうかもね」

 置田さんは腕を組みながら言うけれども、おれはだんだん心配になってくる。巌山さんのときと違って儀式の最中になにごとも起こらなかったからだ。あのときは、羽月が正気を失って、藁人形が爆発した。そういうことがあれば、大雑把おおざっぱにでもお化けをやっつけたのだ、という気もしてくるのだけれども、今回はなにごとも起こらなかったので、不安になる。

 とはいえ、不安になってどうにかなるものでもないのだろう。おれは置田さんに謝礼を包んだ封筒を渡した。

「いやあ、どうも」と頭を搔きながら置田さんは言う。

 それから思い出したように「領収書、切る?」と聞いてくる。

「いえ、大丈夫です……なんか、使えるんですか?」

「企業とかだと、お祓い料って名目で出すことあるからさ。じゃ、またなんかあったら電話して」

 そう言って、置田さんはあっさり帰ってしまう。ドアが閉まって、部屋の中に一人きりになってしまうと、残された、という気持ちがしてきて、心細くなる。今になって、置田さんの適当な、といっては悪いけれども、よい意味で気の抜けた対応は、おれの心を軽くしてくれていたのではないかという気がしてくる。

 急に、ゴミやダンボールが目につきだす。息苦しい気がしてくる。置田さんという外部の人の目にさらされた結果、部屋の異常な様子が、ふいに可視化されてしまったようだった。片づけようか。でもどっと疲れてしまって、そんな気力も湧かない。

 むしょうにさみしくなって、羽月の声を聞きたくなる。置田さんのお祓いが効果を発揮したら、すぐにでも羽月と一緒に暮らせるのだが、と思うとなおさらだ。

 いてもたってもいられなくなって、電話をかけた。十回ぐらいコール音が鳴ってから羽月が出て、

「どしたの」

 なんでもない、どうしてるのかなと思って、こっちはぜんぜん平気、おれはいつもどおりだよ、そう言おうと思って、詰まった。欺瞞ぎまんだな、という気が、自分でもした。

 恥ずかしかったけれども、正直に、

「声が聞きたくなっちゃって……いや、どうしてもね、聞きたくなっちゃって……聞けてうれしい。もうだいぶ、満足」

 羽月は「ばかかよ」とうれしそうに言う。うん、ばかです。ごめん。そう言ってくれて、うれしい。そう言ってくれる人がいてくれて、うれしかった。

 短く話をした。ガスの支払いがどうのこうの、産婦人科の受付の女の子が芸能人に似ててどうのこうのという話をした。いろんな話題が出たけれども、羽月がお化けのことを心配していそうな気配が節々から感じられて、それ以上、心配させたくなかったから、お化けは大丈夫、また電話するよ、よろしくね、と電話を切った。 電話を切ってしまうと、部屋は静まりかえってしまう。

「はー。いやあ。疲れちゃったなー」

 声に出して言った。ダンボールをがさがさ横にのけて、横たわれるだけのスペースを作って、横たわった。疲れがどよんと、頭にのしかかってくる。重たかった。

 コンビニに夜ご飯を買いに行こうか。一瞬、思ったけれども、立ち上がる気力も湧かなかった。羽月の声をもう一回聞きたくなる。もう一回、電話しちゃおうか、とスマホを取り出して、そんな、長い間話したら、羽月が疲れちゃうだろ、とやめた。でも、話したい。

 むしょうに、人と話したい。

 ぶるっ、と体が震える。ああ、どうして人と話したいのか、わかった。

 部屋の中に、白いもやがかかっている気がする。巌山さんがお祓いをした日のように、部屋の中が、薄暗く、かすんでいるような気がする。

 気のせいなのには、違いない。おれの思いこみのせいには違いない。けれども、一度そんなふうに考えはじめると、どんどん怖くなってきてしまう。体が震えてきた。

 悩んだ。誰かに話をできるとして、こんなときに、本当に話を聞いてくれそうな人がいるだろうか、とさんざん悩んだ末、置田さんに電話をした。

「どっかした?」と、怪訝そうに置田さんが電話に出る。

「いや……お札とか、踏んづけちゃって、ちょっと端っこが切れちゃって……、これ、大丈夫ですか?」

「ああ大丈夫だよ」

「そ、そうですか」

「もうなんにもないんだったら、切るけど」

 置田さんがいぶかるように言う。おれはやっぱり正直に言おうと、

「こっ……お化けが怖いんですけど、今日一日、泊まってもらえないですか?」

「はあー」

 ちょっと間があってから置田さんは、「いいけど追加料金もらうよ」と言った。助かった。おれはスマホを耳にあてたまま「すみません」と深々頭を下げる。目の前の靄が急に晴れてくる。うれしい。

 勢いこんで最寄りの駅まで置田さんを迎えに行く。急行も止まらないような私鉄の駅の、改札を出たところにある小さい売店で、スポーツ新聞を立ち読みしている置田さんを見つける。

「暑いね」

「暑いです。なにか食べたいものありますか」

「ん、出してくれんの?」

「はいもう、なんでも!」

 満面の笑みで言った。スーパーへ寄る。

 置田さんは「今の時期は生臭物なまぐさものは食べないから、野菜とか豆腐とかだけでいいよ」とお坊さんみたいなことを言う。おれはパックで売ってる野菜のサラダとトマトを買った。おれだけ肉を食べるのは悪いような気がしたから、おれの分の豆腐も買った。

 部屋に戻ると、もう夜の八時頃になっていた。

 置田さんがおれの先に立って部屋に入ってくれる。出るとき、電気を消さないで出てきたから、部屋の中は明るいままで、

「さっきも思ってたんだけど、そこにおいてあるミラーボールとか、なに?」

「お化け対策です。……暗くなっちゃうと怖いので」

 あきれられるかもしれなかったけれども、置田さんはなんにも言わない。

 部屋の四隅をすばやく見回し、貼ったお札もチェックし、「特になんにもない」と言ってくれて、プロの人の目から見てそういうふうに断言してもらえるということは、やはり、ものすごく安心できるものだなあと思う。そのあと、スーパーで買ってきたご飯を食べながら、霊能者ってどうやってなるんですかとか、そんな話をし、シャワーを浴びて、することもないので寝ることにした。布団を敷いて、横たわって、息を吐いた。

 一向に、おれが電気を消そうとしないことに気がついたのだろう、置田さんから「こんなに明るいと寝られねえよ須磨さん」と文句を言われてしまう。

「ごめんなさい怖くて……本当に部屋が暗いのが怖くなっちゃって……妻にも文句言われちゃってるんですけど、でも……」

「あーいーよもう。つらかったんでしょ」

 電気を点けたままでもよしとしてくれた。助かる。置田さんは文句を言っていたわりに、すぐにすやすやと眠ってしまった。いいな。すぐに寝られる人は。

 一方、おれは眠れなかった。いつもと同じように、徹頭てっとう徹尾てつび、お化けが出てきたらどうしようと目を開いていた。睡眠薬は飲んでいたけれども、これ以上量を増やすわけにはいかないから、いつもの量で我慢している。

 タンスをじっと見つめた。それから天井や柱の影の暗いところをじっと見つめた。お化けが出てくるんじゃないかと暗い気持ちになる。出てきたらどうしよう、そしたら、そのときは置田さんにお願いしなくちゃ。でもお化けが出ないのが一番だ。出ないでほしい。でも結局、巌山さんのお祓いも効かなかったんだから、今度だって……。

 頭の中に考えが渦巻いて、うるさかった。

「出ねえよ、おれがやったんだから」

 置田さんが言う。眠ったんじゃなかったのか、と見ると目をつむっている。寝言には思えなかったから起きているはずだけれども、ぴくりとも動かない。

 でもなんだか、その言葉は信用できるような気がした。おれは一秒、目をつむってみて、それから、三秒目をつむってみて、十秒目をつむってみてなんにもないことを確かめる。お化けは本当に出ないのかもしれない。置田さんが本当に、みんな祓ってくれたのかもしれない。

 じっと目をつむって、眠気の訪れるのを、長い時間、待った。月の砂漠さばくを歩いていくキャラバンの、ラクダの大きさを空想した……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る