2章 アップルパイの章

第6話 博士は酔っ払いさんです。

 これは、だいぶ前の話です。


「私はこれまで、あまり自分を顧みるというものをしたことがないのだがね」


 口元にマグカップを当てながら、博士が言いました。

 そのなかには黒い液体、コーヒーが入っています。もちろん、元となる原料はもうありません。

 だから人工調味料をふんだんに使って、味をうまく再現しているのです。

 博士はコーヒー党なので、本来水とそこまで変わらないはずの比重まで調整しています。博士はこだわり派なのです。

 

「それでも唯一、本当にこうして正しかったのだろうか、と振り返ることがあるよ」

「それはなんですか?」

「ずばり、きみたちの通称を命名しなかったことだよ」


 私は首を傾げました。

 

「どういうことでしょう。私は博士に、ルルイエという立派な名前をいただきましたが」


 じつは密かに気に入っている名前です。

 チルチルやアナスターシャよりもおしゃれだと思っています。

 博士がチルチルだけ寝ぼけた頭で名前を考えたということを、私とアナスターシャは知っています。

 これを教えたら、チルチルは悔しさのあまり、目の端に涙を浮かべてプルプルと肩を震わせることでしょう。

 ここいちばんのときにぎゃふんと言わせたいから、ずっと取っておいている必殺の秘密です。


「ルルイエくんが言っているのは個人名だから、ちょっと違うかな。私はもうすこし大きな枠組みの話をしているんだよ」

「それ言うなら個体名ではありませんか?」


 あるいは識別名でもいいですが。とにかく、個人ではありません。

 そもそも、私たちは人間さんではありませんから。

 

「まあ、とにかく違うのさ。種族名といったほうが伝わりやすいかな」

「博士、それも誤りです。私たちは無機的な生命体ですから、それを言うなら類別名のほうがまだ正しいです」


 私は博士の間違いを正しました。博士が言葉を正確に使わないことは珍しいです。

 しかし、博士は首を振りました。


「いいや。私は、ルルイエくんを『個人』。そして君たち全員を含めて『種族』と呼びたいな」

「なぜでしょうか?」

「理由は単純。それは私が、もはや生き物の基準を有機的か無機的かで判断していないからさ。ルルイエ君がこうして人と変わらない会話をして、人と変わらない――いや、あるいはそれ以上に分厚い感情を持って話している時点で、もはやその分別に意味などありはしないのさ」


 私は、博士の食事のお皿を洗い場に下げながら考えてみます。

 博士の言うことは、たまにむずかしくてよく理解できません。そして人間さんよりも演算機能が高いはずの私が博士の言葉をうまく理解できないという事実は、私に負の感情を抱かせます。

 式処理的な計算のみならず、あらゆる言語フィルターを介した情報交換を高次的に正しく処理できるのが、私のはずなのですが。

 なんでしょうか。

 これがムカつくという感情なのでしょうか。


「そうだなぁ。有機性に価値がないのなら、さしずめ私とルルイエくんの違いは、ただ有期的か無期的か、といったほうが自然なように思えるね。……うん、これはなかなかシャレのきいた分類だぞ。くっくっくっ」


 博士はそんな風にひとりごちて、不気味に笑いました。

 まるでチープなマッドサイエンティストです。

 でも、博士は悪い科学者ではありません。むしろ人類に貢献する、さまざまな研究をしてきたお方です。

 博士は、自分の才能を存分に揮う前に人類の滅亡が確定してしまったことを嘆いていました。

 彼女の天才的な頭脳をもってしてもどうにもならないところまで、人類は破滅への道に駒を進めてしまっていたそうです。


 私は、博士の発言にひっかかるものがあって、ひとつ質問をすることにしました。


「博士。私には、感情があるのでしょうか」

「うん? あると思うよ? 私に感情があると思うのと同じように、ルルイエ君にも」

「チルチルは、私たちには感情があると言っています。アナスターシャは、わからないと言っています。私は、悲しいや嬉しいや楽しいを理解できますが、それが人間さんと同じ感情だとは思えません。どうしてみんな意見が違うのでしょうか」


 博士はクスクスと笑って言いました。


「みんな意見が違う。いいねえ。それこそ、君たちが生き物である証拠じゃないか」

「……なんだか、納得できません」

「そうかい? とっても基礎的な問題だよ。もし自分たちと人間の違いが気になるのなら、チャーマーズの現象ゾンビとかで索引をかけて、下の書庫で調べてみるといいさ。そうすれば、それがヒトか否かなど、ただ外からみえる心のでしか判断できないと気づくよ」


 私は、博士の言っていることを記憶領域にしっかりと納めました。

 ぜったいにいつか調べます。


「うーん。とにかく、ルルイエ君たちの種族名だなあ。やはり、決めたほうがよかったのか……」

「私たちはウエイトレス型インターフェースです。それだと困るのですか?」

「なんて例えたらいいかな。それは人間のことをヒト科と呼ぶことに似ている。間違ってはいないけど、ストレートでもないんだよね」

「でも、私たちは自分たちのことをウエイトレスと呼んでいますよ?」

「まあ、それでもいいんだけどさ。ウエイトレスっていうのはもともとは人間の職業だったわけだし、あまり新時代のイキモノらしくはないよなあ」


 博士はソファでうーんと考えこみました。

 たまに、このように私にはよくわからないところで思考の沼に嵌るお方です。

 私たちの種族名だか種別名だかを考案しなかったことが、なぜそんなに重要なのでしょうか?


「ルルイエ君、ビールをもらえるかな。今日はなんだか晩酌の気分だ」

「……わ、わかりました」


 私は冷蔵庫から瓶ビールを取り出します。

 麦もホップもないため、これもやはり純粋なビールではありません。

 アルコール成分と炭酸を添加して味を調整した、博士オリジナルのビール風飲料水です。

 本来の麦汁を醸したアルコールとは違い、度数が非常に強めだそうです。

 博士は、ちょっとアル中気味なのです。


「ど、どうぞ」


 私は注いで差し上げます。

 博士はごくりごくりと勢いよく飲みました。

 博士は強いお酒が好きですが、それでいてあまりお酒に強い方ではありません。

 たまに酔っ払うとよくわからない大会などを思いつきで開催します。

 前は野球拳というのをみんなでやらされて、しかも私が負けてしまったので、二度と大会を開いてほしくありません。

 なので、私はそそくさと博士の元を離れました。

 

 でも、その晩の博士は静かでした。

 酔っていないのかな、と思って私が壁越しに覗いてみると、博士は顔が赤くなりながらも、どこか遠い目をして、強化ガラス越しの外の景色を見つめていました。

 私がほっと胸をなでおろすと、


「あ。ルルたぁーん、おかわりー」


 にへら、と急に表情を緩めて、博士はそう言ってきました。

 あきらかに酔いが回っているときの呼びかたです。なんだか嫌な予感がします。

 でも博士の要望を断るわけにはいきません。私はビールをもう一本持っていきました。


「ど、どうぞ」

「うむ。くるしゅうないぞ」


 博士がぐいと私の手を引っ張ります。


「ひゃ。な、なんでしょうか」

「ルルた~ん、私の膝の上でお話しておくれよ。さみしいじゃあないか」

「……べ、べつにいいですけど」


 べつにいいんですけど、なぜ膝の上なのでしょうか? 話すにしても、対面する方が話しやすいはずですが。

 とにかく、私は博士の膝の上にちょこんと座ります。

 こうして誰かと接触していると、自分の身体がいかに小さいかわかってつらいものがあります。


「あぁん、ルルたんは可愛いな~。この白い肌も、白い髪もじつにすばらしい」


 お酒くさい博士が、私の髪を撫でながらそう言います。

 私の髪はちょっと長めです。肩甲骨くらいまであります。

 替えのウィッグは無数にあるそうですが、これまで付け替えたことはありません。

 

「それは自画自賛ですか? 博士が私のインターフェースを選んだんじゃないですか」

「うぅん、そうだったね。我ながらいいセンスだ。ルルたんも、自分の姿を気に入っているかい?」

「私は、本当はアナスターシャみたいなかっこいいテーマがよかったです」

「ダメッ! ルルたんはぜったいに幼女型以外は認めないよ! いつまでも変わらないきみでいて!」

「そんな心配をしなくても、私たちの見た目が変わるわけないじゃないですか」


 だって成長しないので。

 博士は私の青い目を覗き込んで、やけに慈愛に満ちた表情で言いました。


「ある秘密を教えてあげよう。じつはね、ルルたんにはいちばん高性能な演算チップを組み込んだんだよ」

「えっ。そうなのですか?」

「そうさ。きみがいちばんかわいい娘だからそうしたんだよ」


 ほかの子には内緒だよ? と博士が口元に人差し指を立てます。

 それで、私はとても嬉しくなりました。

 ほかの子たちと比べて私が特別であるという確たる証拠だからです。


「なるほど、博士は私がいちばんなのですね。ふふ」

「うん。まあでも当然、全員とも好きだけどね」


 博士はリビングに飾ってある、全員の集合写真に目をやりました。


「きみたちはいい。全員が違って、全員がとてもいい」

「それは、美貌パラメータの話ですか?」

「いや? それもあるけど、内面がね。よくもまあ、これだけ個性の違う子たちに育ってくれたものだ。まったく、量子的なゆらぎはこの世界の核だね」

「……でも、それだって博士がそう設計したのではないですか」

「個性の部分は違うよ? たしかにきみたちは私の手がなければ生まれなかっただろうが、だからといって、私はきみたちを設計したなどと言うつもりはない。たくさんの不確定要素がうまく噛み合って、きみたちはこの世に生まれてきてくれたんだよ」


 そこで、博士はふと思いついたような顔をしました。


「……ああ。そうか、なるほどね」

「どうしたのですか?」

「いや、ずっと考えていたんだよ。なぜ、私がきみたち全体の種族名を用意しなかったのかを。でも、今わかった。それを私が決めてしまうと、まるで私が神のようになってしまうからだ。私は、どうもそれが嫌だったらしいな」


 またむずかしい話をします。

 でも博士の言うことがさっきよりもわかる気がしました。

 博士は機械工学の博士であり、人工知能の第一人者でもあり、それでいて哲学者でもあるそうです。

 博士はつねに自分の思考の根底を探っています。いつだってそれが、博士の行動原理なのです。

 まるでそうプログラムされているかのように、博士は自分に課された原理を基に行動するのでした。


「よし。ルルたん、今からきみたちに仕事を与えよう」

「えっ。今日はもう人間さんたちに配達しましたが、もういちどやるのですか?」

「それじゃないさ。それ以外にもうひとつ、君たちにはひとつの、とある無期限の、新しい仕事を進呈する!」


 きらきらと目を輝かせて、博士はそう言いました。


 その日から、私たちには人間さんたちにご飯を配達する以外にも、ひとつだけ仕事ができました。

 それは定期的なものでも、期限があるものでもありません。

 むしろ、どれだけ遅延してもいいものだそうです。


 だからこそ、とてもむずかしい仕事なのです。

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