第四林檎ルルイエの無忘録。
呂暇 郁夫
1章 たい焼きの章
第1話 シキドさんのおうちに配達です。
クデンの丘の上は、真っ白でした。
雪のように積もる火山灰の儚げな色が、はるか遠くまで続いています。
空と地を分ける境界線まで含めて、まるでこの世のぜんぶを覆い隠すように。
そこは、かつて林檎の木がたくさん立つ場所だったそうです。
太陽の光をいっぱいに浴びて育った林檎には、びっくりするくらい豊富な栄養素が詰まっていたのだとか。
林檎がかつて人間さんたちの主要な食物だったことは知っていましたが、そんなに偉いものだったとは知りませんでした。
「林檎の効果ってのはすさまじくてね、医者いらずといわれるほどだったのさ」
厳重に閉ざされた扉の向こうで、シキドさんはそう言いました。
シキドさんは、私がもっとも付き合いの長い人間さんです。私たちの担当区画で最年長の女性で、とてもしゃがれた声をしていました。
私はたずねました。
「医者いらず……とは、どういう意味でしょうか?」
「そのままさね。一日一個の林檎を食べさえすれば、病院に行く必要がない健康な体でいられるって話さ」
ははぁ、と私は感心します。
つまり、まるで薬のような食べ物だったということでしょう。
今では、この大地に林檎の実はなりません。林檎に限らず、あらゆる果物が自然にみのることはありません。
私が知る林檎やレモンやスイカなどの果物は、もはや全部インテリアとなっています。
それは食べられない模造品。見た目がかわいいから、小道具として私たちの家のなかを彩っているのです。
「はー、勉強になります。林檎というのはすごい食べ物だったのですね」
「そうさ。林檎ってのはすごいのさ」
そこで、シキドさんは悲しそうに笑いました。
「まあ今となっては、健康だろうが不健康だろうが、もう人はただ死ぬばかりだがねえ。医者にかかる意味もないってもんさ」
「そんなことおっしゃらずに、シキドさんは長生きしてください」
「ハッ。長生きなら、もう十分にしたじゃあないか。去年息子夫婦が死んでからというもの、生きる気力なんざぱったりと失せたよ」
私は扉の前で黙ってしまいます。
パシュッと音がして、ドアの下の搬出口からランチボックスが排出されました。
私はそれを拾って、リュックサックのなかにおさめます。
ほんのリュックの口を開いているだけで、空から降り注ぐ無数の火山灰が、つぎからつぎへと忍びこんできます。
「最近、身体がうまく動かなくてね。あんたのくれるランチボックスの味もよくわからなくなってきた。私のお迎えも近いのかね」
人間さんは、亡くなることを「お迎えが近い」と表現することが多いです。
天からの使いが魂を運びに来るイメージを、そのように言い表しているようです。
広義では宗教と呼ばれるものです。
「とはいえ、気が楽になった面もあるんだがね。この世に未練がなくなると、思ったよりも死に悲壮感はないらしい」
未練がない……私は小さく口のなかで復唱しました。
「それは、ご家族の方が亡くなったからですか?」
「ん……それもあるが、よくよく考えてみりゃ、その前からさね。なんせ、私たち人類の世界はとっくに終わったんだ。それならなんのために生きる? 終わっていくばかりなら、べつにだれがいつ死んだってかまわないのさ。かなしんでくれるひとがいたとして、そいつもすぐにおっちぬってんだから」
自嘲するような口調で、シキドさんはそんなかなしいことを口にします。
私の胸が違和感を訴えてきます。
人間さんたちの悲しい発言を聞くたびに、私の左胸部は熱を帯びるのです。
博士によると、まさにこの場所に、私たちの思考をおこなう高次演算チップを組み込んでいるからとのことでした。
言語による意思疎通を演算装置が数次的に処理する過程で、この場所に軽いオーバーヒートが起きるのだとか。
それを、博士は感情と呼んだのです。
「私は、シキドさんが亡くなったら、かなしいです。とても」
そう正直に告げると、彼女は扉の向こう側でしばらく黙りました。
沈黙のさなかにも、だれの姿もみえない町には火山灰が溜まっていきます。
夕暮れを過ぎた時間、遠くでふたつ、みっつほどの緑光がゆらめくように動いていました。
町の外灯とはまたべつの、朧げな光です。
私と同じウエイトレス型インターフェースが、ほかの区画の人間さんたちに食事を届けているのでしょう。
シキドさんはたっぷり十一秒もためてから、
「ふん、なにさ。感情もないロボットのくせに」
などと言いました。
うーん、と私は唸りそうになります。
ときおり、シキドさんはこういった趣旨の発言をされます。
いわゆる、偏屈と言われてしまうタイプの方なのです。
もしもわたしの姉妹機であるチルチルが聞いたら「無機物生命体差別発言よ!」と怒るでしょう。私たちのなかには、そういった発言を蔑視であると価値判断して怒る者もいます。
ただ、私は違います。そういうふうに言われたからといって、憤ることはありません。
でも、なにも思わないわけでもありません。
突き放されたような感覚を覚えます。
まるで崖の上から、崖の下へと。
つまり、かなしいのです。
「……また配達に来ますね、シキドさん。いい終末をお過ごしください」
お返事はありませんでした。
ドアに向かって頭を下げて、私はクデンの町を去ることにします。
背中に入った空のランチボックスが、歩くたびにがしゃがしゃと揺れます。
シキドさんの家は回収ルートの最後なので、ここからの帰り道はいつも決まって疲れています。
私はちょっとだけ旧式のインターフェースです。ユニットのテーマが古いし、博士の趣味で「幼女型にした」とのことなので、四肢が短くて不便です。
本当のことを言うと、私はアナスターシャのようなスタイルのいいテーマに憧れているのですが、もう博士はいないので、代替ユニットの交換を頼む相手もいません。
でもその代わりに、私に採用した高次演算チップは、ほかの子よりも高性能だと聞いています。
これを言うと怒るので当人には言いませんが、じつは私はチルチルよりも計算がはやいのです。
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