君にいつもとろとろカレーを勧めるその理由

冬寂ましろ

*****


 ああ、カレーはうまいよ。食ってくかい? それじゃできるまでに、君の疑問に答えておくよ。少し長いかもしれないけど、君なら聞いておいて損はないよ。



 あの日は叔父がいつもよりもしつこく母に絡んできたんだ。


 「お前がそんなんだからハルカが引きこもるんだ」

 「そんなの関係ないでしょ」

 「関係あるとも。だいたいお前は昔からハルカに関心がなさすぎだ。これじゃかわいそうじゃないか」

 「はあ? なんでそんなことを兄さんに言われなくちゃいけないのよ!」

 「俺が言わなきゃ誰が言うんだ。お前の尻に敷かれっぱなしの旦那が言うのか?」

 「なんですって!」

 「なあ、ハルカ、うちで働いてくれ。どうせ学校には行かないのだろう?」


 母と叔父は元々仲は良くなかったけれど、それでも大声で私のことについて罵り合うのは、さすがにつらくてね。だから、こう言ったんだ。


 「……わかったよ。叔父さんの店で働くから」

 「そうか。ハルカ。助かるよ。人が辞めてしまって困っていたんだ」


 母は私を眺めてあきれていたけれど、まあなんとかなるかなぐらいに思ってたんだ。おこづかいも増えるしね。





 叔父の店は、中目黒の駅から祐天寺に向かって高架沿いに小道を歩くと出てくる坂の真上にあってね。横には電車が走り抜けて、振り向けば遠く渋谷のビルたちが見えるそんなとこで、周りの家々に押しつぶされそうになって建っている小さな居酒屋なんだ。テーブルが2席、カウンターが6席しかなくて。入口がまた狭くてね。すぐそこはおしゃれスポットなくせに、店先には少し汚れたのれんだけがかかってて、なんとも場違いな感じがしててさ。私はそういうところが自分に似てたから、ちょっと好きだったんだ。

 言われた日に店に出向くと、カウンターの奥の調理場で叔父が鶏肉とネギを一列にまとめて串を打っていた。「手伝う?」と聞いたら「こっちはいいから、そこのエプロンつけて支度しろ。お前には接客をしてもらう」と言い返された。引きこもりにはつらい話だと思ったけれど、これは叔父なりの治療法だったかもしれない。言われた通りにエプロンをつけて、叔父から伝票のつけ方やレジの操作方法を教えてもらう。そんなことをしていてたら、最初のお客さんが来たんだ。


 「ひ、ひらっしゃいませっ!」

 「あ。ああ……。あれ、おやっさん、新しい人雇ったんだ?」

 「うちの姪っ子ですよ。まだぜんぜん至らないけれど、どうかごひいきに」


 そう言われてちょっとうれしくなってさ。がんばったんだ。お客さんたちはだいたい近所に住んでるぽくて、ジャージやら適当な服でやってきてた。みんなだいたい食べるものが決まっているようで、串もの2,3本とホッピーやレモンサワーの組み合わせで頼んでくる。注文を取るほうとしてはすごく楽だ。1回、ねぎまとつくねを間違えてしまったけれど、「ああ、いいって。ちょうどこっちが食べたかったんだ」と言ってくれて、作り直さずにそのままになったよ。みんなやさしいんだ。

 その日は10人ほどのお客さんがやってきて、午前0時を過ぎる前にみんな帰っていった。テーブルを拭いているとき、叔父が慎重に有無を言わせない感じで話しかけてきたんだ。


 「これからやってくるお客さんは、ちょっと変わった人が多くてな。びっくりしちゃいけないぞ。あと、決して詮索しないように。余計なこともするんじゃない。くれぐれもな」

 「うん、わかったよ」

 「ならよし」


 叔父の大きな手で頭をワシワシとなでられているとき、ガラガラと店の扉が開いた。

 光ってた。

 なんていうかこう……。光ってた。

 少し長めの髪の毛が光ファイバーのおもちゃみたく流れるように光ってた。着ていた黒いジャケットもその表面に極彩色の光がひゅんひゅんとせわしなく動いていて目をまわす。さすが中目黒、ウラハラには遠く及ばないけれど、ファッションの先端を行ってるな、とか、そんなことをのんびり思ってしまったよ。

 あたりをキョロキョロさせながら席につく光る人に、私は努めて変わらないように注文を取った。


 「いらっしゃいませ」

 「あの……」

 「なんにします?」

 「その……」


 ずっとあたりを見回している。外国の人かなと思い、テーブルに立ててあったお品書きを目の前に広げてあげる。叔父から余計なことをやるなと言われたけれど、仕方がない。こうしないと私の仕事が終わらないからね。


 「だいたい、こんな感じで……。あとはお酒はビールや日本酒、酎ハイ……」


 光るその人はお品書きをじっと見ている。日本語を読めるのか、そもそもお酒や料理の名前が通じているのか、いろいろ不安に思って声をかけてみたんだ。


 「こちらのねぎまとかいかがですか。鶏肉とネギを一本の串に通して、甘辛の味をつけて焼いたもので……」

 「ねぎま……」


 また、お品書きを見つめている。しびれを切らして私が口を開きかけたとき、その光る人が言った。


 「おすすめ、なんですか?」


 え、おすすめ? そしたら叔父がすかさずカウンターの奥から低く言う。


 「カレー」


 え、たしかにシメとしてお品書きにあるけどさ。


 「それ」


 え、それでいいの?


 「はい、わかりました……」


 私はすごすごとカウンターに戻り、叔父に注文を通す。声を潜めて叔父が私に文句を言った。


 「ハルカ、ああいうふうにしてはダメだ。言っただろう」

 「ごめん……。でもさ」

 「でももなにもないんだ。普通に接してあげろ」

 「わかったよ……」


 叔父がご飯を平皿に盛り付け、そこに鍋で温めたカレーをとろっとかけると、少しシャキッとした玉ねぎといっしょに、ジャガイモやニンジン、お肉がご飯の斜面をゴロゴロと転がっていく。横に赤い福神漬けをばさっと置いたらできあがり。「はいよ」と皿を渡されたので、スプーンと一緒に席へ持っていく。光る人はじっとそれを見てて、私がお皿をテーブルに置いたときも、ただ湯気のあがるそれを見つめていた。


 「スプーンで食べてください」

 「いいの?」

 「どうぞ」


 光る人がスプーンを握る。スプーンでひとさじカレーをすくう。じっとそれを見て、おそるおそるひと口食べる。はむっ。顔がとたんに嬉しそうに幸せでほわっとなった。飲み込むと次々とスプーンですくっては口に入れていく。お肉もジャガイモもニンジンも、そしてたまに福神漬けを口に運んでは、そのたびに光る人はうっとりとした顔になっていく。

 よかった。口にあったみたい。私は丸いお盆を胸に抱えながら、ちょっとうれしくなった。たぶん初めて食べたんじゃないのかな。びっくりしたんだろうな。でもおいしかったのだろう。きれいに空になったお皿が、喋らなくてもそれを伝えている。スプーンを握りしめて少し名残惜しそうにしていた光る人が、私を呼ぶ。


 「これ」


 何かを手渡される。手を広げると小さな筒状のものが3本あった。1本は緑で、もう2本は赤く光っている。ほんのりあったかい。これはお代なのかな? 思わず叔父を呼んでしまう。


 「クレッドか。おつりが出せないんだ。これだけもらうよ」

 「いいの?」

 「ああ、おまけだよ」

 「ありがとう」


 髪の毛の光が少し暖かい色に変わる。光る人は立ち上がって扉を開ける。振り向く。とてもいい笑顔だった。


 「おいしかった」

 「また来てくださいね」

 「うん」


 そういうと光る人は扉を閉めた。ガラス戸越しの光が遠のいていく。私は隣にいる叔父さんに少し興奮して話しかけた。


 「ねえ、おじさん、なにあれ? すごいすごい。あんな人たくさん来るの?」

 「ハルカ、ちょっと来い」


 叔父の手が私の頭をぐわっとつかむ。


 「痛い痛い、痛いって」

 「詮索するなって言っただろう。あんまりそういう目で見るなら辞めさせるぞ」

 「そう言われても、あんな人、見たことないんだよ」

 「お前だって学校では光る人だったかもしれないんだぞ」


 ああ、そうか……。

 そこでようやく私は思い知ったんだ。学校の奴らもいまの私ぐらいはしゃいだのだろうって。だから、私は叔父に素直に謝ることができたんだ。


 「ごめん、叔父さん、悪かった」

 「わかればいい」


 叔父が手を放してくれる。その日はもうお客さんが来なかったから、店の上にある空き部屋に寝っ転がって少し頭をさすってから、始発で自分の家まで帰っていった。





 次の日もその次の日も、ちょっと変わったお客さんたちが午前0時を過ぎたらやってきた。肌が真っ青だけどスーツをビシッと来た男の人、サンバイザーをつけてぴったりとしたつなぎ服を着た女の人、真っ白な服に身を包んで首が長くてよくわからない人、光る人もちょくちょく来るようになった。上半身裸の女の人がにこやかに扉を開けてきたときは、あわててエプロンを貸して、胸を隠してもらった。こんな人たちが、なんでもない普通のありふれた日本のカレーを注文して、みんなおいしそうに食べていくんだ。

 軍服を着た銀髪の女の人がやってきたときは面白かった。この人が住んでたところは通貨が音なんだそうで、お代について叔父と交渉の末、一曲店内で演じてもらったんだ。背中にしょってたコの字型のよくわからない楽器を頬と肩の間に挟むと、バイオリンみたく弾き始めた。心を引く煽情的なメロディが流れ出したと思ったら、すぐ愉快な感じな曲になり、みんながトントンとテーブルを叩きだす。お客さんのひとりが立ち上がって小刻みに体を振りだすと、私もたまらずお客さんたちといっしょに踊りだした。しまいにはお客さんたちがさまざまなお金を差し出して、もう一曲頼むとせがむほどだった。

 あの日はすごく楽しかった。みんないろいろ違うけど、ひとつの曲でいっしょに踊ったんだ。その頃にはもう午前0時を過ぎるとやってくるお客さんたちが、すっかり大好きになった。



 半年が過ぎ、だいぶ店に慣れてきた。近所に住む常連さんたちの注文も覚えるようになって、「いつもの」と言われたらホッピーと浅漬けとねぎま2本をすぐ叔父に伝えられるぐらいにはなれた。午前0時のお客さんたちもよく来てくれた。変わった格好だったけど、いつも同じようにカレーを食べて、そして満足して帰ってく。

 そんなふうに働いていたら、自分もちょっと変わってきたんだ。伸びてきた長い髪を編み上げてまとめたり、少しひらっとした感じのスカートに変えたり、いままでの黒づくめの服装から、もうちょっと自分らしい格好になった。あのお客さんたちに負けていられないと思ったんだ。

 ただ困ったことが起きるときはある。あの日は外が大雨で、午前0時過ぎにお客さんがひとりやってきただけだった。私はそのぬめっとした人が座ったテーブルの前で、イルカがさえずるような高い声を聞きながら固まっていたんだ。


 「ゲラプシュ%」

 「え……、ええ……」

 「ディラアソヌ&」

 「うーん……」


 この人がなんて言ってるのかわからない。聞いたこともない発音で、何語かすら……。叔父に助けを求めたら、首を横に振られる。困った。

 ガラガラ。店の扉が開く。


 「ひゃー、ひどい雨だぜ。まあ、それでもあいつは食わなきゃなんねえけどな」


 初めてみるお客さんだった。雨だれがぽとぽと垂れてる古い帽子をかぶって、じょりっと音を立てていそうな無精髭を生やしたおじさんだった。

 その人が、私とお客さんを見比べている。やがて合点がいったように、高音域で会話を始めた。


 「ハザス#」

 「エドロネミン@」

 「パウア%」


 何かわかったらしくおじさんが私に言う。


 「オレンジジュースをくれだとよ」

 「あ、はいっ!」

 「あと、俺はカレーな。大盛りで頼むぜ!」

 「はい! すぐに!」


 カウンター越しに叔父にオーダーを通すと、取って返してテーブルに座ったその人のところに頭を下げに行った。


 「さっきはありがとうございます。困ってたんです」

 「いいって、ミニャス語なんてマイナーだしな」

 「ミニャス語?」

 「ああ、あそこは海から進化した奴らが牛耳っててな。人には発音できない言葉もあるが……」

 「はい?」

 「ハロルド・アシュワードだ」

 「あ、ハルカです。沙仁ハルカ」

 「いい名前じゃねえか」


 叔父から「はいよ」という声であわててカウンターに戻る。ほかほかのごはんへたっぷりかかった湯気立つカレー。いつもしているようにスプーンを添えてお皿をことりとテーブルへ置く。


 「うひょー。これよこれ。この店のこれが食べたかったんだ」


 ハロルドさんはやたらにぎやかに喜ぶ。おおげさにスプーンでたっぷりカレーをすくうと、そのまま口に放り込んだ。


 「ひゃー、めっちゃおいしい。たまらん。このとろっとしていて、うま味がたっぷり詰まってて、おだやかに刺激的なこのルー。食欲を引きずり出されていくこの香り。少しシャキっとした玉ねぎ、色良いニンジン、ほくっとしたじゃがいも、そして少しこんがりとしているこの香ばしい豚肉。そんな奴らがやさしいご飯に包まれて、全員で俺を襲ってくる。もっと襲ってくれ! もっとだ! ああ、とろとろカレーに包まれるこの多幸感! これこそ僥倖! すばらしい! 人生最大の喜びに乾杯だ!」


 あまりのやかましさに、私は思わず口をはさんでしまう。


 「そのカレー、ありふれたものですよ? ルーだって市販のを2つ合わせたぐらいの工夫しかないし」

 「何言ってんだお前。それがいいんだよ。お前たちはガキの頃からこんなカレーを食ってるかもしれないけどな。本当によそにはないんだぞ、これ。世界の大半はどこも同じ食事を毎日ぼそぼそと食ってんだ。いっつもひでえもんだよ。A型標準食なんて食えたもんじゃねえ。C型はまだちょっとだけイケるが……」

 「でも、日本ならどこでも食べれますよ?」

 「それをほかの渡航者に言ってみろよ。張り倒されるぞ。この店以外でカレーにありつくのにどれだけたいへんなのか……」

 「それはまあ、なんとなくわかりますけど……」


 お客さんたちの恰好や言葉。普通と違うところが頭をよぎる。ずっと不思議に思ったんだ。私は叔父に聞かれないように小声で聞いた。


 「すみません、この店ってなんですか?」

 「知らないのか? あらゆる世界で、この座標では食べ物屋をやっているんだ。配給所だったり高級レストランだったり屋台だったり。店の形は変わってもここにくれさえすればおいしいカレーにありつける。だから異世界を渡って生きてるような俺たち渡航者には、オアシスみたいなもんになっているんだ」

 「異世界? 渡航者?? すみません、ちょっと……」

 「おやっさん、この子に教えてないの?」


 私がこっそり聞いてたのを台無しにしてくれた……。

 でも叔父は私には怒らず、ただ奥でこっくりとうなずいた。


 「まいったな……。じゃあ、ちょっとだけ教えてやる」


 ハロルドさんが胸ポケットから赤い紐を取り出すと、輪にして手に絡めてあやとりを始めた。私の前にばっと広げると、両方の手のひらの間には「ほうき」で知られる形で紐が渡っている。


 「まず大前提として、すべての世界は無限に分岐した過去が現在という一点に集中することで成り立っている。真ん中から紐が左手に広がってるだろ。左手が過去、右手が未来だ。どの未来になるのかはエントロピー的に観測しようがないので不明だが、現在というのは俺たちがこの瞬間を見ているから事象として存在しうる。多数の世界はそのあとで分岐している。現在というのは連なる過去の影だ。世界とは過去のことだ。ミニャス語を話してたあいつとお前とは、理論的には過去の違いしかない」

 「あんな言葉、私は知らないですよ」

 「そりゃ過去が違いすぎるからな。俺たちがこの店にたどりつけるのは、過去を引きずったまま動く俺たち渡航者が、カレーがいつでも食える店としてここを認識しているからだ。だから、この店はこの店として存在しうる。渡航者は、そうした認識を増やして世界を渡る。機械の力を借りはするが、それでも『それがそこにある』という認識を持つことで、こうした過去が交わる特異点を通して別の世界へ渡っていくんだ。まあ、アウリッツの不交差原則によって、一度特異点を経由すると同じ世界には戻れなくなるけどな。時間が絶えず特異点を押し流すから仕方がない」

 「ごめんなさい、ますます……」

 「おいおい、高次元世界線渡航の初歩の初歩だぞ。まあ、仕方ないか。この世界じゃ次元トポロジーは小学生から学ばないんだろ?」

 「いや……、初耳です」

 「まあいいさ。世界って奴は案外いろんな種類があって、認識したら交わる。そして違う世界に行ったら同じ世界には二度と戻れない。それだけわかっていればいい」

 「そうなんですか……」

 「ああ。講義なんかしてたら腹が減ったな。おかわりくれ」

 「はい、いますぐ!」


 やりとりを見ていた叔父は黙々と仕事をしていた。ちょっと怖かったけど、あとで黙って頭をなでてくれた。





 それからは午前0時のお客さんたちにこっそり話を聞くようになった。どんなところから来てどこへ向かうのか。陽気に話してくれる人もいれば、そうでない人もいる。ただ、私が聞いてて思ったのは、本当に世界にはいろいろあるんだろうな、ということだった。その思いは私の苦痛を和らげてくれた。ここじゃない別の世界へ行けば、窒息しそうな世間というものから助かるかも……。そんなささやかな希望が出始めたんだ。


 無精髭のハロルドさんとはそれから少し仲良くなっていた。今日起きたこと、楽しかったこと、ひどかったこと、ちょっとずつ少しだけ。お互いにそんな話をしていた。そして、7回目に店へやって来たときこんなことを聞いてみたんだ。


 「異世界では何を食べているんです?」

 「この店が見つからなかったら、だいたい現地の飯屋で食べてるけど、当たり外れはある。A型標準食はありえないけど、クワッラはうまかったな。エルドスをホワしてブリミュットにしたあと、ゲソッスをかけて食べるんだが、これがなかなかコクがあって……」

 「なにがなにやら……。ごめんなさい」

 「そうだろうな。あれは現物を見せながらじゃないと説明できないしな」

 「そうですよね……」

 「ここのカレーだって同じなんだぞ。まず、カレーという概念がない世界もあるんだ」

 「そこからなんですか?」

 「そこからなんだよ。ああ、めんどくさい。うまいもんはうまいでいいじゃないか」

 「でも、ちょっと食べてみたいです。クワッラ」

 「そうか……」


 彼は私に少し神妙な顔を向けた。私がいけないことを喋ったような……。





 この話をしたあとは、「おいしかったもの」についてお客さんに聞いていた。ハリャマがうまかっただの、サウワがいいだの。それがなんだかわからないけれど、みんなおいしそうな顔をして話す。でも、やっぱりこの店のカレーを食べたいと言っていた。私にとってそれは、ありふれたいつでも食べられるものだった。その頃にはこんなカレーはもういいから、異世界のご飯を食べたい、そこへ行ってみたいとどんどん想いを募らせていた。


 ハロルドさんが無精髭をさすりながら、肩のリボンをひらひらさせているお客さんと話しているときに、その話をなんとなく耳にしてしまった。


 「エルゴ座標0.210317の世界にお前が欲しがってるカランクたちがいるようだが、どうだ?」

 「そこへ行くには、いまはちょっとやり残したことが……」

 「まあ、少しは待つが、それほど時間はないんだ。時空震の関係でそんなに待てない。3日後までに決めてくれ」

 「わかった。いろいろ片づけて、アクシオン捕獲機を集めてみるよ」

 「頼むよ。連れてくとしたら最後のチャンスと思ってくれ」


 話し相手が立ち上がって去っていくと、ハロルドさんは思い出したようにカレーを口へかきこみ始めた。私はそこに少し近づいて、勇気を出してそっと聞いてみた。


 「もうすぐお別れなんですか?」

 「まあ、話がまとまればな。俺もあの世界には少し興味があって……」

 「私を連れてって欲しいんです」

 「お前……。何言ってるのかわかってるのか? やっぱり話をするんじゃなかったな。焚きつけてしまったようで悪いが……」

 「すごく興味あります。いろんな世界のこと。だから……」

 「悪いな。連れていけない」

 「なんでもやります! カレーだって作れますし、話し相手だって……」

 「だめだ」

 「知らない世界のご飯を食べてみたいんです!」

 「いい加減にしろ。お前はお前の世界で暮らせ」

 「こんな世界は、もう嫌なんです……」


 お盆を抱えながらじわじわと泣き出した私を見て、ハロルドさんは無精髭をさすりながら「まいったな……」とつぶやいた。


 「おやっさん、こいつちょっと借りてくぜ」

 「ああ、かまわんよ」





 ハロルドさんに手を引かれて行った先は、駒沢通り沿いにある小さな駐車場だった。1台の丸っこい古そうな薄緑色の車をこつんと叩いてハロルドさんは言う。


 「お嬢ちゃん、海に行かないか?」


 助手席のドアを開けてもらい中に乗る。天井やらダッシュボードやら、あちこちによくわからない機材がガムテープで適当に貼られていて、それをつなぐケーブルがミミズのようにのたうちまわっていた。

 運転席にどかりと座ったハロルドさんがキーを回す。ふおんと軽めのエンジン音がしたら、とたんに車内の機材が一斉に光り出した。赤いのやら青いのやら、点滅したり、数字を表示したり。


 「このスバル360は、俺がいた世界ではまだ生産しててな。見た目ポンコツでも、小型縮退炉エンジンを積んでるから水一滴で三万キロは走れるぜ」

 「すごいんでしょうね……」

 「あ、それ押したら死ぬから」

 「うわっ、ごめんなさい!」

 「気をつけてな。余剰次元計測器、インフラトン座標指示器、逆プリマコフ転換装置、みんな物々交換でほかの旅行者から手に入れたんだ。中には死に際で託されたものもある」

 「旅の全部が詰まっているんですね」

 「世界を渡る渡航者は、みんなだいたいそんなもんさ。何かを渡したくなる」


 車は駒沢通りへそろりと動き出すと、そのまま南へと下って行った。ハンドルを握りながら、ハロルドさんはぽつりぽつりと私に話しかけける。


 「お前の気持ちはわかる。でもな、さすらうのは案外つらいぞ。人は最後にふるさとを思い出す。そこへ行けないのは死ぬよりつらい。異世界に行けばここには戻れなくなるからな」

 「それでも行きたいんです」

 「頑固な奴だな、お前は」


 ハロルドさんが私の頭をぽんぽんとなでる。


 「俺もお前ぐらいの歳には外の世界にあこがれたもんさ。ああ、頑固だったよ、俺も。でも行ってしまえば、もう戻れなくなる」


 車が左折して大きな国道に出る。ダッシュボードにあった小さなデジタル時計は午前4時を示していた。車と街灯だけがぼんやりと暗闇に灯って流れていく。


 「世界はもっとにぎやかなもんだ。お前が見ている世界は、微々たるもので、実際はずっと広い。お前が感動して涙を流す場所もあるだろう。お前が生涯をかけて暮らしたくなる場所もあるだろう。まだ、そんなところを見ていないだけだと思うぞ。取り返しのつかないことをして異世界に行くほどのもんじゃない」

 「なら、ハロルドさんはどうして……」

 「俺か? 俺はまあ成り行きで。仕方がなかったんだ。親とそりが合わなくてな。異世界に憧れていたんだ。ああ、くそ。いまのお前と同じじゃないか」

 「それなら!」

 「後悔はあるさ。あるんだよ。そういう思いをさせたくないんだよ、俺は」

 「私は行かなかったという後悔をしたくないんです」

 「俺は行ってしまった後悔を抱えている」


 赤信号で車が止まる。ハロルドさんが頬杖をついて流れる車たちを見ている。


 「俺はこの後悔といっしょに生きていこうと決めたんだ。お前はそんな覚悟を決めなくていい」

 「それでも私はここじゃない世界へ行きたい理由があるんです」

 「みんなそう言うんだよ」

 「私はただ……」

 「それは泣くほどのことか?」

 「はい……」





 車はほの暗い江ノ島の市街地を抜けて、海岸線沿いを走り始める。砂が少しかぶった駐車場に車を止めると、私たちは砂浜へ出た。空はまだ青色が負けていて、海はただ黒いうねりのように見えた。ひんやりとした潮風が私たちを包む。海のその先を見つめながらハロルドさんが聞いた。


 「それで?」


 私はひとつだけ息をしたら、それを吐き出した。


 「たかだか体が男ってだけでみんないじめるんですよ。キモいとかオカマとか」


 砂を蹴る。


 「くやしい。くやしいんです、とっても」


 私は静かに怒る。


 「なんであのときぶん殴れなかったんだろう。なんであのとき恐怖にすくんだのだろう」


 振り向いた。


 「お願いです。連れてってください! こんな世界、私を見捨てるしかしない、こんな世界……。もう居たくはないんです!」


 ハロルドさんは困ったように無精髭をさすっていた。


 「そんなことがお前の理由か」


 黙ってた。

 ああ、やっぱり言うもんじゃないな。貴重な常連さんをひとり無くしたな、もうすぐ会えなくなるのかな、寂しいな、そんなことを考えて自分を責めていた。


 私達は黒い海をただ見つめていた。


 そうしていたら、ハロルドさんがようやくぽつりとつぶやいたんだ。


 「参ったな。俺も似たようなもんだ。異世界を渡りたいなんていう物好きなんか、ひどい目にしか合わなかったよ」

 「ハロルドさん……」

 「あの異物を見る目は堪えるもんな」


 ハロルドさんがそうつぶやくと、私に振り向いたんだ。その真剣な顔に、私は思わず見惚れちゃった。


 「お前は世界に見捨てられたんじゃない。世界から旅立つんだ。いまからな」

 「じゃあ……」

 「ああ、いいって。ちょうどこの世界からおさらばしようと思ってたところさ」


 ハロルドさんが私に微笑む。そのとき私はどんな顔をしていたんだろうな。


 「ああ、この世界、最後の日の出だ。ちょっとばかし見ようじゃないか」


 何かが点滅している水筒を脇から取り出して、蓋になってたカップに注ぐ。ハロルドさんから手渡されると、それは普通のコーヒーだった。抱えると温かい。そうだね。冷たい人ばかりじゃなかった。温かい人もいたんだ。ごめんね、私の世界。それでも私はこの人と旅をする。そう決めたから。

 朝焼けを見届けてから、ふたりで歩き出した。車に乗るとパタンと同じタイミングでドアを閉めた。


 「あー。カレー。カレーだよ。ちきしょう、もうちょっと食べておけばよかったな」

 「とりあえず10個ぐらいルーを持ってきました。レトルトもありますよ」

 「でかしたぞ、相棒!」

 「ふふ」


 私と彼はようやく心から笑った。


 「少し加速するぞ。どっか捕まっておけ」


 ふわりと車が浮かぶ。海と陸が遠のき、赤と青のグラデーションに染まった空へ近づいていく。


 さようなら。

 ううん違うな。

 いってきます。


 ふと空を見渡す。みんないる。みんな飛んでく。それは車だったり、バスだったり、電車だったり。


 「認識したから見えたんだ。な、世界は案外にぎやかだろ」


 雲を超え、陽に向かって飛び出していく。それから私たちはしゅぼっと消えた。





 あれからいろんな世界を回ったんだよ。

 社会主義陣営と全体主義陣営が世界を支配した息苦しい世界。

 星を渡る人々が支配者となり、地球人としての重荷が薄れた世界。

 雲にかすむ高層ビルが乱立し、ワイヤードですべてが決まる世界。


 それでも世界は美しいままだし、人々は日々の暮らしを続けていた。輝くものであふれたイスタンブールのバザール、エネルギッシュな朝を伝える台湾の早餐店たち、絵具をぶちまけたような極彩色のダナキル砂漠、血のように赤い砂が足元に広がるホルムズ島、おだやかなガンジス川が流れるベナレスの夕焼け、それから……。


 それからこの世界に来たんだ。

 微妙に政治や宗教は、私の生まれた世界と違ってるのだけど、それでも細い道の曲がり角、灰色の四角い学校、通学路の大きなイチョウの木は、変わらずそこにあってさ。思わず泣きだしたんだ。懐かしくて恥ずかしいような不思議な気持ちが湧き上がったから。そうしたらあいつは私を抱き寄せてこう言ってくれたんだよ。


 「人は最後にふるさとを思い出す。必ずだ。でも、ふるさとは、少しは変わるもんさ。ハルカが良ければ、ここで暮らそうぜ」


 あいつがいた世界とは違うくせにね。あいつはいつもそうなんだ。

 それからはここでこうやって暮らしてる。たまに君のような人を相手にしてね。


 君の疑問の答えになったかな? なぜ、君に声をかけることができたのか。それからなぜ君にやさしくできるのか。あと、なんだっけ?


 はい、カレー、できたよ。うまいだろ。三千世界を渡ってきた秘伝のカレーさ。まあ、結局市販のルーを2個合わせるぐらいの工夫しかしていないけどね。


 それで、どこに行きたいんだい? ああ、そっちか。そこはちょっと私からだと正確に伝えられないな。君の世界の言葉はこうやって話してるのがせいいっぱいなんだ。あとは旦那に聞いてね。相棒って言い返すかもしれないけどさ。

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