3-4


   *


 羽月から電話がかかってきて、「いったん、顔見せなよ」と言われる。こんなときに、お化けになんの決着もついていないうちに羽月に会うのはためらわれたけれども、でもいい加減、おれも羽月に会いたかった。ずっと一人でいて、おかしくなってしまいそうだったから。

 それに、こんなことは考えてはいけないのかもしれないけれども、お化けについて確かめられることもあるのではないか、とも思ったからだ。

 羽月の実家は北関東にある。特急料金を払えば一時間半ぐらいで着くところだ。おれは特急料金を払わないで二時間たっぷりかけて行った。

 電車を降りる。羽月の実家の駅前は栄えていた。おれたちのアパートのある駅よりもずっと繁栄していて、スーパーも、洋服屋も、カラオケもボウリングもレンタルビデオ屋もある。なんでもあった。なんでもは言いすぎか。でもなんでもあるような気がした。

 駅から実家までは歩いて二十分ぐらい。歩けない距離ではないけれども、毎日通うとなるとしんどいかもしれない。タクシーを使うお金ももったいないから、商店街を抜けて歩いていった。

 駅を少し離れただけで急に建物がなくなってまわりは田畑ばかりになる。視界が広い。向こうの方まで見える。稲穂いなほが太陽に照ってきれいで、風が吹くといっせいに揺れた。平坦な畑の中にこんもりと屋敷林みたいな丘がぽつぽつと残っている光景が広がる。自然だ。心が落ち着いた。こういうところにはお化けが出ないような気がした。

 田園地帯を抜けて川を渡ると、新興住宅地ばかりがある地区になる。景観的に無理のない範囲でいろいろな色の建物が建っている高台に着いた。羽月の実家はその中の一つだった。どれだったかな、と表札を一軒一軒ながめながら歩いていくと、五十坪くらいの家の、外装が茶色のタイル風の塗装のほどこされた家、門扉の上に紫色の小さいシーサーが載っている家の玄関が開いて、ちょうど羽月が出てきた。おれを認めて、それから笑って、こんにちは、って。

 お義父とうさんは仕事で、まだ帰ってきていないということだった。今は午後一時だ。お義母さんはまだ若くて四十半ばぐらいで、今日は休みの日だというので家にいたらしい。挨拶をすると、あらいらっしゃい、と言ったあとで、

「軒人さんは、今日はお仕事はお休みなの」

「今日、前々から入っていた打合せの予定が先方の都合でキャンセルになりまして、それで今日と明日、お休みをもらったので、それで羽月さんの顔を見たくなりまして」

 電車に乗っている間に考えていた言い訳だ。

「あらそうなの」

「お母さん、ノキくんにお茶出してあげたら」

「あっ、お気遣いなく……」

 お義母さんがお茶を出してくれる。おれはお茶をすすって、それから仏壇に手を合わせてなかったなと仏間で手を合わせた。

 チーンと鈴を鳴らした瞬間、お位牌いはいがカタッと揺れた。目を見開く。けれども、それだけだ。なにもない。お化けが出てくるようすはなかった。

 ほかに誰も見てないだろうな、と振り返ると、羽月が後ろで眉をひそめていた。なんでもないよ。そういう顔をして、下を向いた。

 夜になってお義父さんが帰ってくる。「先日はどうも」と挨拶をした。羽月が突然、実家に帰ることになってしまって以来、一ヶ月ぶりだった。「その節は突然で、すみませんでした」と話しはじめようとすると、お義父さんは「もっときてくれていいのに」と話を遮ってくれる。おれに気を遣わせないような言い方をしてくれているのだとわかって、ありがたいのを通り越して申し訳なくなる。

 ご飯を頂いた。お義母さんがポテトサラダやさばの塩焼きを並べてくれる。

「どう、元気にしてる? 会社は? 出世した?」

「ノキくん入って一年しか経ってないよ」

「はい、毎日、頑張ってます」

「仕事なんかさ、いいんだよ適当で」

「お父さん、そういうこと言わないの」

「適当でもうちの娘みたいなのは育つんだから」

「みたいなのってなんだよ」

 羽月が笑いながら言った。久しぶりに温かいご飯を食べたような気がした。

 トイレに立ったときに羽月がついてきて、

「泊まるよね?」

「さっきお義母さんから、泊まってっていいよって」

「お化けは?」

 羽月は真剣な顔をしている。いつ話そうか、なにを話そうか、ずっと迷っていたのだけれども、おれは微笑みながらうなずいて、

「お化けは新しい霊能者の人に祓ってもらったから大丈夫」

「本当?」

「本当本当。置田さんって人でさ、お化けはお化けの通れる穴を伝って部屋に入ってくるって言って、それでお化けを通るところにお札で封をしてもらったから」

「ノキくん、噓つくときはわかりやすいんだよね」

 羽月は下から覗きこんでくる。

「でもいいよ。一緒に寝よ」

「ありがと」

 寝そべりながら、他愛のない話をした。ずっと一人だったから心地よくて、そういう、寝る前に話をして、答えが返ってくるというのが久しぶりだった。忘れてしまっていた。

 おれは羽月にわからないように、置田さんのくれたお守りを強く握りしめる。明るい天井を見る。目を見開き、そこにお化けが現れてこないかどうかを、確かめようとした。

 もし今日、お化けが出てきたら、と思う。

 お化けとは無縁であるはずの羽月の家で、もし今日、お化けが出てきたら、確かめることができるだろう。お化けが、おれのせいで出てきているということが。確定してしまうことになる。

 そうしたら、もう、なんにもいいのがれはできない。おれのせいであるということが、羽月やみんなを苦しめているのが、おれのせいであるということが、もう、決まってしまうことになる……。

 考えていた。そんなことをぐるぐる、考えていたら、

「ノキくん」

 もう寝ただろう、と思っていた羽月が、ぽつりと言う。

「妊婦検診でさ、超音波であててさ、赤ちゃんの格好が見えるようになったんだよ」

「えっ、すごい。もう」

 お守りを握りしめていた手の力が、ゆるむ。そうか。もうそんなに。

「お医者さんの説明だとさ、赤ちゃん、最初は魚みたいなんだって」

「あー人間は、お腹の中で進化をやり直してるっていうしね。そっか。もうそんなになるか。おっきくなったね」

「うんそれで、前見たときは説明されても超音波の写真の中で、どれが赤ちゃんなんだかわたしの肉なんだかわかんなかったんだけど、こないだの検診だとそれで人型ぽい白いのが見えてさ、それでさ、ああこれが赤ちゃんなんだって思って、ちょっと感動したんだよ」

「そう……なんだ」

「見たい? 写真、あるから」

「うん、明日、見して」

「うん。ノキくんさ」

「うん」

「疲れてる?」

「うん」

 疲れてないって言おうと思ったのだけれども、言ってしまった。

「ねえ」

 羽月がベッドの上から手を伸ばしてきて、おれはなんとなく握った。温かかった。人間のゆび。ぷよぷよと、少し痩せたかな。ゆび。悲しくなった。冷たい手だったらよかったのにって思った。温かい手を握ると、もしかしたら、こうしていられるのも、最後かもしれないって思ってしまうから。

 もしおれのせいなのだとしたら、もう触れられなくなってしまうかもしれないから。

「おやすみ」

 それから、長いこと眠れなくて、羽月の家の、おれたちのアパートとは違う夜の物音とか、空調の音とか遠くの国道を走っていくトラックのかすかな音だとか、そんなものに耳を澄ましながら、お化けの音が聞こえないように、お化けの声が聞こえないようにと思いながら、また、おれの心臓の動悸がはじまらないように、金縛りになってしまわないようにと、暗闇の中でじっと、じっと目を凝らしていた。

 なにも起こらないよ。おれは自分に言い聞かせた。なんにも起こらない。ここはおれの家じゃないし、なんにも起こらないんだよ、と。

 けれども、部屋が傾いたような気がした。

 ああ……。

 体の転がっていきそうな感覚に、左手を布団の横についてこらえる。地震かもしれないと思って、地震であってくれと思って、蛍光灯の紐を見た。でも、紐は揺れていなかった。

 願う。いろんなことを願う。遠くの工場で爆発が起こったんだとか、土砂崩れの前兆じゃないかとか、そんなことを考えて、でも、たぶん、そのどれとも違うんだろうな、とおれにはわかっていた。

 天井に、鏡が見えた。むろん、そんなところに鏡はない。おれの顔が映っていて、怯えた顔で、目を見開いているのが見える。

 おれの顔の周りに「腕」があるのが見えた。羽月の腕ではない。生白くて骸骨がいこつのように細い腕が、何本も、おれの顔の周りをぐるりと取り巻いている。そして、鏡に映っていない端のほうに、いつもの、真っ黒な顔をしたお化けの輪郭が、少しずつ現れはじめる。

 ああ、これまでなんだな。

 むろんそれは、今度こそお化けに憑り殺されてしまうかもしれないということや、置田さんのお祓いがなんにも効果を発揮していないという恐怖でもあったけれども、それだけではなかった。

 おれのせいだった、そういうことが、はっきりしてしまったということ。

 お化けの原因は、おれだったということ。それが、はっきりとわかってしまったということが、悲しく、また、ショックだった。

 おれの家族はたまたま、お化けの出てくる家を引き当てていたのではなかった。また、父がお化けに憑りつかれていたわけでもなかった。

 おれが存在するから、お化けは出てきていたんだ。

 ずっと、そうだった。亨くんが死んでしまったのも、母がお化けに怯えて体調を崩してしまったのも、羽月をつらい目に遭わせてしまったのも、恐ろしい目に遭わせてしまったのも、みんな。

 おれが存在するから、お化けは現れていたのだった。

 そこまで考えて、ぐっと、言葉に詰まる。自分がなにかの引き金であるということ、自分が存在する限り、なにかが起こり続けるのだということ。そうしたものが、みんな、イコールで結ばれてしまって、あとはもう、結論が出てくるのを、止めることはできなかった。お化けは、おれのせいで出てくる。おれのいるところ、存在するところに、いつまでも追いかけて現れてくる。

 だったらきっと、

 腕は、するするとおれの首に伸びていく。死にたくない。お腹からずしりと、麻痺したような感覚が昇ってくる。死にたくない。動けない体が、足の先の方から重たくなっていく。死ぬのかもしれない。死にたくない。まだ、こんなところでくたばりたくない。

 でも一方で、そうなってしまってもいいのかもしれないと、考えてしまう。

 おれがいるだけで羽月をつらい目に遭わせてしまう。だったら、むしろ、いっそのこと……。

「ノキくん!」

 声が聞こえた。羽月は目を覚ましている。腕の引っ張られる感覚。羽月は動けないおれを引きずって、部屋から逃げ出そうとしているらしかった。

 いいんだ、羽月。

 ほっといてくれ。そのほうがいいんだ。きっとそうだ。

 申し訳ないと思って、羽月を振り払おうとする。そしてお化けがおれを憑り殺そうとしているのだったら、させたいようにさせておけばいい、むしろ、その腕の方へ近づいていこうとさえ思った。

「だめ、ノキくん!」

 羽月は叫んで、おれの手を強引に引っ張った。その途端、置田さんのくれたお守りが手から離れて、とぐろを巻いているお化けの腕の真ん中に落ちた。

 悲鳴のような、低い声が響いた。腕が蛇のように縮こまり、部屋から飛び出し、廊下の方へ去っていく。

 腕は出て行った。なんの物音もしなかった。おれは息をしながら、羽月に腕を引っ張られたまま、動けないでいる。

「ノキくん、お母さんたち見に行こう」

 腕の逃げていった方向に羽月が向かう。追いかけていこうとして、腰が抜けてしまっていることに気がつく。抜けている場合ではないだろう、と自分を鼓舞した。なんとか、あとをついていって、羽月を一人にさせないようにした。

 ご両親の寝室を開けると、二人は眠っていた。なにかが起こったことには気がついていないみたいだった。おれはほっとし、助かったと思った。おれがいたせいで、ご両親になにかあっては、もう羽月に顔向けができない。

 朝になるまで、寝直す気にもなれなかった。羽月ももう眠れないらしくて、布団に入ったままじっとしている。おれは上半身を起こしたまま、お守りを強く握っていた。

 朝になって、窓から青白い光が入ってくると、やっと一息ついた。ああ、夜が明けた。もう大丈夫だ。羽月が体を起こして、おれに笑いかけた。

「おはよ、大変だったけど、朝だね」

 どうして笑いかけてくれるんだろうな、って不思議に思った。こんなに、おれはきみに迷惑をかけてしまっているのに。

「今日はちょっと児童手当の手続きとか、そういうのに行きますので」

 すぐに、羽月の家を出ることにした。ご両親は、「朝ご飯ぐらい食べていきなさい」と止めてくれるけれども、「思ったより長居しちゃいまして、実は午後、先方に伺う約束しちゃってて、すみません」と強引に出て行くことにした。お義父さんとお義母さんには、不安そうな顔をさせてしまった。義理の息子が不審な行動をしている。それだけできっと不安になってしまうだろう。ごめんなさい。一晩だけ泊まって、朝食も食べずに帰るなんて、あんまりですね。

 駅まで、羽月が送ってくれた。

「体に障るから、大丈夫、平気だよ」

「散歩ぐらいなら大丈夫だから。でも臭いのする焼き肉屋とかの前は通らないようにするわ」

 中学生ぐらいの子供たちだろうか。朝練なのか、まだ七時前だというのにジャージを着て歩いていた。通勤のサラリーマンなのか、スーツを着た人も、一人、二人。

 歩きながら、おれは、言わないといけない、と考えていた。いつ口にしようか、ずっと迷っていた。二人とも、無言で、刑場に引かれていく囚人のように、黙って歩いていた。

「わかったんだ」

「なにが」

 羽月は、口調で悟ったのかもしれない。睨みつけるように聞いてくる。

「おれが原因なんだよ」

「なに言ってんの?」

「お化けの……原因だよ……」

 羽月に、懇々こんこんと伝えた。おれがお化けに憑りつかれているのだということ、父が原因でもなく、家が原因でもなかったこと、そして今日、羽月の家にきたことで、すべてはっきりしてしまったこと。

 肩を震わせることもなく、悲しむでもなく怒るでもなく、淡々と事実を告げた。ニュースキャスターが悲惨な事件についても感情を交えずに話すみたいに。淡々と。

 それから最後に、「今日は仕事が遅くなるから、ご飯はいらないよ」って言うみたいに、

「だからもう、おれたち、一緒にいない方がいいよ」

 そう、言った。

 ショックだっただろうか、ショックを覚えていてくれるといい、おれのことを、ショックを覚えてくれるくらい、思っていてくれたらうれしい、そうだったらいいな。と横顔を見たけれども、なんにも顔色は変わっていなかった。

 怖かった。羽月がなにを考えているかわからなくて。でも、言わなくちゃいけなかった。

「子供が生まれたら養育費とかは送るから。その、これは離婚した夫が裁判で負けても全然お金を払わないとか、そういうんじゃなくてちゃんと送るからさ」

 まじめに言うのは怖かったから、少しふざけて言った。ふざけないで言うのは怖かった。お化けと同じくらい、怖かった。

 羽月はぐっと、おれの腕を取って、摑む。ぎゅううと。ものすごい力で、肉を摑む。痛かった。右腕を、羽月の親指と人さし指で。二の腕の肉を摑んできた。痛いよ、羽月。

「いいよ。一緒にいよう」

 強かった。有無を言わさぬ声だった。負けそうになる。本当に、羽月と一緒にいられればいいって、思ってしまいそうになる。

「話、聞いてました?」

 精一杯、強がりで笑う。

「お化けが出るんだよ。一緒にいたら、きみもきっと、毎日お化けに怯えながら暮らして、それはお腹の子供にもよくないよ。生まれた子供も怖がるだろうし、性格がおれみたいに、ひねくれちゃうかもしれない。おれ、何回きみにいやなこと言って、きみから怒られたか、わかんないよ。だからおれたちは一緒にいない方がいいし、一緒にいちゃいけないんだよ、羽月」

「いいよ」

 即答した。おれの言葉にも、ちっとも、ひるんだり、怯えたりすることなかった。それが怖かった。この人は本当にそう思っているのがわかるから。

「ノキくんが苦しんでるんだったら、わたしも一緒につらい目に遭うよ」

「おれがどんなに怖い目に遭ってきたのか、きみだって、知らないわけじゃないだろ、話したでしょ、泣きながら、言っちゃったでしょ……」

 羽月はお化けを見て、おれより怖がっていた。お化けは苦手だって言っていたこともあった。そんな人が、お化けを我慢するなんて不可能だ。耐えるなんて不可能なんだ。

 それに、きみは覚えていないかもしれないけど、自分の赤ちゃんを刺し殺そうとしたこともあるんだよ。

 おれは笑いながら、「無理だよ」と言った。

「無理じゃないよ、耐えるよあたし」

「耐えたって、なんにもならないよ。疲れたり、みじめな気持ちになるだけだよ。そしていつか、きみはおれのことを憎むようになるよ。どうしてこんな目に遭わなくちゃならないんだって思うようになる。そうなるのはいやなんだ。おれはもう既にこんな目にきみを遭わしているくせに……厚かましいことを言ってるのはわかる。でもそれでも、おれはまだきみに嫌われたり憎まれたりしたくないんだ」

「憎んだり、恨んだりしないよ」

「するよ、羽月、おれがそうだった、おれはおれの父を、今でも憎んでるよ、おれの言うことを信じてくれなかったって。それに、もしかすると、須磨の家系がお化けの原因なのかもしれないって思ったら」

「そりゃあノキくんが弱いからだよ。あたしはノキくんより強いから平気だよ」

 ぐっ、と言葉に詰まる。喉に空気が張りついて、嗚咽みたいな音が出てしまう。

 首を振る。羽月の目を見られないまま、小さい声で言う。

「噓だよ」

「本当だよ、本当のこと言ってるって、わかるでしょ、こっち見てよ」

 おれは見なかった。羽月の目を、見られなかった。噓をついているわけなんてない。羽月は本当に、心からそんなことを言っている。それがわかるから、見られなかった。

「見てよ……」

 おれは、見られなかった。

 おれの腕を摑んでいる羽月の腕を、強引にほどき、歩き出した。腕には、跡が残っている。ひりひりしている。痛かった。その痛みが、むしょうに悲しかった。

 きっと羽月は、お化けに怖がっても苦しんでも、おれのことを恨んだり憎んだりはしないだろう。絶対に、しないだろう。おれみたいなやつを気にかけてくれて、おれみたいなやつを好きになってくれて。おれにはもったいないくらい、いい人だから。

 だからこそ、好きになったんだ。


 駅まで歩く。うっかりして、焼き肉屋の前を通ってしまったけれども、羽月はなんにも言わなかった。二人とも、無言だった。

 改札で、羽月に振り返った。なにか言わなくちゃ、と思って、考えて、頭をひねって、

「ありがとう」

 と、それだけ言った。

 人間、最後は、こういうシンプルな言葉が出てくるんだなと思った。それ以外は、言えないんだな。

「ううん、いってらっしゃい」

 言ってから、羽月が、おれの目を見た。じっと。昔のこと。大学の、死生学の講義のあとで、「お化けって、なに?」って、聞いてきた羽月のことを思い出した。けれども、おれはごまかすように笑った。そうしていないと、泣いてしまいそうだった。

 電車がきそうだったから、急いで改札を抜けた。羽月がいつまでも改札の外で立っているのが目に見えるようで、それがいやで振り返らなかった。待っていなくていいよ。おれのことなんて待っていなくていいよって。

 やってきた電車は通勤の人たちでいっぱいだった。満員電車に体を押しこめると、自分がいなくなってしまう気分になれてよかった。こうして、電車が動いている間に、人と人との間ですり潰されて、見えなくなって、おれという存在がなくなってしまえばいい。

 電車は走り出した。羽月はいつまで改札の外にいるかわからない。いつまでも、いつまでも待っているような気がして、涙が出てきた、そんなに待っていなくていいよ、おれが次にくるときにまたきてくれればいいよ、次にくるときに。

 次に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る