第12話 伊豆へ
「何か、不自然だ。」
その日の診察を終えた隆は頻りに小首を傾げた。
「何が、不自然なんですか。」
傍らでカルテを片付けていた、彩は思わず尋ね返した。
「おかしいと思わないかい。レジャーランドの建設と称してたくさんの人足が移り住んできて。でも半年も経つのにあまり工事が進んでいるようには見えない。それどころか変な集会を開いたり、それに今度は村長選挙だ。」
「そう言われてみれば……。」
彩も不安気に相槌を打つ。隆はしばらくじっと何かを考える仕草をしていたが、やがて彩が驚嘆するような仮説を口にした。
「レジャーランドの建設というのは実は嘘で、最初からこの村を乗っ取る積もりだっんじゃないかな。」
彩は、隆の一言に心臓が止まらんばかりに驚嘆した。確かに隆の言う通り、このところ変なことばかり続いていた。レジャーランドの誘致話が決まって後、人口二千人そこそこの村に千二百人からの人が移り住んだ。しかもわずか半年ほどの間にである。
しかし、実際にそれだけの数の人が働いているようには見えなかった。プレハブ住宅が新設されはしたが、その半分は未だに夜になっても明かりも点らなかった。この村に住民票だけを移して、実際には住んでいない人間もかなりの数に上るようであった。
「でも、どうしてそんなことを。こんな山奥の村を乗っ取って一体どうしようというのかしら。」
「うん、問題はそこだ。動機が解らない。その福山真とかいう候補者は一体何を考えてるんだろう。何か狙いがあるはずだ。」
隆は腕組みをしたまま、しばらく考え込んでしまった。
「一度、福山真がどういう人物だったのか当たってみた方がよそさうだ。僕は一度伊豆に行ってこようと思うんだけど。ニ~三日診療所を休んでもいいかな。」
「ええ…。でも、私、怖いわ。何だか不気味な感じがして。」
彩は不安の色を隠せずにつぶやいた。
「大丈夫、すぐに戻るから。」
隆はニコリと笑ってみせたが、内心大きく不安が燃え上がるのを覚えていた。
「か、火事だ。」
「おーい、火事だべ。マインランドの工事現場の方だ。」
彩の不安は的中した。隆が出発するのを待っていたかのように事件が勃発した。出火したのは夕暮れ時の午後五時頃、恐らく夕飯の支度の火か何かであろう。青年団の消防隊が駆けつけた時には、火はもう手が付けられないほど回り、飯場のプレハブ住宅は猛火に包まれていた。
出火後一時間ほどで火は消し止められた。消し止められたというよりは全てが燃え尽きたという形容の方が正しいかもしれない。プレハブの住宅は僅かの鉄筋だけを残して跡形もなく燃え尽き、無残な焼け跡を晒していた。
「怪我人だ。怪我人がいるぞ。」
「先生だ、早く先生を呼んで来い。」
焼け跡を捜索していた消防隊の一人から声が上がった。しばらくして黒焦げになった塊がわずかにくすぶり続ける現場から運び出された。
「先生は休暇中でいないわ。」
火事の知らせを聞いて駆けつけた彩が絶叫した。
「なぬ、先生がいない。こげな大事な時に、どこへ行っただ。」
消防隊の一人が、すすで真っ黒になった顔を撫で回しながら怒声を上げた。彩は立ちすくんだまま消え入りそうな声で答える。
「ちょ、ちょっと調べものがあって、二~三日東京の方に…。」
「えーい、役立たずが。んじゃ彩ちゃん、おめえが代わりだ。早く怪我人を…。」
その声と同時に、彩は怪我人の前へと押し出された。
が、その瞬間、彩は両手で顔を覆ってしまった。担架で運び出された怪我人とやらは、全身が焼け崩れて一つの肉塊となっていた。顔と思しき場所からはまだプスプスと白いものが上がり、鼻を突くような肉の焦げる臭いが辺りに立ち込めた。肉塊はピクリとも動かず、一見して生きているようには見えなかった。全身が真っ黒に焼け爛れ、ところどころ無残に皮膚が捲れ上がり、その下から赤黒い肉が覗いていた。
彩は吐きそうになるのをぐっとこらえながら怪我人に近寄った。看護師になって以来、相当重傷の怪我人も見てきた。多量の血を見るのも苦にならなくなった。しかし、今目の前にいる怪我人はこれまで見たどの怪我人よりもひどかった。彩はかろうじて怪我人の首筋に手を当てて脈がないのを確認すると、首を横に振った。
怪我人が死亡したのを確認した消防隊は皆一様に黙祷した。怪我人を助けられなかった無念さが滲み出た。その時である、その様子を遠巻きに見ていた人足連中の一人が前に進み出た。
「ご苦労様でやした。後はわしらの方で片付けやすから…。」
その一言に促されるかのように、人足連中が一斉にドヤドヤと怪我人の周囲に人垣を作った。
「な、何するだ。まんだ消防の現場検証も済んでねえだ。」
青年団の一人が大声で抵抗した。
「夕飯の支度の火ですだ。天ぷら油がひっくり返って、あっという間でさあ。何人もの仲間が見てるだ。もう逃げ出すのがやっとだったべ。」
その声と同時に、彩と村の青年団の男達は鉄扉の外に押し出された。辺りはいつしかどっぷりと日が暮れ、空には一番星が瞬き始めていた。彩はまだガクガク震える足を引き摺りながら、青年団とともに村への道を下っていった。
二日後の朝、隆は西伊豆にある土肥町の港に降り立った。前日は沼津にあるホテルに泊まり、朝一番の連絡船に乗った。ここへのアクセスは陸路よりも沼津からの船の方が便利であった。土肥は西伊豆の海に面した風向明媚な温泉町であったが、首都圏からの交通の便がよくないこともあって、未だ鄙びた雰囲気を残していた。
隆は港の前のバス停からさらに新島村行きのバスに乗り込む。乗客は隆の他に、観光客らしい若い女性が二人と地元の人と思われる老人が一人であった。
土肥港を出発すると間もなくバスは海沿いの狭い道路を唸りを上げながら走り始めた。山が海までせり出し、その裾にへばりつくように道が付けられている。バスは狭いカーブを曲がる度に右に左にと大きく揺れながら半島を回っていく。座っていても吐きそうなくらいに体が左右に揺れる。隆は思わず手すりを握り締めた。
「はい、網町。」
走り始めて十分、気だるいアナウンスとともにようやくバスは停車した。ここで若い二人が下り、代わって大きなクーラーボックスを肩に担いだ老婆が乗ってきた。このバスは観光客を運ぶと同時に、地元民の生活の足でもあった。そんなことを何度か繰り返しながらも、走り始めて約四十分ようやくバスは終点の新島村に着いた。
村は入り組んだ海岸にある小さな入り江に面していた。百個ほどの小さな集落であろうか。どの家も庭先に魚の干物が所狭しとばかりに並べられ、折からの小春日和の柔らかな陽射しに照らされてムンムンとした臭いが漂っていた。港には今朝漁から戻ったばかりの漁船が十数艘係留され、静かに波に揺れていた。隆は終点のバス停で帰りのバスの時刻表をチェックした。
一日五便しかないため一本逃すと大変である。隆は目指す福山真の家を探し求めて歩き始めた。村中の家はいずれも小さな家ばかりである。猫の額ほどの庭先には手入れし終えた網が掛けられ、ムッとした潮の臭いが鼻を突いた。
「確かこの辺りのはずだか。」
隆は持ってきたメモと照らし合わせながら何度も住所を確認する。表札はいずれも「福山」となっていて、どれが目指す福山真の家か分からない。このような田舎ではよくあることだが、一集落の半分以上が同一姓なのである。特に親戚というわけでもないのだが、ずっと遡れば根は同じなのかもしれない。
隆は仕方なく番地を一つ一つ当っていった。探すこと約二十分、隆はようやく福山真の家の前に辿り着いた。その家も他の家に勝るとも劣らぬ小さな東屋で、かなり傷みが激しかった。隆は恐る恐る家の中を窺うが、もう長い間人が住んだような気配はなかった。わずかばかりの庭には雑草が生い茂り、屋根瓦はあちこち剥げ落ちて無残な姿を晒していた。表札は既に字が読めないほど朽ち果ててはいたが、かろうじて福山という字が読み取れた。
隆は何か福山真に繋がるものはないかと探し回るが、古びた家以外には何も目に付くものはなかった。家の前をウロウロすること十分、一人の漁師が海の方から坂道を上がってきた。赤銅色に日焼けした太い腕には、大きな定置網が掛けられている。漁師にとっては網は命の次に大切なものである。今朝浜辺で手入れしたばかりなのであろう、ところどころ丁寧に紡いだ後が見えた。
「あのー、ここに住んでいた福山真さんをご存じないですか。」
隆は、漁師を呼び止めた。
「知らないね。」
男はじろりと隆の顔を睨み付けると、ぶっきらぼうに答えた。隆がさらに声を掛けようとする間もなく漁師は坂道を上がって行った。しばらくすると今度は上の方から一人の老婆が下りてきた。足が少し悪いのであろう、杖を突きながらゆっくりと坂道を下ってくる。隆はゆっくりと老婆に近付くと声を掛けた。
「あのー、ここに住んでいた福山真さんをご存じないですか。」
「はあー。」
老婆は歳に似合わない大きな声で聞き返した。どうやら少し耳が遠いらしい。
「ふ・く・や・ま・ま・こ・と、ご存じないですか。」
隆は今度は老婆の耳元で大きな声で繰り返した。
「あー、真ちゃんね。」
意外にも老婆ははっきりした声で真の名を繰り返した。
「ご存知なんですか。」
隆ははっとして聞き返した。
「ああ、知ってるよ。小さい時からね。でも最近見ないねー。どこで何してるのか。」
やっぱり福山真はここに居たのである。しかし、最近はいないという。無論そうであろう。福山真は今野辺山村にいるのである。
「そ、それで、どんな人だっんです。」
老婆は少し怪訝そうな顔をして見せたが、すぐに話し始めた。
「あれは四十年も前のことだったかねー。真ちゃんのお母さん、照代さんっていうんだけど、急に東京の嫁ぎ先から帰ってきてね。何でも旦那さんが急な病で亡くなったとか。かわいそうだったよ。すっかりやつれてね。若かった時は、この村でも一、二を争ういい娘っ子だったのに。人が変わったみたいで。」
「東京?。」
「ああ、照代さん、東京のお金持ちの坊に見初められてね。あれは終戦間もない頃だった。夏休みにここに遊びに来ていた学生さんと深い仲になって。確か東大出の偉い人だとか言ってた。あっちのご両親は随分と反対したらしいんだけど、最後は押し切られて。それがこんなことになるだなんて。苦労したんだねー、きっと。それから間もなくのことだったよ、照代さんも重い病気で亡くなって。あんな悲しいお葬式はなかったね。」
老婆はそこまで話すと、当時を思い出したのかそっと目頭を押さえた。隆はショックを受けた。福山真を一番よく知るはずの人が既にこの世にはいなかった。それよりも何よりも、そんな若くにして相次いで両親をなくした福山真という人物に哀れみさえ感じ初めていた。
「そ、それで、お子さんは。」
「真ちゃんは気丈だったよ。お葬式の間も一度も涙は見せなかった。それどころかじっと人を見据えるあの目つきは空恐ろしい感じがした。余程のことがあったんだろうね、きっと。結局、真ちゃんは照代さんのお母さん、真ちゃんから見ればおばあちゃんだけど、初さんていう人が引き取って…。東京の家から時々養育料が入るって言ってたから、暮らし向きはそんなに悪くはなさそうだったけどね。でも東京の方からは一度も顔を出さなかった。冷たいもんだねえ。」
老婆は当時を懐かしむかのように、皺の多い顔をさらにくしゃくしゃにしながら話を続ける。最初は怪訝そうな顔をしてはいたものの、年寄りというものは存外話を始めると多弁なものである。隆の方から聞くまでもなく、次から次へと言葉が口をついて出てくる。
「じゃが、その初さんも真ちゃんが高校生の頃に亡くなったさ。それから後のことはあたしもよくは知らないねえ。時折プラリと家に帰ってきてはまたいなくなる、どこで何してるのかさっぱり。そう言えば、ここ三年ほどは見かけなかったかねえ。」
福山真は確かにここに住んでいたようである。ただこの村で漁師の仕事をしていた訳ではなさそうである。では一体どこで何を。
「それで、その照代さんの嫁ぎ先の人の名前は分かりますか。東京の偉い人というのは一体どこのどういう人だったんですか。」
「確か、名前は田辺とか言ってたかねえ。もう四十年も前のことだからよくは覚えちゃいないよ。照代さんも、東京でのことはあまり話したがらなかったしね。一体どこに住んでたんだか。」
老婆は必死に思い出そうとするかのような仕草をしてみせたが、そこから先は言葉にならなかった。隆はガッカリした。残念ながら福山真の手掛かりはここでプツリと途絶えてしまった。隆は四十年という歳月の重みを感じた。
しかし、このような年寄りを責めてみても詮無いことであった。いやそれどころかむしろ感謝しなければならない。これだけの情報でもないよりはずっとましである。少なくとも福山真の生まれ育ちには人知れぬ深い不幸の色が刻まれていたことがわかった。そしてまた福山真の旧姓が「田辺」という名であったことも。隆は老婆に丁重にお礼を言うとバス停の方へと下って行った。
「そうかそんなことが…。済まない、僕が診療所を留守にしたばっかりに。」
翌日の昼過ぎ、野辺山村に戻った隆は早々に彩から件の出来事についての報告を受けた。
「いいえ先生のせいじゃないわ。」
一部始終を報告する彩は言葉少なであった。あの日以来、毎晩うなされて食事も喉を通らない状態が続いていた。どんなに忘れようとしても、あの強烈な光景と臭いが脳裏に焼き付いて離れなかった。さすがに気丈な彩も、隆の姿を見てホッとしたのか薄っすらと目に涙を浮かべた。そんな彩の心の内を百も承知の上で、しかし隆にはまだ聞かねばならないことがあった。
「で、やっぱり連中は現場検証も検死もさせなかったんだね。」
彩は黙って頷いた。
「でも…。」
彩は一瞬戸惑いながらも、必死になってその後の言葉を続けた。
「でも、あれは焼死じゃないわ。」
「えっ?、焼死じゃないって。」
「ええ。私、人工呼吸をするような振りをして咄嗟に口を開いて覗いてみたの。それで、それで…。」
彩は鼻も口も分からないほど焼け爛れた恐怖の顔面を思い出しながら、やっとのことで自らの結論を口にした。
「口から喉の奥はきれいだった。全身はすすで真っ黒だったのに。そこだけは今にも息をするんじゃないかと思えるほどきれいで…。」
その一言で隆は全てを理解した。火事が発生した時生きていたとすれば口から喉の中もすすで黒くなる。火事の犠牲者はほとんどが煙を吸い込むことで死亡するのである。火傷が原因になって死ぬことはむしろ少ない。喉がきれいだったということは、犠牲者が火事が発生する前に既に死んでいたことを意味した。
「そうか、よくやったね。よく落着いてそこまで観察したね。」
隆は恐怖の記憶をじっとこらえて説明を続ける彩の肩にそっと手をかけた。その瞬間、彩はわっと泣き崩れて隆の胸に飛び込んだ。
「せ、先生、私、もう怖くて怖くて。何がなんだか…。」
「ああ、もう大丈夫だ。大丈夫。全部忘れるんだ。」
隆は震える彩の体をしっかりと抱き締めると、繰り返しねぎらいの言葉を掛けた。
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