第13話 秘密
その日の夕刻。
「お帰りなさい。お疲れになったでしょう。」
旅館の女将が丁重に玄関まで出迎えた。女将も福山真のことが気になるらしかった。隆を居間に呼び止めると、いつものように急須を傾けながら、膝を前に進めた。
無理もない。これまで何十年と無風であった村長選挙に全く身も知らぬよそ者が突然立候補したのである。女将でなくても、村の人間であれば誰だって気にはなる。
「その後どうですか。選挙戦の方は。」
隆はすぐに切り出した。選挙の公示があってから既に一週間が経っていた。そろそろ形勢が見え出す頃である。
「それが村長さん、昨日の街頭演説の最中に倒れられて。」
「倒れた?」
隆は思わず聞き返した。
「ええ、でも大したことはなかったようなんですけど。この所の心労で少しお疲れに。もうお歳ですし、それに慣れない選挙運動なんかなさったりしたものだから…。」
「そうですか。」
隆はやれやれと胸を撫で下ろした。診療所の医者が不在の間に重病人が出たりすれば一大事である。それも村長が病人となればなお更である。気の毒に、あの福山真がいなかったら全く平穏な選挙であったろうに。七十歳を過ぎて選挙戦を戦うことになろうとは、当の本人ですら思ってもみなかったであろう。
「村長さん、あまり分がよくないようですわ。マインランドの人足たちに加えて、村人の中からもかなりの票が流れているとか。」
勝てば官軍、負ければ賊軍である。村人全てが村長の味方ではなかったのである。これまでは村長の独裁を快く思っていなかった向きでも、勝てない戦と諦めていたのかもしれない。それがここへ来て全くの第三者が現れたのである。その者が何者であろうと、村長の長期政権に終止符を打ってくれる者であれば、誰でも構わなかった。
「そうですか。」
隆は何となく事態が好ましからざる方向に動いているような気がして、ほっとため息をついた。
「ところで先生の方は如何でした。何かわかりましたか。」
今度は女将の方が切り返した。
「大したことは何も。でも福山真は幼い頃に病気で両親を亡くして、その後はおばあちゃんに育てられたとか。」
「そうだったんですか。お気の毒に。」
女将は真剣に気の毒そうな顔をして見せた。人柄なのであろう、相手が善人だろうが悪人だろうが、あるいは敵だろうが味方だろうが、可哀想な相手には正直に同情した。
「福山真の母親は一時東京の人と結婚していて、その頃は田辺という名だったそうです。それがご主人を急な病で亡くされて、その後西伊豆に子供を連れて戻っていたらしいんです。」
「どうしてまた実家に。」
「よくは分かりませんが、もともとは結婚自体が田辺の家の意に沿わないものだったようですね。四十年も前のことですから、きっと身分だの家柄だのって問題がまだあったのかもしれません。」
「まあ、ひどいこと。」
女将はまたしても気の毒そうな顔をして見せた。
「じゃあ、福山真っていう名前は、実際は田辺真…。」
そこまで言い掛けて、女将はあっという小声を上げた。そしてしばらく何やら考える仕草をしていたが、やがてぽつりと隆に尋ねた。
「先生、その母親の名は聞かれましたか。」
「ええ、確か『照代』とかいう名…。」
「やっぱり。」
隆が言い終わる前にも、女将は大きく頷いた。
「な、何か心当たりでも?。」
「渡辺照代さんだわ。その方、きっと田辺でなくて渡辺っていうんじゃないかしら。」
なるほど、田辺と渡辺では一字違い、あの西伊豆の老婆の記憶違いということもある。何しろ四十年も前の話では無理もないかもしれない。
「で、もしその渡辺っていう人だとしたら。」
「もう四十年も前のことですわ。銀山の事務所に渡辺さんという新しい所長が転勤してきて。まだ三十と少し位の若い人でしたが、何でも鉱山会社の幹部候補だとかいう肝入りで。その奥さんが照代さん。それと確か真ちゃんという十歳くらいの男の子がいらしたわ。」
隆ははっしと膝を打った。間違いない。これで福山真とこの村が繋がった。福山はずっと昔この村にいたことあったのだ。隆が感心している間にも、女将の話は前に進んでいく。
「でも新しい所長の任務は銀山を閉鎖することでした。戦争が終わって鉱山会社はどこも不況でした。ここの銀山も大赤字だって聞きました。それで会社の方は銀山を閉鎖することに決めたらしいんですが、なかなかうまくいかなくて。組合と、それに村の方も閉鎖には大反対で。」
そうであろう。百年以上もの間幾多の利益を産み出してきた伝統ある銀山を閉鎖するのは並大抵のことではない。リストラというのは今も昔も大変な大仕事なのである。
「渡辺さんは赴任当初からご苦労の連続でしたわ。毎日毎日夜遅くまで組合や村の代表に責め立てられて。傍で見てても気の毒でしたわ。交渉が上手く行かないのは分かっているのに、会社の方からは閉鎖までの期限を切られるし。
奥様もすっかり憔悴仕切って、きれいなお方でしたのに、ここに来て三ヶ月も経たないうちにげっそりと痩せられました。真ちゃんも可哀想でした。村の小学校ではいつもいじめられて、よく泣きながら一人で河原で遊んでいるのを見かけました。親が憎いと子まで憎いとは本当によくいったものですわ。子供たちも知らず知らずのうちに真ちゃんを敵と見ていたんでしょうか。」
隆は次第に明らかとなる福山真の暗い過去の話に驚嘆の思いで聞き入っていた。しかし、この後隆は女将の口からさらに恐ろしい言葉を耳にした。
「あれは渡辺さんが赴任されて半年ほど経った暑い夏の日のことでした。渡辺さん、裏の川に入水されて…。私も知らせを聞いて、大慌てで河原に行きました。ショックでした。発見したのは何と真ちゃん自身だったんです。いつものように河原に遊びに来ていて…。」
女将の声は涙声になって後が続かなかった。何という哀れな話であろうか。わずか十歳足らずの子供が自分の父親の水死体を発見したのである。そのショックの大きさは到底筆舌に表わせるものではなかったであろう。隆はゴクリと喫唾すると、小声で尋ねた。
「それで、その後は。」
「渡辺さんの死で流石の組合も村も折れたんです。それから一週間後閉鎖の決定が。人は残酷なものですわ。後少し早く同意してあげてれば。」
女将はそっとハンカチを目に当てた。
「それから後のことは。照代さんが実家に返されて、しかも亡くなられたなんて全然存じませんでした。」
ここでようやく女将の恐ろしい回顧談は終わった。福山真とこの村との間には忌まわしい過去の因縁があったのである。福山真が村長選挙に立候補したのは全くの偶然ではなかった。最初から企図されたものであったのである。
とすればマインランドの話も恐らくでっち上げなのであろう。工事をしているように見せかけて、その実密かに村を乗っ取る計画を進めていたのかもしれない。自分の息のかかった者を次々と村に送り込み、選挙権が生じる頃を見計らって立候補の意思表明をする。出来過ぎた計画である。
しかし、一体何のために。隆は腑に落ちないことばかりであった。こんな山奥の寒村を乗っ取ってどうしようというのか。福山真にはまだ人知れぬ隠された何かがあるのではないか。今回の件といい、あの坑夫の変死、それに毎週末の集会、そして坑道の奥の立入禁止区域、何もかもが怪しげな空気に包まれていた。
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