第14話 偽装過疎

 村長選挙を明日に控えたその日、先日廃坑の中で採取した湧水の分析結果が隆のもとに届いた。

「な、何だ?、この数字は。」

 結果表を見る隆の目が釣り上がった。

「そんなに悪いんですか。先生。」

「悪いなんてもんじゃない。取水口の濃度ですらWHOの基準値の千倍はあった。ここの値はさらにその一万倍。つまり掛け算すれば、この分析結果は基準値の一千万倍の濃度になる。この値であれば、コップ一杯で一生子供の出来ない体になる可能性がある。」

 茫然自失。そのような猛毒がなぜそんな場所に。隆はまだ信じられないという表情で言葉を続ける。

「とにかく自然界でこのような異常な値が出ることはまず考えられない。あそこには何かがあるんだ。あの金網の向こうの閉ざされた空間にきっと何かが…。」

 隆はそこで言葉を止めた。二人の間に沈黙の時間が流れた。その沈黙を破ったのは彩であった。

「もう一度行きましょう。先生。もう一度、あの場所に。」

「いや危険すぎる。明日は村長選挙だ。廃坑の中は連中が固めているかもしれない。」

「いいえ先生、村長が決まってからでは遅すぎるわ。そう村長が決まってしまってからでは…。」

 彩は力強く言い放った。先日の事件以来ショックで塞ぎ込んでいた彩の目に久しぶりに輝きが戻った。廃坑のことになると彩は異常に拘泥した。幼少の頃、自分の庭のようにして遊んだあの場所が未知の物質に汚染されているという。何としても原因を探し出し、この村に平和を取り戻したい、彩の目はそう語り掛けていた。


 その夜、二人は廃坑への突入を決行することにした。夜八時過ぎ、診療所を後にした二人は夜陰に紛れて廃坑の裏口を目指した。厚手の防水ジャケットにヘルメット、そして懐中電灯といういでたちはこの前と同じであった。二人は足早に銀山跡地の方角へ急いだ。

 しかし、村外れに達する前に、二人は異様な光景を目の当たりにした。村人たちが銀山跡地へと通じる道を続々と集結し始めていた。ある者は角材や金属バットを手に、ある者は日本刀や猟銃を手に、三々五々村外れへ集まっていく。

「このまま、村をあいつらに渡してなるもんか。」

「ああ、こうなったら力尽くであいつらを追い出すしかねえだ。」

 村人たちは口々に罵り合っていた。約八ヶ月間の忍従の期間を経て村人の怒りが爆発した。このまま手を拱いて見ていれば、なし崩し的に村の全てがあの怪しげな宗教団体に乗っ取られる。しかも合法的にである。いくら歯ぎしりをしてみても法では何も解決しない。とすれば残された手段は只一つ、無法に訴えるしかない。

「大変だわ。止めなきゃ。」

 彩は思わず駆け出しそうになった。その彩の手をグイッと引き止めたのは隆であった。

「だめだ。あの調子じゃ、もう何を言っても手遅れだろう。それどころか僕たちも巻き添えになる。そうなったら本当に何もかもおしまいだ。」

「で、でも……。」

 隆は強引に彩の手を引くと砂利道を先に進んでいく。彩がビックリするほど強い力で、もう否やを言わせないというムードであった。仕方なく彩は黙って隆に付き従った。

 村人の集団が押し寄せる前にも二人は銀山跡地の傍らを小走りに通り抜けた。もう寝静まったのであろうか、銀山跡地の中は真っ暗でシーンと静まり返っていた。あるいは村人の来襲を察知し、密かに迎え撃つ手はずを整えているのか。二人は不気味な程に静かで暗い銀山跡地の高い塀の脇を足早に走り抜けた。

 そこから先は漆黒の闇である。僅かな月明かりを頼りに山道を急ぐ。暗闇にサーサーという沢の音が響く。同じ場所でも昼間通るのと夜通るのとでは全く趣が異なる。懐中電灯の光の帯に照らされて鬱蒼とした木の枝が現れては消え、また現れる。この前来た道なのに夜歩くと途方もなく遠く感じる。二人はようやく件の取水口の所に出た。ここまで来れば廃坑の入口まではもう一息である。二人は息を切らせて廃坑の入口に到達すると中へと潜り込んだ。

 懐中電灯の光がさっと廃坑の壁に乱反射した。暗闇の中で開ききった瞳孔には、廃坑のトンネルの中は返って明るく感じられた。二人は慣れた道を急いだ。この前来た時の半分の時間も掛からずに、二人は大坑道に出た。坑道を右に走り、階段を下へと下ると、あっという間に四のハ坑道に立った。

 二人は懐中電灯を照らしながらゆっくりと四のハ坑道の奥へと進む。昨晩降った雨のせいて四のハ坑道の中はいつもより出水が多く、湿気を含んだ空気がひんやりと頬に当たる。濡れた天井や壁に懐中電灯の光が乱反射して怪しげに輝く。やがて二人の目の前にあの見覚えのある鉄柵が見えてきた。この前と同じように鉄柵には厳重に鎖が巻かれ、「危険、立入禁止」の札が掲げられていた。

 隆は慎重に柵の中の様子を観察した後、用意した金ノコで鎖を切り始めた。傍らから彩が懐中電灯で隆の手元を照らす。真っ暗闇の中で、キイキイという金属音だけが坑道内にこだまする。やがてチャリンという音とともに鎖が切れ下がった。隆は二重三重に絡まった鎖を丁寧に外すと、そっと鉄柵の扉を開いた。ギィという音ともに扉は内側に開き、ポッカリと開いた真っ暗な空間が更に奥へと続いている。

 幾筋かの水の流れがチョロチョロと音を立てて坑道の下の方へと下って行く。床はぬかるみ足場はすこぶる悪い。二人は身を石のように固く強ばらせ、懐中電灯を奥へと差し向けながら一歩一歩進んでいく。

 坑道は意外にもすぐに行き止まりとなった。天井から崩れ落ちたと思われる土砂が行く手を塞いでいる。どこか抜け道はないかと、隆は慎重に周囲の壁や天井を調べるが、トンネル内はアリ一匹這い出る隙間もないほど土砂が積もり、完全な行き止まりとなっていた。かつてこの坑道で落盤があったというのはどうやら本当であったらしい。とすれば、ここに長居は無用である。昨晩の大雨で地盤はかなり弛んでいるはずである。いつ何時また崩れるとも限らない。

「何もなさそうだね。引き返そう。」

 隆は当てが外れたことで少々ガッカリしたトーンで彩に声を掛けた。その時である。

「あれ、これは何かしら。」

 発声と同時に彩は床の片隅にしゃがみ込んだ。彩は懐中電灯を壁に照らしながら泥をかき出す。やがて白っぽい板状のものが泥の中に微かに浮び出た。隆も傍らから泥のかき出しを手伝う。その物体は一見するとプラスチックか何かのような材質で、所々腐蝕してでこぼこと穴が開いている。隆は板の端を掴むとエイッとばかりに引っ張ったが、板はピクリとも動かない。どうやら奥の方まで土砂で埋まっている所為であろう。仕方なく隆はさらに土砂をかき出す作業を続けたが、間もなくそれが無駄な作業だと分かった。

 板は一枚ではなかったのである。泥の中から姿を現した板のすぐ上にも別の板が重ねられ、さらにその上にも、そしてその上にも。隆が泥を一かきする度毎にダラダラと土砂が崩れ、次々と板の端が姿を現した。二人が撫で回すように懐中電灯で照らし出すと、その板状のものは天井に届くまでびっしりと隙間なく積み上げられていた。崩れないように丁寧に互い違いに積まれていた。

「一体これは何だ。何故こんなものがこんな坑道の奥に…。」

 隆はしばらく放心状態で積み上げられた板の壁を見上げていたが、やがて雷に打たれた如く声を上げた。

「ひょ、ひょっとして、これは…。」

 その瞬間である、二人の背後から強烈な光がさっと差し込んだ。

「そう、そのひょっとしてだよ。」

 ギョッとして二人が後ろを振り返った時、ガシャーンという音とともに鉄柵の扉が閉じた。慌てて駆け出す二人。しかし次の瞬間、ぬかるみに足を取られて彩がその場に倒れ込んだ。同時に手にしていた懐中電灯がパリンという音を立て、一瞬にして辺りは真っ暗になった。隆は必死になって手探りで彩を助け起こすと、鉄柵に手をかけようとした。しかし、時既に遅し。無情にも鉄柵は固く閉じられ太い鎖がグルグル巻きにされていた。

「まさか、これに気付く人間がいたとはな。全くの計算外でしたよ。先生。」

 再び強烈なサーチライトがともり、坑道の中は目も眩むような明るさになった。その瞬間、二人は声の主が誰であるかを知った。

「その声は、福山真、いや本当の名は渡辺真。」

 隆は、旅館の女将の話を思い出しながら、必死になって声の主の名を呼んだ。

「ほう、先生、よくその名前をご存知でしたね。そこまでご存知だったら、私が何故こんなことするのか、大体はもう察しておられるのでは。」

 福山はそこで一呼吸置いて、回顧するかの如く天井を仰いだ。

「全ては四十年前のあの日に遡る。あの日私はいつものように河原で一人遊んでいました。その時、見てはならないものを見てしまったんです。十歳の子供が受け容れるにはあまりに重過ぎるあの瞬間を、私はたった一人で迎えたんです。あの地獄のような瞬間は到底言葉に出来るものではない。あの日以来、私の頭の中には「復讐」という二文字が刻み込まれました。」

 二人は福山真が何を言おうとしているのかすぐに分かった。十歳の子供が自分の親の水死体を発見する。その心の痛手は到底筆舌に尽くせるものではなかった。

「父さんは哀れなほど憔悴しきっていました。毎晩、責められて責められて、見る影もなかった。何故こんなことに…、私は不幸な運命を呪いました。東京で暮らしていた時は本当に幸せでした。夜はいつも三人で夕食を取り、食卓には笑いが絶えなかった。優しい父さんでした。そんな幸せな生活が、無残にも文字どおり川の藻くずとなって消えたんです。その時、私は心に誓いました。一生掛けてこの村の人間どもを呪ってやろうと。」

 それから長い長い沈黙が続いた。暗闇の中ではあったが、二人は福山が泣いていると分かった。

「最初の転機が訪れたのは大学の時でした。薬学部に進学した私は、この世にごく微量で人の生殖ホルモンに作用する物質があることを知りました。これだと思いましたよ。その瞬間、私の胸のうちは歓喜の声で包まれた。これで積年の恨みが晴らせるとね…。

 それからというもの、私は必死になってポリカーボネイト樹脂の廃材をかき集め始めました。幸運にも、当時は政府がこの樹脂の危険性を判断し、使用禁止の通達を出したばかりでした。どこの業者も在庫の処分に困っていました。何しろ人の生殖機能に異常を来す物質を出す樹脂ですからね。捨てる場所もなかったんですよ。

 そうした廃材を集めるのはたやすいことでした。業者によっては引き取りのための費用まで出してくれるところもありました。僕はそうした業者からポリカーボネイト樹脂を買い漁った。いや正確にはお金をもらって引き取ったんです。多い日には一日に数トンになることもありました。

 そうして集めた廃材を毎日のように軽トラックでこの廃坑の奥に運んだ。そして一番水脈に近い場所を選んで埋めたんです。少しずつ少しずつ運び込んではまた埋める、そんな作業が三年にもわたって続きました。」

 茫然自失。この狂気の男は、四十年前自らの幸福な家庭を奪い去ったこの村に対して陰湿な復讐劇を仕掛けたのである。何の罪もない若い村の人々の体に、目に見えぬ毒牙を突き立て、さらに苦しむ人々を嘲笑うかのように今度は村の乗っ取りを企図した。二人は福山の執念と狂気に満ちたこの行動に返す言葉を失った。

「後のことはもうお分かりでしょう。ここまで辿り着かれたお二人のことだから、ここで、そうこの廃坑の奥で何が起きたのか、いや正確には今も置き続けているのか。私の予想は思わぬ援軍でさらに相乗効果を増しました。ご存知のようにここは銀山の廃坑だ。ここの壁の中には普通の土の数倍から所によっては数千倍の銀が含有されている。それがどういうことか分かりますか。

 私も後になって初めて知ったのですが、銀が触媒として働きビスフェノールAの溶出を促進する効果があったんです。それも普通じゃない。銀のおかけでここのポリカーボネイト樹脂は通常の百万倍の濃度でビスフェノールAを吐き出し続けたんです。」

 隆は、跳び上がらんばかりに驚いた。あの超高濃度のビスフェノールAの溶出に銀が関係していなんて。廃坑の奥底に山と積まれたポリカーボネイト樹脂は、銀が溶け込んだ湧水に触れ多量のビスフェノールAを長年にわたり吐き出し続けてきたのである。

 この廃坑内の濃度は通常の水道水の百万倍、たったコップ一杯の水で男性の生殖機能を狂わせてしまう濃度である。それが山を貫いて谷川に染み出し、あの取水口に至ってもなお通常の千倍近い濃度があった。村人のほとんどがそうした猛毒が水に含まれていることを全く知らないうちに長年にわたり汚染され続けてきたのである。

「予想以上の効果でしたよ。樹脂を埋め込んでから十年後にはかなりの影響が出てきました。明らかに子供の出来ない家庭が増えた。しかし、誰もその原因には気付かなかった。人口が減っているのは、都会に働きに出でしまう若者が多い所為だと誰もが考えていたんです。誰一人として男の不妊を疑うものはいなかったんです。先生がここに来られるまではね。

 やがて人口が減ってきたのを確認した僕は、ようやく決行の時が来たと確信しました。案の定、マインランドの話を持ち掛けると、村長はまんまと私の術中にはまりました。過疎対策のことしか頭になかった村長は、話の内容をよく調べもしないで私たちの提案に乗ってきました。マインランドが出来れば過疎対策どころか、この村が全国でも有名なリゾート地になるという誘いにいとも簡単に乗ってきたんです。

 後は見ての通り。我々の団体の息の掛かった団員を送り込み、まずは選挙権を得る。村の人口は二千人、有権者の数は千五百人だから、村長選挙に勝つには千二百人もいれば十分です。村人の中には村長嫌いな人もいる、それに若い人の何人かを洗脳すれば、それで村長選に勝つだけの票数は集まる。」

 福山の声が勝ち誇ったように上ずっていくのが、暗闇の中でもはっきりと聞き取れた。

「しかし、また何故よりによってこんな山奥の寒村を。」

 彩は震える声で闇の中に向って叫んだ。

「最初は昔年の恨み晴らすのが目的でした。こんな因習深い山村じゃ、子供が出来ないということがどれほどの苦痛かは想像に難くない。子供が出来ないことを理由に里に返された嫁も多かったんじゃないかと思いますよ。でも、ざまあみろだ。

 自分が四十年前に味わされた苦しみを数十年掛けて晴らしてやったんだ。そして今、その総仕上げをする時が来た。この村を手始めに手中に収めれば、次は郡だ、そしてその次は県…。過疎地の村や県を乗っ取るのはそう難しいことではありません。

 私はいつも不思議に思っていました。八百万人もの党員のいると言われている共民党が何故いつも選挙に勝てないのか。人口の多い都会ばかりに立候補者を立てているからですよ。過疎地であればほんの十万票もあれば国会議員になれる。簡単ですよ。住民票を移して選挙権を得る、そして選挙が終わればまた元の住所に戻り、次の選挙が近付けばまた引越しをする。その繰り返しをするだけです。

 野辺山村は、私が理想とする王国を築く出発の地となるのです。災い転じて福と成るとはまさにこういうことを言うんでしょうね。四十年前のあの事件がなかったならば、私は平凡なサラリーマン家庭のボンとして平和な一生を送っていたかもしれません。でも今は違う。あの阿宇無教ですら為し得なかった理想郷をこの地に打ち建てるのです。」

 この男は心を病んでいる。隆はそう思わずにはいられなかった。最初はただの復讐心から始まったのかもしれない。しかし、時間を経るにつれ、それは次第に誇大な妄想へと発展し、やがて自らの王国を建設する夢へと変貌していったのである。

 その夢を実現させるために過疎地は恰好の隠れ蓑となった。過疎に悩む無垢な村人たちを騙し、合法的に村を乗っ取る。よくもこれだけの謀略を考えつくものだ。だとすれば、ひょっとして…。

「じゃあ、落盤や火事で亡くなったあの人たちも…」

 隆と彩の脳裏に不可解な死を遂げたあの二人の最期の姿が思い浮かんだ。

「流石、先生。いい勘をされている。理想郷を建設するための尊い犠牲者ですよ。規律を乱す芽は早目に摘み取らなければ。

 最初の一人は、私たちの組織のあり方に反発して出てゆこうとした、最後まで私の理想を理解しようとしてくれなかった。それだけのことですよ。

 二人めは更に悪かった。この場所の秘密に気付いてしまったんです。『呪いの四のハ』坑道には決して近付くなという掟を破り、今先生がおられる場所に踏み込んでしまったんです。これも仕方がない。何しろ、この場所は私の理想郷の出発点となった神聖な場所ですから。聖域に踏み込んだ者にはそれなりの天罰が…。」

 やはり事故ではなかったのである。落盤で死んだとされたあの男も、火事で焼け死んだとされる男も。いやひょっとすると隆も彩も知らないもっと多くの人々も、この男の理想郷建設のための生け贄とされたのかもしれない。

「な、何て、非道な。」

 隆は暗闇の中から福山を睨み返した。

「非道?、じゃあ、あの四十年前のあれは何なんだ。何の罪もない父さんを皆が寄って集ってなぶり殺しにしたんだ。あの時、誰一人としてその罪償いをした人間はいない。そりゃそうさ。自殺じゃね。法律上は誰の罪でもない。だから誰も裁きもしてくれない。これこそが本当の非道だ。」

 隆と彩の口にもう言葉はなかった。この男に何を言っても無駄である。二人がこの男の狂気に満ちた謀計の意味を十分に咀嚼しきれない間にも、福山の一人演説は最悪の結語へ向って突き進んでいく。

「もういいでしょう、先生、そして可愛いお嬢様。私の話はそろそろ終わりです。全てを知ってしまったあなた方には気の毒だが、ここから生きて返すわけにはいかない。二人っきりで眠るにはお誂えの舞台でしょう。こんな山奥の廃坑、二度と掘り返す人もいないでしょうからね。」

 そう言いながら、福山は手にした火薬を土壁の隙間に埋め込み始めた。一本差し込んでは、また一本。全部で八本を差し終わった。全ての火薬には導火線が繋がっており、それはさらに一本の太い導火線へと繋がっていた。

「バ、バカな真似はやめろ。」

 坑内に隆の声が響く。しかし、そんな声を無視するかのように福山真が導火線にライターを近づけた。その時、坑道の遥か向こうから声がした。

「舎利子様、そこにおられるのは舎利子様で…。」

「な、何だ。ここには来るなと言っておいたはずだ。」

 ライターを手にした福山の手が一瞬逡巡するかのように止まった。

「いえ、それが村人が大変な状況で。今、廃坑の入口まで押し寄せてきています。」

「ちっ。」

 獲物を目の前にして邪魔が入ったことで、福山は少しイラッとした調子で舌を打った。

「村人が約百人、金属バットや斧を手に、舎利子様を出せと言ってきています。猟銃を手にしたやつもいます。」

 後ろからさらに注進が入る。その瞬間である、坑道の遥か下の方からワーという叫び声が聞こえてきた。どうやら村人の一団が一線を突破して坑道の中に踏み込んできたのであろう。

 隆と彩は、廃坑に来る途中で見かけた一団の村人たちの姿を思い返していた。事態は最悪の淵へと向って突き進んでいた。怒号と罵声が複雑にこだまし合って耳が痛いほどワンワンと鳴り響く。

「飛んで火に入る夏の虫とはこういうことを言うのだな。丁度良かった、村人もろともこの銀山の奥深くに埋めてしまえ。火薬はすぐ上の坑道にいくらでもある。」

 福山が絶叫した。

「はっ。」

 配下の者どもが引き下がろうとした瞬間、ズドーンという音が坑内にこだました。村人の誰かが猟銃を発射したようである。耳をつんざくようなその音は、坑道のあちこちに乱反射し、ワンワンと坑内の空気を震わせた。

「やめろー、やめるんだ。これ以上罪のない人たちを…」

 隆が絶叫したその瞬間である。

 ピシッピシッという何かが弾けるような音が坑道の奥の闇の中から聞こえ始めた。同時に小石と水飛沫が二人の背中に当たり始めた。

「ら、落盤だわ。」

 彩の絶叫が坑道を駆け下る。続いてドドッーという轟音とともに奥の壁が崩れ落ち、土砂とも泥水ともつかぬ鉄砲水が噴き出した。

「あわわわ………。」

 福山は握り締めていた導火線を放り出すと一目散に駆け出した。

「ま、待て。」

 隆の叫び声が空しく福山の背中に届く。次の瞬間、隆と彩の背中に強烈な水圧が襲ってきた。土砂混じりの冷たい水が頭から肩、そして背中へと容赦なく襲い掛かる。二人は死を覚悟し、どちらからともなく相手の手を探り当て、しっかりと握り締めた。

「しっかりつかまってろ。」

「もうだめだわ。」

 二人は鉄柵にしがみついて必死に耐える。後ろからの圧迫はドンドン強くなり、二人の体は鉄柵に強く押し付けられ、息も出来ない状態になった。

「あわわ、助けてくれー。」

 その時、福山の悲鳴ともつかぬ声が坑道内にこだました。鉄砲水は緩やかに傾斜した坑道を本坑の方へと渦を巻いて下っていく。水量は膝当たりまでと思われたが、泥水は坑道の床面をぬるぬるの滑り台へと変えた。何も体を支えるもののない坑道の中にあっては人を押し流すには十分な量であった。

 真っ暗な暗闇の中、福山の体は四のハ坑道の端に向って滑り落ちて行った。坑道の端には本坑に続く絶壁がポッカリと地獄の口を開けて待っている。十秒ほど後、鉄砲水が流れ下る轟音に混じって、微かに断末魔の悲鳴が二人の耳に届いた

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