第15話 生還、そして

「寒いわ。」

「頑張るんだ。きっと誰かが探しに来る。」

 どのくらい時間が経ったであろうか。鉄砲水も引き、坑内に再び静寂が訪れた。皮肉にも鉄柵のお陰で二人は押し流されるのを免れた。鉄柵がなければ、間違いなく今ごろは福山に続いて奈落の底へと落ちていたであろう。

 命は助かった。しかし、果たしてここから出られるのであろうか。鉄柵は鉄砲水でもびくともしなかった。人の力では押しても引いても到底開くとは思えなかった。結局はこのままここで飢えと疲労のため死ぬのであろうか。それならいっそのこと地獄の滑り台を滑り落ちて死んだ方がまたましだったかもしれない。隆は再び手探りで彩の手を探り当てた。

「とにかく濡れた服を脱いで体温の低下を防ごう。」

 隆は、そう言うと水と泥でグシャグシャになったヤッケのボタンをはずし始めた。完全な闇の中では一寸先も見えないが、ヤッケの下のシャツもたっぷりと水を吸い込んでジットリと肌に張り付いているのが分かった。

 隆はシャツも脱ぎ捨てようとするが、水に濡れたシャツは背中に張り付いてなかなか思うようにはゆかない。彩の手を借りてやっとのことで濡れた服を剥ぎ取った。今度は彩の番である。彩のシャツの裾に手をかけた隆は一瞬逡巡するかのように手を止めたが、一気にシャツを剥ぎ取った。

 上半身の服を脱ぎ捨てた二人は、それぞれ下半身にも手を掛ける。もう恥ずかしいなどとは言っていられない。一刻も早く体温の低下を防がないと命取りになる。全裸になった隆は手探りで少しでも乾いた場所がないかと狭い坑道内を探るが、無情にも坑道の床はまだ泥と水でぬかるみ、壁はどこもジメジメと湿ったままであった。

 ようやく探し当てた場所は、皮肉にもあの樹脂の板であった。積み重ねられた板の端がわずかに坑道の方へ突き出し、幸運にも人二人がやっと座れるほどのベンチを形造っていた。ベンチの上にはまだ泥が残っていたが、二人が身を寄せるには十分であった。

「寒いわ。」

 彩は再び呟いた。坑内の気温は十度。じっとしていると足元から冷気が伝わってくる。隆は何も言わずにそっと彩の肩に手を掛けた。それに反応するかのように彩の全身はピクリと動いた。全くの暗闇で相手の手も顔も見えない。

 二人は手探りで互いの体を引き寄せ合うとしっかりと抱き合った。触れ合った肌を通して、互いに相手の体温が伝わった。先程までの寒さが不思議と和らぎ、二人は天にも昇るような温かさに包まれた。隆はしっかりと彩の体を抱きしめながら、そっとヤッケを肩にかけた。

 どのくらい時間が経ったであろうか。隆は遠くの方で微かに人が呼ぶ声がしたように思った。真っ暗闇の中に長時間いると聴覚だけが異常に研ぎ澄まされる。しかし、その声はあまりに小さく、現実か幻かも分からない。ひょっとすると二人を迎えに来た死神の声かもしれない。隆はボンヤリとした意識の中でその声を聞いていた。

「おーい、誰かいるべか。」

 また、声がした。その声ははっきりとそう言った。幻なんかではない。はっきりとした人の声だった。坑道の闇の奥のまたその奥から、その声は響いてきた。

「せんせーい、彩ちゃーん。」

 今度は女性の声がした。間違いない。

「おーい、こっちだー。ここだー。」

 隆は必死になって叫ぶ。隆の声は四のハ坑道の中にワンワンとこだました。

「おーい、誰かいるかー。」

 しかし、遠くの声は無情にも答えてくれない。複雑に入り組んだ坑道の中では、声が乱反射して遠くまで届かない。隆と彩は必死になって叫び続けるが、反対に遠くの声は次第に小さくなりやがて聞こえなくなってしまった。結局二人の声は届かなかったのであろうか。

 やがて隆の耳には彩の泣く声が届き始めた。もう二度と外には出られないかもしれない。このままこの坑道の奥底で二人は冷たい骸となるのか。考えただけでも空恐ろしいことであった。彩は小さい肩を打ち震わせてさめざめと泣いていたが、その声は次第に小さく小さくなっていった。隆は黙って彩の体を再びしっかりと抱きしめたが、その瞬間ドキリとした。

「いけない、体温が下がっている。」

 そこはさすがに医者である。隆は触れ合っているだけで微妙な体温の低下を感じ取った。低体温症、このまま放置すれば後一時間もたないかもしれない。隆は必死に彩の体を擦りながら、声を掛けた。

「彩ちゃん。眠っちゃいけない。声を出すんだ。」

 隆は必死になって彩を揺り動かそうとするが、彩の体はドンドン冷えていく。いつもは冷静な隆の心臓もこの時ばかりは早鐘のように動悸を打った。隆は暗闇の中を駆け出すと、鉄柵に取りついてガシャガシャと揺り動かした。

「だ、誰か。誰か来てくれー。ここだー。」

 しかし、隆の声は空しく闇に吸い込まれていった。隆は力なくその場に崩れ落ちた。その時である。遠くで微かに揺れ動く光が見えた。一瞬のことでよくは分からなかったが確かに光のようであった。隆は再び声高に叫ぶ。そして返事を待った。やがてコツーンコツーンという鉄製の階段を上ってくる音が聞こえ始めた。

「おーい、誰かいるべ。こっつだ。」

 呼ぶ声と同時に、四のハ坑道の遥か端の方に明かりが見えた。隆は再び大声で叫ぶ。やがて明かりの数が一つ二つと増え、ゆっくりと近付いてくるのが見えた。

 足元がぬかるんでいるせいか、その歩みはイライラするほどに遅い。やっとのことで鉄柵の向こうまで村人と思しき人影が四つ姿を現した。男達は、鉄柵の中に懐中電灯の光を差し込みながら恐る恐る覗き込んだ。

「何だ、先生でねか。こんな所で一体……。」

 と言いかけて男は絶句した。隆は一糸纏わぬ裸体のままであった。坑道の奥深くの鉄柵のさらにその奥に裸体の男が一人、驚くのも無理はない。

「早く、ここを開けて。時間がない。」

 隆は必死になって叫ぶが、男は悠然と懐中電灯を回して鉄柵の中を嘗め回すかのように覗き込んだ。そして、すぐにまた見てはならないものを発見して、もう一度絶叫した。

「彩ちゃんでねか。それもあの恰好…。いや失礼、先生。お楽しみ中とは、いやこりゃまいった。」

 男は照れくさそうに目を覆うと、くっくっと笑いを堪えきれず背を向けた。

「早く開けろ。彩ちゃんが死ぬぞ。」

 隆は再び絶叫した。その声に只らならぬものを感じた男は、今度は真剣な眼差しで振り返った。

「一体、何があったんだべ。そんでまた何で、先生がこんなところに。」

「事情は後で説明するから。それよりも早く彩ちゃんの体を温めてやらないと…。とにかくここを早く開けてくれ。」

 男は奥の方でぐったりとしている彩を見て、何かとんでもない大事が進行していると悟ったらしく、すぐさま反応した。

「おーい、手を貸せ。」

 男は鉄柵に取り付けられた鎖をガシャガシャと手で揺さぶるがびくともしない。

「くそっ、何だ、こりゃあ。」

 男は再度鎖を引っ張るが、鎖は無為に音を立てるのみである。

「よーし、ぶった切ってやる。斧を貸せ。」

 男は山仕事に使う巨大な斧を力任せに振り上げた。ガリンという音とともに火花が散る。しかし、鎖はびくともしない。男はさらに二度三度と斧を振るうが鎖は空しく音を立てるのみである。

「よーし、今度は俺だ。」

 続いて別の屈強な山男が斧を取り上げる。ガリン。再び鈍い音がした。しかし鎖は切れなかった。

「彩ちゃん、しっかりしろ。もうすぐだからな。」

 隆は彩の体を擦りながら声を掛けるが、彩の意識はドンドン薄れていく。目は空ろになり呼吸も浅く小さくなっていった。

「斧を貸して下さい。」

 今度は一番後ろに控えていた若者が名乗りを上げた。

「おんや、賢二でねか。おめえのような若造にゃ無理だべ、こいつは。」

 斧を握っていた男は嘲笑の声を上げた。しかし、若者は怯まなかった。男の手から斧を取り上げると静かに鉄柵の前に進み出た。両手で斧を握り締めると、すっと静かに斧を上げる。まるで剣道の達人のように正眼に斧を構えた若者は、精神統一するかのように静かに呼吸を整えながら斧を大上段に振りかぶったかと思うと、エイッとばかりに一気に斧を振り下ろした。

 チャリンという軽い音とともに、先程までびくともしなかった鎖が真っ二つに割れてだらりと鉄柵の下にぶら下がった。ポカンと口を開けている山男達を尻目に、若者は素早くグルグル巻きになっていた鎖を解きほぐす。

「おーい、毛布だ。毛布持ってこい。」

 ようやく我に返った男達は次々に伝令を飛ばす。毛布に包まれた彩の体は何人もの村人の手で替わる替わる温められ、死人のようだった彩の頬にもようやく朱が差し始めた。


 三日後、松の屋。

「人は分からないものね。あの真ちゃんがそんな恐ろしいことをするだなんて。」

 隆と彩は女将に今回の一連の事件の結末を報告に来ていた。女将はいつものように黒檀製の机の前に座し、訪れた二人の前に湯呑みを差出した。

「でも、真ちゃん、一つ大きな誤解をしていたのかもしれない。村人達は銀山の閉鎖には必ずしも反対ではなかったんです。」

「えっ、それはどういうことですか。」

 隆は女将の意外な言葉に、思わず聞き返した。

「銀山の閉鎖に反対していたのは村長さんたちごく一部の人だったんです。大半の人達は、むしろ閉鎖に賛成でした。銀山はこの村に大きな富をもたらした反面、大事なものを取り上げたんです。」

「大事なもの?」

「そう、この美しい野山と村人の平和な暮しです。銀山が出来て以来、村には様々な災難がありました。鉱毒の被害、落盤による事故、さらには山を削ったことによる水害など、数え上げれば切りがありませんでしたわ。」

 女将は昔を思い出すかのように深いため息をついた。

「村人の多くは銀山なんかなくなればいいと思っていました。」

「じゃあ、一体誰が福山真の父親を追いつめたんです?」

「坑夫たちですわ。銀山で働いていた坑夫の多くは出稼ぎ労働者でした。当時はまだまだ東北から東京に出稼ぎに行く人達が大勢いました。でもここなら地元だし、何よりも銀山での仕事はお手当てもよかったんです。坑夫達は皆銀山の閉鎖に反対でした。それで組合を結成して大きな争議を起こしたのです。それに村長派の一部が賛同した。」

「それじゃあ、福山真は全く罪のない人達を逆恨みして、この四十年間復讐を続けていたということですか。」

 隆は絶叫するかのように言葉を返した。

「結果的にはそういうことなのかも……。」

 消え入りそうな女将の返事に、重苦しい空気が流れた。しかし、この後女将の口からさらに驚愕するような事実が語られた。

「それと、まだ気になることがありますわ。あの鉱山跡地で働いていた人達の中に、四十年前ここで坑夫として働いていた人達が何人かいたんです。」

「えっ、そ、それって確かなことなんですか。」

「まあ、四十年も経っていますから記憶も定かではないんですが、当時夜になるといつも仕事を終えた坑夫達が飲みに来ていましたから、何人かの顔はハッキリ今でも覚えています。」

「ということは、福山真は自分の父親を自殺に追い込んだ坑夫たちをそれとは知らずに仲間に迎え入れていた、ということになりませんか。」

 隆はそこで絶句した。何という皮肉であろうか。自らが逆恨みをしてこれまで復讐を続けてきた人々が実は味方であり、反対に自分が信頼して配下に置いていた者達こそが父親の敵だったのである。

「そうかもしれない。本当にかわいそうな真ちゃん。」

 女将はぽつりと一言言うと、そっと目頭を押さえた。隆と彩も複雑な面持ちで女将の姿を見詰めていた。子供の頃の心の傷を癒すことが出来ず、自らの一生を復讐に費やした福山真の哀れな生涯を悼むと同時に、狂信的な今回の事件に改めて身震いを覚えた。

 

 一カ月後。村の診療所。

「坑道の中の廃材の撤去がようやく終わったよ。」

「お疲れさまでした。先生。」

 すっかり元気になった彩は、前にも増して明るい笑顔で応えた。

「しばらくは飲料水はミネラルウォーターを使わせることにしたよ。まあ半年も経てば山の水も昔と同じようにきれいになるだろう。」

 隆は嬉しそうに説明する。

「それと、ここの診療所でも不妊外来を始めようと思うんだけど。」

「不妊外来?」

「そう、子供の出来ない夫婦のために、いろいろな治療やカウンセリングを提供するんだ。都会の病院じゃ今ではかなり普及している。」

「先生、それ、是非やりましょうよ。」

 彩は再び快活に応えた。

「じゃあ、手始めはこれから。」

 そう言って隆が取り出したものを見て、彩は絶叫した。

「やだ、先生。これはだめって言ったでしょう。まだこんなもの。」

 顔を真っ赤にして、目をそらした彩に隆は真顔で答えた。

「子供作りの第一歩だよ。することをしなければ子供は絶対に出来ない。これだけは確かだ。村の若い人達にはこれから毎晩励んでもらわないと。これはそのためのツール…。」

「だめったら、だめです。絶対に。」

 村の診療所に、いつまでも言い争う隆と彩の声が響いていた。


(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

偽装過疎 ツジセイゴウ @tsujiseigou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ