第3話 初診日

翌日、朝八時半。隆は少し早目に診療所へ出勤した。

「おはようございます。」

 隆が診療所の玄関を入ると、中から快活な声が返ってきた。見れば白衣姿の彩が、もう忙しそうに立ち働いている。カルテを並べたり、消毒薬を入れ替えたりと、手を止める閑もない。隆は慌てて自分の白衣を鞄から取り出した。

「他の人は。」

 隆は白衣を身につけながら尋ねた。

「他の人?」

「ああ、他の看護師さんとか、薬剤師さんとか、それに事務員の人…。」

 それを聞いて彩はプッと噴き出した。

「先生、ここは村の診療所ですよ。看護師は私一人、それと薬剤師さんは非常勤で、週に二日盛岡から通って来られんです。」

 隆は唖然とした。いくら過疎地の診療所とはいえ、医師一人に看護師一人とは。驚いている隆を横目に見ながら、彩はさらに説明を続ける。

「患者さんも多い日で五人くらいかしら。それもせいぜい風邪か、軽い怪我くらい。大きな病気とか怪我になれば、皆盛岡の病院を紹介しています。」

 人口二千人のこの村ではそんなものなのかもしれない。隆は改めて過疎地医療の問題を考えずにはいられなかった。

 隆は、緊張した面持ちで診察室に入る。これから何年、いや何十年かもしれない、自分が主人となって働く診察室である。それがどのようなものか、隆の胸は期待に膨らんだ。

 しかし、次の瞬間隆は愕然とした。板張りの診察室は殺風景で何もなかった。これまた恐ろしく古い木製のデスクが一つ、白色の薬品棚は所々色褪せて、壁にはあちこち染みが付いていた。町の診療所で見かけるような医療器具は何一つなく、カーテン一枚で仕切られた触診台が一つ壁際に置かれていた。

 呆然と佇んでいる隆の様子を見て、傍らから彩が声を掛けた。

「これでも銀山があった頃は、村で唯一の診療所として賑わっていたそうです。当時はお医者様も二人いて、ちょっとした手術や入院のための設備もあったそうです。」

 隆は四十年の歳月の隔たりを感じずにはいられなかった。と、同時にとんでもないところへ来てしまったという一抹の後悔の念が沸き上がってきた。


「せ、先生はいるだか。」

 診療時間前だというのに、表から大声で呼ぶ声がした。二人が診察室を出ると、血相を変えた一人の女性が小学生くらいの男の子を連れて入口のところに立っていた。

「どうかしましたか。」

「こん子がヘビに噛まれたって。」

 見れば、その男の子は痛そうに足首を押さえている。隆は素早くしゃがみ込むと傷口を観察した。なるほど噛まれた後と思われる小さな穴が二つ、そして少し血が滲み出ている。

「す、すぐに診察室へ。」

 二人は子供を診察室の中へと運ぶ。

「血清はある?。」

 隆は必死の形相で彩に尋ねる。

「血清?」

 彩はキョトンとした様子で尋ね返す。しばらく考えるような仕草をしていた彩はやがてクスッと噴き出した。

「やだ、先生、これシマヘビですよ。」

「シマヘビ?」

「そう、ほらご覧なさい。毒牙の後がないわ。それに、まむしだったらもうとっくに青黒く腫れ上がって…。毎年この時期になるとよくあるんです。ヘビも冬眠から覚めたばかりで、きっとまだ寝ぼけてるんでしょう。」

 彩はそう言いながら、脱脂綿に消毒薬をたっぷりと染み込ませる。

「少し痛いけど。」

 一言言うなり、彩は脱脂綿で傷口を抑える。子供は痛みに耐え兼ねてグイッと足を反らせた。

「ほら、じっとして、男の子でしょ。」

 彩はそう言いながら、器用に絆創膏を貼り付けた。

「はい、これでよしっ。二・三日もすればよくなるわ。」

「あっ、ちょっと待って。」

 隆が呼び止める間もなく、子供はもう元気に表に駆け出して行った。母親も慌てて一言二言お礼を言うと、すぐに子供の後を追いかけた。隆は初日から出鼻を挫かれた思いで愕然とした。こんな山奥の診療所では、大学で学んだ医学の知識など役に立たない。長年の経験と勘が物を言う世界であった。


 やがて九時になり、診療が始った。今日の患者は三人、いずれも地元のお年寄りばかりであった。一人は風邪、後の一人は持病の腰痛であった。三十分程で診察は終わってしまった。いつもこの調子なのであろうか。何とも長閑な診療風景である。

「次の方、どうぞ。」

 廊下に彩の声が響く。呼ばれて入ってきたのは、ガッシリとした体格の青年と小柄の女性であった。どうやら夫婦らしい。男の方は、農作業でもしているのであろうか、日焼けした健康そうな顔からはとても病気のようには見えない。女性の方も、ややはにかみがちのところを除けば、見た目はどこも悪くなさそうであった。

「どうしましたか。」

 隆は二人に椅子に腰掛けるよう促しながら尋ねた。最初、その男は妻の方をチラリと見て、少し躊躇するような仕草をして見せたが、やがて意を決したように口を開いた。

「わたすども結婚してもう三年になるども、まんだややができねえもんで、それで…。」

 隆は、その一言を聞いてオヤッと思った。どう見ても健康そうな若夫婦である。隆は不審に思いながらも、問診を続ける。

「それで、夜のことはきちんとなさってますか。」

 男は、夜のことと言われて、一瞬戸惑ったような表情をして見せたが、例のことと分かるとすぐに快活になって返答した。

「ああ、こう見えてもムスコの大きさだけは誰にも負けねえ。もう毎晩たっぷりかわいがってやっていますだ。」

 それを聞いて、妻の方は顔を真っ赤にして脇を向いた。隆は苦笑しながら診察を続ける。

「そ、そうですか。じゃあ、少し奥様を診察しましょう。」

 そう言いながら、隆はカーテンを開けて、妻を触診台へと誘導した。

「ここに仰向けになって、スカートを緩めて下さい。少し押しますから大きくお腹で息をして下さい。はい、その調子。もう一度。」

 隆はカーテンの陰で女性の下腹部の触診を始めた。

「だ、大丈夫かの。」

 男は心配そうにカーテンの内側を覗き込もうとする。

「大丈夫よ。」

 彩は、カーテンにかかった男の手をピシャリと平打ちすると、椅子に戻るように目配せした。

「はい、もういいですよ。椅子に戻って下さい。」

 五分ほどで隆の触診は終わり、カーテンの陰から女性が身繕いをしながら出てきた。

「せ、先生どうなんでしょうか。」

 男は勢い込んで尋ねた。

「はっきりは分かりません。でも一度盛岡の大学病院で精密検査を受けられた方が…。」

「だ、大学病院。先生、嫁っこの具合、そんなに悪いんで。」

 男は大声で聞き返す。かわいそうに、妻の方はすっかり萎縮し切って、肩を震わせている。

「いえ、奥さんではありません。ご主人、あなたの方です。」

「わ、わだすが?。」

 隆の言葉に男は一瞬キョトンとして絶句した。

「そうです。不妊の原因には男も女もありません。今、奥様の方を簡単に診察させて頂きましたが、特に大きな問題はなさそうです。ということは、ご主人、あなたの方に問題がある可能性があります。」

 隆は落ち着いて説明を続ける。

「そ、そんなバカな。昔っから赤子さ出来ねえのは、嫁っこが悪いに決まってるだ。」

「それは迷信です。不妊の原因は男と女、半々です。いえ最近は男の方に原因があることの方が多いんです。いいですか、今日紹介状を書きますから、大学病院の産婦人科にある不妊外来に行って、精液の検査を受けて下さい。」

「せ、精液の検査?」

 まだことの次第がよく読み込めない男は、戸惑ったような表情で尋ね返す。

「そうです。ご自分で自分のあれを取って、それで顕微鏡で精子の数が正常かどうか数えるんです。」

「ひゃー。」

 男は腰を抜かさんばかりに驚いて叫んだ。

 隆は書き認めた紹介状を白い封筒に入れると再度念を押して男に渡した。あの威勢のよかった男はすっかり意気消沈して、すごすごと診療所を後にした。付き従う妻の足取りだけが、わずかに軽くなったように見えた。

 この因習深い寒村では、未だに子供が出来ないのは嫁のせいと考えられているようであった。恐らくあの女性も三年間気まずい思いをし続けてきたに違いない。

「これで四人目です。」

 夫婦が帰っていくのを送り出した彩は、嘆息交じりにつぶやいた。

「四人目?」

「ええ、今年に入って子供が出来ないって来た患者さんがこれで四人も。確か去年も八組ほどあったかしら。」

 それを聞いて隆の顔色が変わった。

「おかしいね。こんな過疎の村で、そんなに大勢のカップルが…。」

 確かに奇妙ではあった。人口二千人の村であれば、出産適齢期にある夫婦はせいぜい百組程であろう。そのうち十二組が一年ちょっとの間に不妊の相談に来院するというのはどう見ても異常であった。しかも、来院した人たちは氷山の一角であるかもしれないのである。

「大先生は、何もおっしゃっていなかったの。」

 隆は詰問調で彩に尋ねた。急に隆の表情が険しくなったのを感じ取った彩は、泣きそうな顔になって答える。

「お、大先生は特に何も。最近の若いやつは子供の作り方も知らんと、いつもおっしゃって…。」

「とにかく一度きちんと調べた方がよさそうだ。」

 隆は着任早々、とてつもなく大きな仕事にぶち当たったように感じた。過疎地の地域医療と言えば、お年寄りの健康相談や成人病の予防など地道な仕事とばかり思っていた。それがいきなり原因不明の不妊の調査を行うことになろうとは、思いも寄らなかった。腕組みをした隆の胸中には、不安が黒雲のように湧き上がっていった。それを察してか、先程まで快活であった彩もすっかり口を塞いでしまった。


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