第二章 新しい婚約者①
「はあ!?」
私は思わず手に持っていたパンを取り落とした。今まさに食べようと手に取っていた焼きたてふわふわのパンが、真っ白なテーブルクロスの上をぽてぽてと転がっていった。
(なに……? この父は、またなにを言い出したの……?)
とうとう父の頭のネジがどうかしてしまって、何か
私の頭の中を
私は昨日
つまり言いたくはないが、もともとロビンに
婚約を一方的に破棄されてさらに印象を悪くしたばかりなのである。
昨日のあの婚約破棄宣言の後は、おそらくロビンが晴れ晴れとした顔でマリリンを連れてどこぞのお茶会やパーティーにでも
つまり昨日の夜あたりからは、きっともうすっかり私の社交界での評判は地に落ちている。はず。
貴族の
そしてそのままこの社交界から自然
これで私もやっと、堂々と一生独身でいられると
あんな
たしか私は「心ない男の
なのに、なぜ?
なぜこのタイミングでそんなことを言い出したのかこの父は。
しかし心底理解できないという顔をして混乱する私の表情を見た父が、コホンと一つ
「実は昨夜
って、およそ現実の話とは思えないのだけど?
しかし父の頭の中では、すでに私の
必死に私は考えた。
「ちょっと待ってください、お父様。あのアーデン公爵家に
「ティナ! なにを言う! そんな年寄りに私の大事な
「はあ!? そんな馬鹿な」
かくして、日当たりの良い
いやだってさすがに独身の公爵様ともなれば、公爵夫人の地位を
かのアーデン公爵家といえば財産は山ほど、領地は広大、王の
(…………どんな顔だったっけ? はて?)
私はそこまで考えてから、首をかしげたのだった。
もちろん私も一応は貴族のはしくれ、貴族の方々のお名前はだいたい
社交界だってあの元婚約者のロビンのお供で
残念ながら、私には全く
いや、名前を知っているということは、きっと同じ会場にいたこともあるはず。
(だが、顔……? んんんん……?)
しかしそうなると、それこそ
「昨日婚約破棄の知らせを受けた時にはどうなることかと思ったものだが、これで一安心だな。いつの間になんと大きな魚を
すっかり
「……お父様、それ、新手の
「エレンティナ! なんと失礼な! ちゃんと公爵家の
「でも、そうとしか思えません。私には全く会話した記憶さえありませんもの」
「ではお前のその
「まさか」
そんなはずはないでしょう。今の私、お父様
私は思わず
「とにかく、喜んでお受けすると返事は出しておいたから。こういうのは時機を逃してはいかん。先方の気が変わる前に早く固めてしまわなければ!」
「だからお父様! それ絶対に
ちゃんとそう言ったはずだった。
しかしそんな娘の言葉なんてまるで聞こえていなかったらしい父はその後
なぜ…………。
もちろんこの父たる伯爵の行動は、この貴族社会では非常に常識的、そしてまっとうな反応ではある。それはそうなのだが、残念なのは、私が全く貴族令嬢としてはまっとうではないということだ。
外では
それなのに、そんなたいそうなお
もしも私が魔女とバレた
もう
なにしろアーデン公爵家、魔女追放を厳命している王様の縁戚かつ側近だよ?
なのになぜ父はこうも
ほんと私の心の負担も考えてほしい。
しかし今回、父は「公爵家」という
たしかに
でも父には私が普通ではないことをもう少しちゃんと
一見魔女には見えないかもしれないが、だからといって忘れていいことではないのだ。
私は!
しかし悲しいかな、そんな私の
ならば他にどうやって将来の結婚を
おそらく今回の最大の問題は、相手が格上も格上の公爵家、しかも当主ということだ。
私からの婚約破棄は無理。ロビンとの婚約だって破棄させてはもらえなかったし、そもそも今回は立場的にも下であるお父様の方からは言い出せない。
じゃああちらから破棄してもらうように本人に
そもそもこちらは相手の顔も思い出せないというのに、どうして向こうは私を
どこかで
でも私は印象に残るような容姿ではないはずだし、ドレスも
一体そんな私のどこに気をひくような要素があったというのだろう。
しかし現実的には貴族同士の婚約なんて、お
本人! 正気か!?
しかし結果的にはあっという間に同意書に両家のサインが入り、その上「たいへん喜ばしく思っている」という意味のお手紙までが届いて……。
正気か……?
どうやら本当に私は顔も
って、いやいやいや。
「なんで喜ばしいのか全然わかりません。少なくとも私は
私は自室でアーデン公爵からのお手紙、いや
エマがびっくりした顔でこちらを見ているが、もはやそんなことは知ったこっちゃない。
それほど私は
「でもお
「やめて! こんな権力と地位がとてつもないお家なんて
「あー……きっとお忙しいんですよ~」
「ご自分の結婚よりも大事な用事が、そんなにあるもの!?」
私に来たのは一通の手紙だけ。
なにこの義務的な手紙。まるで渋々
しかしこの一通の手紙で、ようやく私もこの話は詐欺ではなかったようだと理解した。
この貴族社会で、アーデン公爵家の紋章を
自殺願望でも無い限り。
ということは、相手の真意はわからないけれど、本当にアーデン公爵と形だけは婚約が成立したということだ。当の公爵の意向で。
公爵家に魔女がお
「……お父様は本気で言っているのかしら。これ、まずいどころじゃないでしょうに」
一体なんで喜んでいられるの?
なのにエマまで、
「でも向こうから言って来たっていうことは、きっとお嬢様をどこかで
とかうっとりした顔で言い出したぞ。
いやいやだからみんな、なんでそう
あ、わかった、みんな人ごとだと思っているんだね!?
「そんなはずはないでしょう。なにしろ顔も知らない人なのよ? それに公爵だなんて王族並みにプライドが高そうじゃない。私からは絶対にお近づきになりたくもないわ」
そもそもこんなただの
今の「伯爵令嬢」を演じるのだって
ということで、私は早々に結論を出した。
「よし! このお話は、残念ながらなかったことにしましょう。今回もあちらから断ってもらって結構。それが
「お嬢様!?」
「だって私は魔女なのよ? そんなことがもし公爵にバレたら、秘密を知っているあなただってきっと
「お嬢様、そこは
「人ごとだと思って!
もしかしたらあのロビンなら、最悪の場合はどうにかお金で
「あとはどうやってあちらから婚約破棄を言わせるかよね……」
「お嬢様……本当にいいんですか? 二度目ですよ?」
「もちろんいいに決まってるじゃない。もうこうなったら何度でも婚約破棄されてやる!」
一度も二度も、そう変わらない。それに自分の評判だって、それほど大事ではない。
なにしろ私はもうすぐ社交界から消える予定なのだから。
なのにまた婚約なんて、しかも相手が公爵なんて、ほんと
が、問題は、そんな話をするにもこの簡素な手紙しか送って来ない顔も知らない相手では、どう切り出していいのかもわからないことだった。
たとえばすぐ逆ギレしたり暴力を振るう人だったら。もしかしたら私が知らないだけで、この公爵様にはまともに結婚を申し込んでも普通の令嬢に断られるような難がある可能性もある。
とにかく手紙一つで自分の結婚を決めるような人なのだ。そしてその相手を口説くどころか、会いに来ることさえもしないような人なのだ。得体が知れなくて怖い。
しばらく考え込んだ後に、私は言った。
「とりあえずはまず
「はい? また
「だって相手を知らなければ作戦も立てられないじゃない。だからこのアーデン公爵という人を観察して、なんでこんな婚約をしようと思ったのかを
「えええ……公爵様相手にそっちの方が危険なんじゃないですか?」
「は? 魔女だとバレることに比べれば、何だってはるかに安全でしょう。それにちゃんと
かくして、私は公爵が絶対に来そうなパーティーに顔を出すことを決めたのだった。
つまりは、格式の高いパーティー。
公爵様が出席するようなパーティーなんて、最高に肩が凝る世界だけど。
でもよく知らない相手に結婚を申し込むような人を、このまま放っておくわけにもいかないのである。どんなに
と自分を
いざ行ってみると、さすがに大物の侯爵様の
沢山の
美しく
そんな会場でいつも通り地味に装った私は早速
だけれどしばらくあちこちのグループを眺めてもたいした
若い独身男性、特に
たとえ婚約していても、結婚するまではわからない。
なにしろ今は「婚約破棄」が大はやりだからね!
やれやれ。
もちろん思っていた通り、私とロビンとの婚約破棄の話はすでに
だから私は会う人会う人になにかしら言われる面倒くささで、その時はすでに少々ぐったりとしていた。
「元気出してね。今度はきっとあなたにももっと素敵な人が現れるわよ」
なんて
「あら、もう次を探しに来たの? 伯爵家の次男でもダメなら、もう次は
なんて
そう、ここは戦場なのだ。よりよい相手をつり上げるための、人生を賭けたまさに戦いの場なのである。
敗者を
私はといえば今はそれどころじゃあなくてロビンのことなんてすっかり忘れていたわけだけれど、わざわざ嫌みを言われたりすると嫌な気分にはなるもので。早く世間も私とロビンのことなんて忘れてくれないかしら。
まあしかし、私が今日ここに来た目的は、そう、ただ一通の手紙のみで自らの婚約を決めるような酔狂な男を捜して観察をすること!
集中しろ、私。とにかく捜すのだ。これだけ
私はひたすら周りを見回しながら、一人で会場をそぞろ歩くことにした。
ついでに何かの鳥のローストやら何かの煮込みやら、なんとかのパテとか、とりあえず
手に取ったお皿に料理を次から次へとひょいひょい載せつつ、のんびり歩いた。
少なくとも今は「女性は小食のはずなのにそんなにパクつくなんてはしたない」とか「そんなに食べるなんて僕に
もちろん顔も知らないどこぞの公爵の意向なんて、もっとどうでもいい。
むしろこの私の姿を見て失望して、今日中に婚約破棄のお手紙をくれたら
もし私の顔や姿をちゃんと認識しているのなら、だけれどね。
それにしても公爵様はどこにいるのかしらね~。
などとキョロキョロしながら私がバルコニーの近くに来た時だった。
「おい、エレンティナ。どうしてそんなに
そんな嫌みが突然後ろから聞こえて来た。
それは、今までも散々聞いた声。ロビン。
そういえば彼も伯爵家の人間なので今日このパーティーに来ていてもおかしくはないのだけれど、だからといってお話ししたいかと言われたらもちろん全然したくない。
でも私も貴族のはしくれ、明らかに自分に話しかけられているのに無視することも
「あらロビン、ごきげんよう。今日は
「は? もちろん来ているに決まっているだろう。僕たちは正式に婚約をしたんだ。だからもう彼女は我が伯爵家の一員も同然。これからはこういうパーティーにも慣れてもらわないといけないからな」
たしかにロビンが「真実の愛」とやらで結ばれたマリリンは最近
でも今はもう私とは関係なくない?
「まあ、そうだったのね。ではそちらに行ってあげてくださいな。私は私で勝手にのんびりしていますから」
だからあっちに行って。そう言ったつもりなのに。
「そうもいかないだろう。君はほんの一時期とはいえ、つい最近まで僕の婚約者だったんだぞ。普通の
は? 思いませんが? なんであなたに
と思わず口から飛び出そうになったけれども、さすがに「伯爵令嬢」としてはそうそう
「まあ、それは思い至りませんでしたわ。でももうあなたと私は関係ないのですから、私のことはどうぞ放っておいてくださいませ」
「だからそういう生意気なところが
「はあ? 余計なお世話でしょう。別にあなたに私の心配をしてもらう義理はもうありません」
思わず言い返してしまった私だった。婉曲? あら何だったかしら?
「なっ……!」
今までは一応「婚約者」という立場だったので、後々面倒くさくならないようにこういう言葉は飲み込んでいたのだけれど、さすがにもういいわよね?
だってこの人、もう私とは無関係の人だもの!
しかし私が
よし、この隙に
「では失礼します」
ロビンの
「待てよ! ふざけるな! 一体誰に向かってっ!」
私は突然、ぐいっと
(なに……? 何が起こったの……?)
私はそのままどさりと後ろ向きに
ひんやりした石の
「え……?」
私は急いで立ち上がろうとスカートの海の中でもがいたが、ドレスもそこそこの重量があるのでこういう時にすぐに立ち上がるのは難しい。
なのに、そんな私のすぐ近くで手を
「エレンティナ、君はもう少し落ち着いて行動するべきだね。れっきとした貴族令嬢がそんな風に転んで床に
胸に手を当てて、さも残念そうに顔を横に振っているロビン、って。
いや、あなたがやったんでしょう!?
無理に腕を引っ張って転ばせたのはあなたでしょう!?
私はあまりのロビンの
なに言ってんの、こいつ。
と、その時。
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