第3話

 梅雨が明けて、初夏の気配。早すぎるけれどもう、夏休みの気分になってしまう。しかし今年は受験だから、あまりだらだらできない。生徒会はこの時期、ボランティア活動をすることになっている。僕の家の近くに老人ホームが出来ていて、生徒会で手の空いている人間が、週末お邪魔することになった。

 ボランティアといっても、高齢者の方と適当に遊んだりするだけだ。認知症の方も多いので初めは大変かもしれませんと、スタッフの方が言っていた。しかしなぜか僕はすぐに慣れてしまった。居心地がよかった。生徒会で手が空いているのは、主に僕とうさぴょんだけだった。会長は書道部の副部長だし、他にもいろいろ肩書きがある。サエコは見かけによらずオペラを習っていて、毎日のようにレッスンがあるらしい。そもそも3年は受験があるので暇ではない。しかし僕は暇だ。なんでだろう。殿村君はバスケ部が忙しいし、酒巻さんは野球部のマネージャーで多忙を極めている。だいたい僕とうさぴょんの2人で行くことが多かった。

 ホームで一番仲が良いのが亀田さんというおじいさんで、このホームには通いで来ている。近所に住む普通のおじいさんで、ここには遊びに来ているような感じだ。この人と将棋を指すのが毎週の習慣になってしまった。亀田さんは将棋が強くて、ハンデを貰ってもまったく歯が立たなかった。亀田さんは勝ちまくりですごく嬉しそうだが、僕はかなりくやしい。小学生のときはクラスで一番強かったのだが。

「早川ちゃん今年高校受験だろう? じいさんに負けているようじゃ危ないぞ」亀田さんが嬉しそうに言った。

「ほんと将棋をやってる場合じゃないですよ。勉強しないと。本当にやばいですよ」

「やばいのか。いや、相手をしてくれるのは有難いが、勉強をしたほうがいいのではないか?」

「そうですよね。でも週末になるとここに来たくなるんですよ。勉強から逃げる口実に使ってるのかな。でも、今度本気で勉強道具持ってきますよ。なんか集中できそうだし」

「それはいい考えだな。ここは静かだし、ときどき叫びだす奴もおるけれど、だいたいは平和だしな。お茶とお菓子も出るし」と亀田さんがスタッフの人に同意を求めるように、大きな声で言った。

 そうよ、そうしなさいよとスタッフの方も笑って言ってくれる。僕と亀田さんの対局を楽しみにしてくれている人も少なからずいる。知らないうちに、すごくここになじんでしまった。

 一方うさぴょんは初め、かなり硬かった。何をしていいのか分からずに、大人しいおばあさんグループといっしょに、ただテレビを見て、帰ることが多かった。僕らは週に一回しか来ないので、ほとんどの老人は僕らの顔を覚えない。毎回初対面のような感じだけれど、僕はそれがむしろ気楽だった。うさぴょんもそのことに気が付いたようで、だんだんとリラックスできるようになっていった。僕はだいたい「学生さん」か「おにいさん」と呼ばれるが、宇佐美さんは「うさぎさん」と呼ばれた。立派な耳があるから当然だけれど、ちゅうちょなく「うさぎさん」という言葉が出る老人たちが素敵だった。


 それから一ヶ月ほどして、僕と亀田さんが、いつものように将棋で対戦していると、うさぴょんが利用者のおばあさんと一緒に観戦にきた。ここはいいところを見せようと僕はがんばったけれど、かなりハンデをもらっているにもかかわらず、やはり負けてしまった。亀田さんがガハハと笑って、嬉しそうにしている。

「早川ちゃんは受験勉強が忙しいからな。将棋の勉強はできんだろ。当分勝たせてもらうよ」と亀田さんが言った。

「まだ2勝ぐらいしかしてないですよね。まいったな、わりと自信あったんだけど。もう今日は受験勉強しよう」

「あらま。次は飛車角落ちでと思ったんだが、まあ仕方がないな。それじゃあ、どうだい、うさぎさん、相手になってくれないかね」と言って亀田さんは宇佐美さんの顔を見た。

 うさぴょんは遠慮するかと思いきや、僕がさっきまで座っていた席にゆっくりと座った。亀田さんがとても嬉しそうな顔をした。

「初めてだからハンデ無しでな。まずは真剣勝負」

「お願いします」と宇佐美さんが真剣な顔で言った。

 対局の内容が気になったけれど、僕は勉強しなければならない。学校はもう夏休みに入っていて、自分で勉強する気を起こさないとなにも進まない。正直図書館に行くよりも、老人ホームにいるほうが勉強がはかどるので、気が向いたらホームに来るようにしていた。うさぴょんもこの場所が気に入ったようで、けっこう頻繁に来ている。別に僕の予定とあわせる必要はないのだけれど、一応生徒会の活動という意識があるのだろう、僕といっしょになることが多い。ホームに来てしまえば、うさぴょんとはまったく別行動なのだけど。

 僕が受験勉強をしていて、うさぴょんが持参したノートパソコンをパタパタ叩いていて、まったく老人と交流してない時がある。少しまずいかなと思う。でもスタッフの方が、僕らがいてくれるだけでありがたい、と言ってくれるので、お言葉に甘えさせてもらっている。クーラーにあたって、お茶を飲んで、漫画を読んで帰ってしまうこともあったが、それだとあまりにも格好が付かない。勉強をするふりをしていたら、意外にはかどることに気が付いて、ようやく僕も受験モードに入ることができたみたいだ。

「あららっ!」

 亀田さんの大きな声がした。この人は声がでかくて、なにかにつけては叫ぶくせがある。僕が振り返ると、亀田さんがつるつるの頭に手を当てて、うなっていた。

「油断した。ただのうさぎさんかと思いきや、とんでもないうさぎさんだよこれは」

 どうやら、うさぴょんが、なにかやらかしたらしい。うさぴょんなら十分ありえるな、と思った。

 午後6時には帰宅することにしていて、勉強も区切りが付いたので、帰り支度をして2人の対局を見に行った。亀田さんが盤面をぎりぎりと睨んでいる。周りの観客もなにか熱のこもった目で見ている。ご老人に囲まれて、うさぴょんはやさしい表情をしていた。形勢は圧倒的にうさぴょん有利で、亀田さんは最後のあがきをしていた。

「参ったを言える大人がよい大人。亀田さん、もう6時ですよ」

「った~、やられたよ、早川ちゃん。うさぎさんは私より格上だ。こんなお嬢さんがな。信じられんな。いや、子供でも強い子はいるよ。でもな、うさぎさんは全然そんな感じがしなかったからな。駒の持ち方も変なのにさあ」

「宇佐美さん将棋好きだったの。普段からやってるの?」

「リアルでやったのは初めてなんです。とても楽しかったです」

「てことはゲームでやってたの? それで亀田さんに勝てるとはすごいなあ」

「ネットでは人とやったことがあります。あと定跡の本も一冊持っています」宇佐美さんは少し恥ずかしそうに言った。

「ですって、亀田さん。うちのうさぎちゃんはすごいでしょう」

 亀田さんが声にならない叫びをあげた。僕はすこし、いや、かなりすっきりした。

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