第7話 落盤事故
「彩ちゃん、これ宅配で出しておいてくれないかな。」
診療所に戻った隆は、採取した水のサンプルを丁寧に梱包すると、宅配便の手配を彩に頼んだ。サンプルは東京化学大学の環境科学部に送られることになっていた。この大学は環境化学物質の検査においては日本でも有数の施設を配しており、厚生労働省の検査基準にもない様々な化学物質の検査も引き受けてくれる。検査結果は一ヶ月ほどで出るはずであった。
診察室の片付けも済んで二人が診療所を出ようとしたその時、一人の男が血相を変えて駆け込んできた。カーキ色の作業着に黄色のヘルメット姿、男はどうやら銀山跡地の工事現場の作業員のようであった。
「ど、どうかされましたか。」
隆はその男の只ならぬ気配に驚いて聞き返した。
「落盤事故だ。落盤事故があって。とにかくすぐに来て下せえ。」
男は隆の袖口を掴むとすぐにも駆け出しそうになった。
「ちょ、ちょっと待ってて下さい。」
隆は男の手を振り払うと、診療所の中に戻って往診鞄を持ち出した。
「ちょっと行ってくる。彩ちゃん、救急車の手配頼む。怪我の次第では盛岡の救命センターに搬送する必要があるかもしれないから。」
隆はそう言い残すと男と二人で工事車両に乗り込んだ。車は銀山跡地に通じる砂利道をもうもう土埃を上げて進む。車は右に左に大きく揺れ、何かに掴まっていないと投げ出されそうになる。
やがて車は銀山跡地の前で停止した。男の合図で重い鉄の扉が中から開き、車はゆっくりと銀山跡地の敷地の中に入った。隆はゆっくりと深呼吸して息を整えた。そう言えば、隆にとってこの鉄の扉の中に入るのは初めてであった。
銀山跡は思ったよりも広かった。既にプレハブの仮設住宅が数多く建てられ、あちこちに建設資材が山積みにされている。奥の方にはブルドーザーやショベルカーが数台止まっているのが見え、さらにその奥には、廃坑への入口と思われる大きな鉄製のゲートが見えた。白く輝くそのゲートは周囲の岩肌の中にあっては一層際立ってみえた。ゲートの上には緑色の十字とともに「安全第一」という大きな文字が掲げられていた。
男は大急ぎで隆を工事現場事務所へと案内する。現場事務所は、昔の銀山事務所の建物を改装して作られていた。旧式の建物は歴史の名残を留め、どっしりと銀山跡地の中央辺りに建っていた。百年近くは経っていると思われる赤レンガ造りの事務所も、きちんと整備すれば今でも使えるもののようであった。二人は大急ぎで入口の階段を駆け上がる。事務所は入ってすぐ右手にあった。
「おい、しっかりしろ、先生が来てくれたぞ。」
事務所の中は騒然となっていた。隆が中に入ると同時に、人垣がさっと左右に割れ、その奥のソファの上に目指す怪我人が横たえられているのが見えた。隆は急いでソファの脇に駆け寄る。その場に居合わせた数十人の男たちの視線が一斉に隆に注がれた。
怪我人は一見してかなりの重傷のようであった。顔には打撲によるものと思われる痣と腫れが何個所か見られ、一部は薄っすらと血が滲み出ている。しきりに痛がってはいるが、意識がはっきりしないようであった。隆は怪我人の傍に跪くと、すぐに頚動脈に手を当てて脈を確認する。
「もうどれ位経ってますか。」
周囲の人々は咄嗟には何のことか分からず互いに顔を見合わせた。
「一時間くらいだか。」
一人の男が呟くと、それに呼応するかのように他の男たちも頷いた。
「すぐにはさみを用意して下さい。衣服を脱がせますから。」
「おい、はさみだ。はさみ持ってこい。」
一人の男が後ろを振り向いて叫ぶ。その間にも、怪我人は時折苦しそうにせき込む。恐らく胸か腹にも内出血があるのかもしれない。隆はほぞを噛んだ。都会にある救命センターであれば、CTやレントゲンで調べればすぐに分かるようなことなのに、ここにはそんな近代設備は何もない。まさに勘だけが頼りである。
「ちょっと手伝って下さい。」
隆は用意されたはさみで怪我人の着衣を切り裂く。作業着を取り去り、下着を切り開くと、やがて男の逞しい胸と腹が露わになった。隆は傷の具合を注意深く観察する。胸や腹にも同様の打撲傷が無数に合った。表面からでは内臓の損傷具合がよく分からないが、こうした事故の場合、大量の内出血や内臓破裂が疑われる。一見して非常に危険な状態であった。
「あうー。」
隆が診察している間にも、その男は苦しそうな呻き声を出すとバタバタと手足を動かし始めた。意識がないのに恐ろしく強い力である。両側から数人の男が介添えして、手足を押さえつけた。
「鎮静剤を打ちますから、このまま押さえてて下さい。」
隆は素早く往診鞄から注射器を取り出すと、アンプルの封を切った。輸液がシリンダの中に吸い込まれる間にも、男は苦しげに悶える。隆は大急ぎで注射針を男の二の腕に刺し込んだ。輸液がすっと腕の中に吸い込まれ、しばらくすると漸く男の痙攣は止まった。
「ふぅー。」
大きなため息とともに、事務所の中に一瞬安堵の空気が流れた。
「かなり危険な状態です。すぐに盛岡の救命センターに運ばないと。」
隆がそういう間にも、遠くからピーポーという救急車のサイレン音が聞こえ始めた。
「そ、そんなにひどいだか。」
隆を案内した男が不安の色を隠せず呟いた。
「ここではよく分かりません。でも恐らくかなりの内出血があると思われ…。」
隆が説明を終える間もなく、ガフッという声とともに男は吐血した。周囲を取り囲んでいた男どもは一瞬顔を仰け反らせて、後ずさりした。工事現場で働く荒くれ男たちも、存外大量の血を見るのは苦手のようであった。隆は溢れ出た血が気管支に入らないように、男を横向けに寝かせる。同時に男は再び苦しそうにせき込んで痙攣を始めた。隆は聴診器を胸に当てる。
「い、いけない。血圧が下がっている。」
隆は大急ぎで男の体を元の通り仰向けにすると、胸に手を当ててエイッエイッとばかりに心臓マッサージを始めた。その間にも、救急車の音はどんどん大きくなる。もう銀山跡のゲートの近くまで来たようである。しかし、男の容態はどんどん悪化する一方である。先程までの痙攣も次第に微かになり、傍目にも死期が迫っているように見えた。
「おーい。救急車が着いたぞ。」
表の方で声がして、しばらくすると担架を抱えた二人の救急隊員が駆け込んできた。しかし、二人が発見したものはペンライトで怪我人の瞳孔を確認する隆の姿であった。
「午後六時十八分、ご臨終です。」
隆は静かに起立すると、ゆっくりと頭を下げた。一瞬の静寂が事務所の中をおおった。誰一人として音を立てる者はいない。皆一様に死者を哀れむかのようにうな垂れた。
「ご家族の方は。」
沈黙を破ったのは隆であった。一瞬、場に居合わせた男たちが互いに顔を見合わせた。
「こいつは出稼ぎでして。家族はここにはいないだ。確か出身は青森だったべか。」
隆を案内した男がぶっきらぼうに答える。人一人死んだのである。それにしては冷たくよそよそしい物言いである。工事現場で働く者は皆このようなものなのであろうか。隆は一瞬戸惑ったが、きちんと説明を続ける。
「そうですか。じゃ警察に届け出してください。このような事故の場合、警官立ち会いのもとで現場検証をして、死亡原因を詳しく調査することになっていますから。」
「け、警察。」
警察と聞いて、男は素っ頓狂な声を張り上げた。
「警察には用はねえ。俺たち何十人もが見てる目の前で岩が落ちてきて、それで死んだんだべ。間違いねえ。それだけで十分でねか。」
男は、警察と聞いて急に険しい表情になった。
「でも規則ですから。」
「いや、もうすべては終わったですから。ここから先はわしらでやります。先生はどうぞお引き取りを。お礼は後程させて頂きますから。」
「いや、そんなお礼なんかいいですから……。」
しかし、あっという間もなく、隆と救急隊員の二人は事務所の外に押し出された。隆が外に出ると、すぐ後ろでピシャリと事務所のドアが締まる音がした。三人はなす術もなく、表に出た。
「どうだったの。」
その声に隆がふと振り向くと、救急車の脇に心配そうな顔をした彩が立っていた。どうやら一緒に救急車に乗ってきたらしい。
「だめだった。間に合わなかった。」
「そ、そうなの。」
彩はガックリと肩を落とした。看護師をしていれば人の死には何度も立会ってきたはずであるが、やはりこうした事故死というのは心の痛むものである。二人は重い足取りで銀山跡を後にすると、砂利道をトボトボと村の方に下りていった。
しばらくすると先程の救急車が静かに道を下ってきた。空の救急車は男の死を悼むかのようにゆっくりと二人を追い越して行った。すれ違い様に、運転席にいた救急隊員が軽く会釈するのが見えた。救急車が遠ざかるのを見届けた隆は徐に口を開いた。
「少し、気になることがあって。」
「気になること?」
彩は隆の顔を覗き込むようにして聞き返した。
「ああ、怪我人を診たんだが、落盤による怪我のようには見えなかった。」
「ど、どういうこと。」
彩は眉をひそめるようにさらに聞き返す。
「傷がきれいだった。土くれ一つ付いていなかった。普通、こういった事故による怪我の場合、一番に感染症を心配する必要がある。でもあの患者の場合、そんな心配をする必要がなさそうな程、怪我はきれいだった。怪我だけではない、着ていた服もね。」
隆は今診てきたばかりの怪我人の様子をつぶさに振り返るかのように説明した。
「事故じゃないとしたら…。」
「それはわからない。考えたくはないけど、けんかとかリンチとか、もっと別の原因があるような気かがして…。」
「そ、それって人殺しってことじゃ。」
彩は思わず大声を出した。
「何とも…。確かな証拠があるわけじゃないし。」
「警察に行った方がいいんじゃない。」
「それも奨めた。でも「警察」って言った途端、急に態度が変わって…。後は無理やり押し出されて…。やっぱり人に知られるとまずい何かがあるのかもしれない。」
隆は大きな吐息をついて立ち止まった。二人が後ろを振り返ると、既に小さくなった銀山跡地のレンガ塀に夕焼けの真っ赤な光が当たり、不気味な姿を晒していた。
「私、何だか怖いわ。このところ変な事ばかり続いて。」
彩は背筋を縮めるようにして呟いた。昼間は真夏のような暑さだったのに、日が傾き始めると一気に風が冷たくなる。二人は足早に村へと下って行った。
一ヶ月後。
「こ、これは大変な値だ。」
隆は思わずつぶやいた。隆の手にはこの前の水質検査の結果表が握られていた。デスクの上には、今封を切られたばかりの東京化学大学環境化学研究所の封筒が置かれていた。
「どうだったの。」
傍らから心配そうに彩が覗き込む。
「大変な量のビスフェノールAだ。」
「ビスフェ?。」
「そう、ビスフェノール、有機系の樹脂ポリカーボネイトから溶出することが確認されている。プラスチック製の食器等に使われていたが、生殖機能に影響が出るとの報告が出されて後、使用禁止になっている。WHO(世界保険機関)が定めた一日許容摂取量は十ピコグラムだが、この村の水はその値の千倍近い濃度になっている。」
彩は目を皿にして隆の話に聞き入っていた。
「前にも言ったけど、この手の環境物質はほとんど色も臭いもない。だから毎日摂取していても全く気が付かない。でもどんな微量でも十年、二十年と摂取を続けていると、分解されずに少しずつ人体に蓄積していって、何十年かの後にその影響が体に出てくるんだ。この村の人は、そうまさに知らず知らずのうちに、このビスフェノールを大量に摂取していた可能性がある。」
彩は気が遠くなりそうになるのをじっとこらえて、聞き返した。
「でも、そんな恐ろしい物質、どうして役場の水質検査で見つからなかったのかしら。」
「恐らく、最初から検査基準のリストに載っていなかったんだろう。だってあの取水口から奥には人家もないし、そんな化学物質が混入するはずもないからね。」
隆は、そう言う尻から、自らが矛盾したことを言っていることに気付いた。本来あるはずのないものが、実際にはあったのである。検査結果の数字は曲げようもない事実であった。
しかし、取水口は深い森林の奥の清水である。全てが矛盾だらけであった。診察室には重苦しい空気が漂った。隆も彩も押し黙ったまま、放心状態で中空を見つめていた。どのくらい経ったであろうか。最初に口を開いたのは彩の方であった。
「山の祟りだわ。」
「山の祟り?」
隆は思わず聞き返した。
「昔、じいちゃんがよく話してくれた。銀山が出来てからというもの、多くの村人が原因不明の病気で死んだらしいの。もう百年以上も前、明治の頃の話らしいんだけど。村の人たちは、山から銀を掘り出したりするから山の神が怒ったって言って。でも、後でそれが銀の鉱毒によるものだとわかって。それからは、国が厳しく鉱毒の垂れ流しを規制したお陰で、病気も徐々に減って。」
鉱毒被害は、鉱山には付き物である。足尾銅山の鉱毒事件はあまりに有名である。富国強兵の時代に住民の健康を顧みず、鉱毒を垂れ流し続けたことが原因で多くの悲劇が生まれた。この平和な村にもかつてそのような痛ましい事件があったということは、隆も今初めて聞いた。
しかし、銀山は四十年前に閉山になった。それに彩が言うように、百年も前に鉱毒の垂れ流しを国が規制したとなると、それが原因でもなさそうである。とすると、彩が言うように本当に山の神の祟りなのかもしれない。しかし、そのような迷信が今の社会に通じるはずもない。きっと何か原因があるはずである。
「山の祟りか、祟り……。」
隆は、彩の言葉を何度も口の中で繰り返した。そして、思い出したように手を打った。
「そうか山か。原因は山にあるかもしれない。あの山の中には、銀山の廃坑が網の目のように張り巡らされているはずだ。何しろ、ホテルやコンサートホールが出来るほどの広さだからね。きっとこの中に何かあるんだ。僕たちもまだ知らない、何かの秘密が。仮に山の中に何か原因物質が存在していたとしたら、雨水に混じってそんな物質が染み出してきたとしても不思議じゃない。そう、山だよ。答えは山の中にあるんだ。」
隆は目を輝かせて叫んだ。傍で聞いていた彩は、自分の話が隆のヒントになったことで、内心嬉しそうに微笑んだ。
「でも、どうやって廃坑の中に入るんだ。入口はあの変な連中が占領しているし。」
隆は途方に暮れた。先日往診に行った時に見たように、銀山の廃坑にアクセスするには二重のゲートを通らなくてはならない。一度は銀山跡地への入口、そして今一度は廃坑への入口。いずれも硬い鉄製の扉で閉ざされている。工事現場の人足に見られずに中に入るのは至難の業である。よしんば中に入れたとしても、縦横に張り巡らされた廃坑の中を道に迷わず行き来することなど神業としか思えなかった。隆は、自らの無謀な考えに絶句して、大きな吐息をついた。
「大丈夫、秘密の入口があるわ。」
その時、彩が快活な声を上げた。
「秘密の入口?」
「ええ、落盤事故等に備えて、鉱山には非常用の出入口があるの。この前行った取水口からもう少し上の方に古い入口があるわ。昔、子供の頃よくイタズラをしに入り込んで、両親に怒られたわ。もしものことがあったらどうするんだってね。」
彩は探検心旺盛ないたずらっ子のように目を輝かせた。
「でも中は真っ暗だろう。道に迷ったら出てこられなくなる。危険すぎる。」
「大丈夫よ。子供の頃、毎日のように遊びに行っていたから。親の目を盗んでね。皆で秘密の地図まで作ったりして。一度は表の入口まで来ちゃったりしたこともあるわ。目隠ししてても大丈夫よ。」
「目隠し?」
隆は思わず吹き出した。どの道真っ暗な廃坑の中で、目隠しも何もあったものじゃない。隆が大笑いしたため、彩も自らの失言に気がついて思わず笑い出した。
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