第11話

 この地域から進学できる高校は、もちろんたくさんあるけれど、僕は電車通勤はしたくない。自転車で片道十五分。ちょうどいい距離にあるのが日暮里高校で、都立の中堅進学校だ。いまの僕の成績だとかなりきびしい。でも、できれば日暮里高校に入りたい。模試の結果で言うと、合格率五十%だった。

 通勤のことが一番のモチベーションになっているのが、情けないけれど、自分らしいとは思う。それと、二瓶さんが同じく日暮里高校を志望していた。もし合格できれば、彼女の活躍をまた3年間見ることができる。それを見逃す手はないと思った。

 僕が老人ホームに行って、挨拶をすると、時々、普段声を出さない人が「がんばりなさい」とか声をかけてくれる。ぼんやりテレビを見て過ごしていたおじいさんが、僕にお茶を入れてくれた。おばあさんたちがこちらを気にしながら、小声でおしゃべりしている。なんだか、受験勉強の緊張感が、ホームの人にもうつってしまったようだった。うさぴょんがいてくれるのも大きくて、僕が老人と交流できていない分を補ってくれている。たぶんいままでの人生で、一番勉強に集中できている。勉強が面白いと言えないこともない。ちょっと気持ち悪いけど。

 「一日があっという間だ」とよく亀田さんが言うのだけれど、ホームにいるとそのことがよくわかる。矛盾しているようだけれど、時間はゆっくりと流れて、日々は早く過ぎて行く感じがする。海に沈む夕日をじっと眺めているような、平和で、ちょっとさびしい感じ。老人の方々は、本当に人生の黄昏だからいいけど、若者としては、時間がもったいないという、あせるような気分になってくる。実にここは受験勉強をするのに向いている場所だと思う。いっそのことセットで、そういう施設を作ってみたらどうかと思う。

 学生が1人いるだけでも刺激になっているわけで、この老人ホームはちょっと平和すぎる。平和なのはいいことだけれど、ただでさえ短い一日が、風のように過ぎ去ってしまう。そういうわけで、ホームにはいろんな催しがある。イベントを設定して、時間の流れにくさびを入れるの必要があるのだ。今年のクリスマス会は、うさぴょん主演の「うさぎと亀」が上演されることになった。クリスマスとはまったく関係が無いが、文化祭の感動ふたたび! という感じで、亀田さんも気合が入っているようだった。

 老人ホームの舞台はせまいので、文化祭とまったく同じというわけにはいかない。脚本も、お年寄りにわかりやすいように、短くしてもらった。出演者も大幅に減らした。スケールが小さくなるので、どんな出来になるのか少し心配だったけれど、杞憂だった。文化祭のときと違って、役者は観客の目と鼻の先で演じる。亀田さんの汗の粒までわかる大迫力。倒れこむうさぴょんは、目の前にある悲劇だった。観客のお年寄りは、亀田さんの迫真の演技に度肝を抜かれ、「うさぎさんがんばって!」とみんなで応援し、ラストシーンは食い入るように見つめていた。

 現実と舞台がごっちゃにならないか、亀田さんがあとで冷たい目で見られたりしないか、少し期待を込めながら心配していたけれど、そこは問題なかった。劇が終わって、出演者が挨拶をすると、拍手喝さいになった。考えてみるとお年寄りは、僕らなんかよりも相当、舞台や劇を見てきたはずなのだ。そんな目の肥えた客に感動を与えているのだから、うさぴょんもますます本物だなと思った。

 生徒会の面々と、舞台に関わっていた2年生数人が集まって、今回いろいろ手伝ってくれた。僕とうさぴょんが、あまりにも老人ホームになじんでいるので、みんなに驚かれた。

「ほとんどここのスタッフの人みたいね」

 二瓶さんが感心したように言った。

「まあ、ほぼ毎日来てるからね。勉強がはかどるんだ。これが」

「そうなの? わたしもここで勉強してみたいな」とサエコが言った。

「サエコはオペラ高校行くんだろ。歌の練習とかはやめてくれよな。うるさいから」

 即座にするどい蹴りを頂戴した。

「でもサエコ、本当に音楽系の高校に行くんでしょ? 聞いてみたいな」と二瓶さんが言った。

「そうだよ、クリスマス会にちょうどいいよ。歌って頂戴ませ」

「達也の前では絶対歌わない。絶対に嫌」

 しかし、酒巻さんとうさぴょんにも聞きたいと言われ、スタッフの方にも是非にと言われ、あっさりサエコ城は陥落した。実は最初から歌いたかったのではないかと僕は思ったが、クリスマスなので平和にいくことにした。

 サエコが舞台に立って、おなかに軽く手をあてる。すっと息を吸い込むと、ゆっくりと小さく歌いだした。これがすごい。マイクもなしに、部屋が震えるような歌声を出す。楽器人間サエコ。馬鹿にしているのではない。正直、圧倒された。イタリア語らしいので、意味がまったくわからないけれど、なぜか感動してしまった。不良の時代にも練習を欠かさなかったと言うから、サエコもそうとうオペラに賭けているんだろう。音程が安定していて、聞いていて気持ちがよかった。高音域で、キーンというような張り詰めた音をだされると、背中がゾクゾクした。

 みんなに褒め称えられて、サエコは嬉しそうだった。舞台でお辞儀する姿が、けっこう優雅に見えた。あのサエコが。

 サエコのおかげで、クリスマス会は充実のボリュームになり、ご老人がたも大満足のようだった。みんなで後片付けをしているときに、僕はサエコに声をかけた。

「よかったよ」

 言わずにはいられない感じだった。

「ありがと」

 サエコが妙に素直にお礼を言った。

「本当によかったよ」

 重ねて言いたい感じだった。

「うん。ありがとう」

 忙しく片づけをしながら、サエコは少し嬉しそうにした。

「ちょっと良過ぎだったよ」

「あ・り・が・と・う!」

 ちょっとキレかけだが、それでもサエコは嬉しそうだった。蹴りを頂かないと、こちらの引っ込みがつかない。もうひとこと、なにか茶化すようなことが言いたかったけれど、あまりにサエコが素直なので、止めておこうと思った。僕もしつこいな。ちょっとうらやましい感じがしたのだと思う。サエコがなんだか輝いて見えた。

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