第6話 水
一週間後。
「やっぱり思った通りだ。」
隆は深い吐息をつきながらつぶやいた。先週のビデオ上映会の時に採取された七十人分の精液サンプルは、その翌日には盛岡の大学病院に検査のために送られた。隆の手には今その結果の通知表が握られていた。
「これも一千万を切っている。これもだ。」
次々と検査表を繰っていく隆の手は小刻みに震え始めた。傍らから彩が心配そうに覗き込む。
「先生、そんなに悪いんでしょうか。」
「ああ、精液中の精子の数が極端に少ない。普通、人の精液一CCの中には五千万から一億くらいの精子が含まれている。でも、この村の人のは、そう恐らく平均すると二千万から三千万というところだろう。一千万に満たない人もかなりの数に上っている。」
彩は目を丸くして隆の話を聞いていた。子供が生まれるためには卵子と精子が受精しなければならないことくらいは、今では小学校の性教育でも教える。しかし、卵子と受精すべき精子の数は一個だけでいいのではないのか。どうしてそんなに多くの数が必要なのか。
「あはは、驚いたようだね。何千万という数の精子も子宮の中に入れば単なる異物にすぎない。子宮の中は雑菌が入り込まないように高度な免疫系に保護されているんだ。そこに入ればたとえ精子といえども強烈な攻撃に晒される。精子はスクラムを組んでその攻撃に耐える。屍を積み重ねて、そして子宮の奥へ奥へとひたすら突き進む。最後に卵子と巡り合えるのは、たった一個の幸運な精子だけだ。仲間たちはその一個の精子を守り抜くため、自らを犠牲にして子宮の中の免疫系と闘うんだ。」
彩は隆の話に仰天した。精子も子宮の中に入れば単なる異物。何千万という精子が、たった一個の精子を子宮の奥底にある卵子に届けるために、命を賭して闘うのである。何という神秘的な生命の営みであろうか。しかし、彩はこの隆の話に驚いている隙はなかった。その先には驚嘆する結論が待ち受けていた。
「この免疫系を突破するには一千万という数じゃ到底足りないということだ。ほとんどの精子は子宮の中の道半ばで死滅してしまう。これじゃ自然受精は難しいだろう。つまりこの村で起きている不妊の原因はほとんど男の方にあったことになる。精子の数が少な過ぎるんだ。」
隆の説明が終わると、しばらく二人の間に重苦しい沈黙の時間が流れた。その沈黙を破ったのは彩の方であった。
「でも、どうしてそんな恐ろしいことがこの静かな村に。」
「問題はそこだ。恐らく何らかの環境ホルモンが関係していると思われるんだが。」
「環境ホルモン?」
彩は耳慣れない言葉に、思わず問い返した。
「そう、環境ホルモン。別名、外因性内分泌撹乱物質。少し難しい言い方だけど、つまり人の体のホルモンバランスを狂わせる化学物質のことだ。彩ちゃんもダイオキシンの名前くらいは聞いたことあるだろう。プラスチックを燃やしたときに出る猛毒の化学物質だ。ダイオキシンは煙とともに空気中に放出され、やがて雨とともに地上に降り注いでくる。勿論、色も匂いもない。ピコグラムという極小さい単位で測られるの。ピコグラムっていうのは一兆分の一グラム、といっても見当もつかないかな。ただ、そんな極微量でも毎日飲んでいると少しずつ体の中に蓄積されていく。そして僕たちの知らない間に少しずつ体のホルモンバランスを崩していくんだ。」
「そ、そんな恐ろしい物、国は何で規制しないのかしら。」
隆の説明に、彩は当然の疑問を投げ返した。
「いや、ダイオキシンはもう規制されている。WHO(世界保健機関)がガイドラインを定めていて、今では排出量が厳しく監視されている。でも、それはつい最近のこと。これまで長年に渡って排出されてきたものは分解されずに土の中に残っている。それに環境ホルモンはこれ一つじゃない。野菜を作るときに使う農薬、食器や衣服を洗う洗剤、それに数多くの産業廃棄物、数え切れない程の物質がその候補になりうる。そのどれが、どのくらい人体に影響するのか、誰にも分からないし、仮に分かったとしてもその時は手遅れになっているかもしれないんだ。」
自らの知らない間に我々の体を虫食んで行く毒物が身の回りにたくさんある。隆の話に彩は背筋が凍りつく思いであった。この村の男たちの不妊もそうした環境ホルモンが原因なのであろうか。だとしたら一体何が?。林業と農業くらいしかないこのような山奥の村でなぜそのような恐ろしいことが起きるのか。彩は黒雲のように沸き上がる不安を隠せず、思わず身を縮めた。
「そげに悪いだか。」
検査結果を聞く村長の顔は次第に蒼ざめていった。
「ええ、被験者七十人中、正常だったのはわずか五人。後は何らかの異常が認められました。中でも精子数が一千万人を切っている、いわゆる乏精子症の人の数は二十人にも上りました。これでは自然に子供が出来るのは、まず無理と思われます。その他の人も、普通の人よりはかなり子供が出来難い状況だと思われます。」
村長は動揺の色を隠せず、仕切りと膝を揺らしながら隆の話を聞いていた。
「せ、先生。それでどうすればいいだか。このままじゃ村は……。」
「村長さん、まず水を調べさせて下さい。村の人たちの飲料水になっている上水の方です。」
「み、水?」
「そうです。水が原因である可能性が高いんです。」
それから、隆は彩に説明したのと同じ内容を時間を掛けて村長に説明した。理解しているのかしていないのか、時折小首を傾げながら聞いていた村長は、一通り聞き終わると水道課の課長を呼びにやった。突然降って湧いた村の一大事に村長は動揺の色を隠せず、待っている間も頻りとため息を洩らした。
やがて村長室のドアが開き、五十過ぎに見える初老の人が部屋に入ってきた。胸ポケットに「野辺山村水道課」という字が赤くプリントされた灰色の作業服を身につけ、足にはゴムの長靴を履いている。他に課員はいないのであろう、水質検査から取水管理まで全て一手に任されているようであった。村長は隆から聞いた話を手短に伝えると、水質調査に協力するよう指示した。
「そ、村長。水は絶対大丈夫だ。おらあ、この道三十年、いつも国が決めた基準をきっちし守ってやってきただ。急にそげなこと言われても…。」
課長は大慌てで弁解した。長年、国の基準を忠実に守って、この村の飲料水を守ってきた。忠誠心と自信だけは誰にも負けないとの自負があるようであった。その自尊心が無残にも打ち砕かれようとしている。自己防衛に走るのも仕方のないことであった。
「その国の基準が怪しいから、こうやってお願いしているんです。厚生労働省の検査基準は大腸菌の数や、せいぜい農薬などの有害物質の濃度くらいでしょう。その基準には含まれていない未知の化学物質が混入している可能性もあるんです。課長さん、僕たちは何もあなたの責任を問うつもりはありません。何としてもこの村を救いたいんです。ただそれだけです。」
隆は熱心に課長の説得を試みた。しばらく腕組みをして考え込んでいた課長は、村長の再三の説得でしぶしぶ水質調査に同意した。
「ここが、浄水場だ。」
課長の案内で隆と彩は、村の浄水場を訪ねた。村の外れにある浄水場は、ところどころ金網も破れ惨めな姿を晒していた。この規模の村であればこの程度の大きさでいいのであろう、十メートル四方くらいの小さな浄水池には、そのままでも飲めそうなほどのきれいな水が湛えられ、池の中には十センチほどのいわなが数十匹放たれていた。
「ここの水は、上流の取水口から直接このパイプで引いてきてるだ。」
課長が手で指し示した方向には、口径五センチメートル程のパイプが二本、谷川の方に向って伸びていた。
「浄水池の水は、三日に一度決められた検査をするだ。こりがその記録だべ。」
課長が差出したノートには、三日に一度朱色の「検査済印」がきちんと押されていた。律義な性格なのであろう、どこまで遡っても全てこの男の検査印が押されており、一日たりとも誰かに検査を交代したような形跡は見られなかった。
隆は、用意したガラス瓶に慎重に池の水を汲み取ると、しっかりと蓋を閉めた。
「取水口の近くの水も調べたいんですが。」
隆は改めて課長に願い出た。課長は意外にもいやな顔一つせず、俺に付いてこいとばかりに先に立って歩き始めた。最初の取っ付きは悪かったが、一旦心が決まってしまうと存外人はよさそうであった。隆と彩は小走りに課長の後を追いかけた。
取水口は、例の銀山跡地からさらに奥の谷間にあるという。三人は銀山に通じる道を並んで歩き始めた。工事が始まって一ヶ月、砂利道は頻繁に行き交いするダンプカーの轍の跡がくっきりとついていた。
「本当、どうなるだか。村長はえらいことを始めちまったもんだ。おらあ水が汚れるんでねえかと思って、心配で。昔は川でたくさん獲れたいわなも最近はめっきり少なくなっただ。」
課長は、歩きながら独り言のように呟いた。
「いわなの数が減った?。」
隆は思わず聞返した。
「ああ、おらが小さかった頃は、春になると手で掴めるほどいわなが上ってきただ。だども二十年くらい前から少しずつ減り出して、最近じゃ養殖物しか見なくなっただ。」
課長は寂しそうにうな垂れた。一方の隆は内心やっぱりと思った。環境ホルモンの影響は既にこの村の川に棲息する魚にまで及んでいるようであった。
道はいつしか銀山跡の脇に差し掛かった。この前隆が女将と二人で訪ねた時からさらに工事が進んだようであった。プレハブ建ての寄宿舎の数はさらに増え、塀越しに聞こえてくる建設機械の唸り声も一層大きくなっていた。
三人は長い塀に沿った道をさらに奥へと進む。塀が途切れるあたりから道はさらに細く荒れた山道となった。ここまでは工事用の車両も入らない。ガーガーという建設機械の音が小さくなるに連れ、今度はサーサーという谷川の音が高くなってきた。目の前に岩山が迫ってきて、もう行き止まりではないかと思わせる。しかし、道は器用に曲がりくねって奥へと続いていく。
課長は先に立ってさっさっと山道を上っていく。隆と彩は息を切らせながら後に続く。道はさらに細くなり、あたりは鬱蒼とした杉木立になった。ひんやりとした空気が深い森の中に漂い、谷底を流れる清水の音はさらに高くなる。上ることさらに十分、三人は小さな淵のほとりに出た。
「ここが取水口だで。」
見れば、小さなコンクリートの堰が川の流れをせき止め、わずかばかりの透き通った清水が湛えられている。淵の脇には小さなトタン葺の小屋が建っていた。どうやらこれが取水口のようである。二人は課長の案内で小屋の中を覗き込んだ。
二メートル四方程の小さな小屋の中では、コンクリート製の四角い取水口が小さな口を開けて清水を吸い込んでいた。口に張られた金網に朽ち果てた小枝や落ち葉が絡み付いている。
「ここで取った水は、このパイプを伝って浄水場まで流れていくだ。」
課長はしゃがみ込むと、黙ったまま両手で小枝を掃除し始めた。隆も並んで手伝う。一通り簡単な清掃が終わると、隆は用意した瓶に静かに清水を汲み取った。この澄んだ水に一体どんな物質が混じっているというのか、そしてその物質はどこから来たというのか。隆は、何やら空恐ろしさを感じつつ、採取した水の入った瓶をバッグへと押し込んだ。
「有り難うございました。」
隆と彩は課長に深々と頭を下げた。
「先生、宜しくお願いしますだ。おらには村人の飲み水を守る責任があるだ。」
課長は小さい体をさらに縮めるようにしてペコリとお辞儀をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます