◆08 一週目『苗字で呼んではいけません』

 明日真がラブホテルの暗い廊下に場違い感を覚え、そそくさとフロントを抜けて駐車場にたどり着くと、数時間前に見たような光景がそこにあった。


 首の後ろで結んだ長い黒髪の三つ編みに、スカートが長いクラシックタイプのメイド服。

 そんな滑稽な拉致犯が、駐車場に停められた黒塗りのワゴン車に寄りかかって、細長いキセルから紫煙を吹かしていた。


「ええっと……夜々ややさん、でいいんですかね」

「……あれま、お早いご退室で」


 メイドは悪びれもせず、車のサイドミラーでキセルを一発カツン。やはり灰を落としてから、エプロンの胸中にしまった。


「先刻は突然失礼いたしました。改めまして、天鵬院家で百鬼なきりお嬢様の専属メイドとかやらされちゃっております、城梨夜々しろなしややと申します。以後、お見知りおきを」

「あっ、ハイ……こちらこそ? できればもう、拉致は勘弁して欲しいですが」

「それはお嬢様次第ですね」


 つまり百鬼から指示があればまたやるのだろうかと、明日真は不安になる。


「で、俺のチャリはどこに?」

「車中です。丸ごとお送りしますので、お乗りください。夜道は危ないですから」

「いやでも、そんなご迷惑をかけるわけには……」

「乗ってくれない方が迷惑なんです。貴方にもしものことがあれば、私の身が危ないので」


 何やら不穏だが、そう言われては従うしかない。百鬼の関係者で、ここまでの異常な流れがあった直後なのだから、さすがにもう妙なことは起こらないだろう。

 明日真は促されるまま、黒塗りワゴン車の助手席に乗り込んだ。


 かくして、夜々の運転でワゴン車は走り出す。

 辺りはもう完全に真っ暗。時刻を見れば、深夜の二時を過ぎている。カーナビを見ても周囲は知らない地形で、本当にここはどこなのかと思わなくもないが、そこで明日真はふと気がついた。


「あ、えっと、住所、ナビに入れなきゃですよね」

「ご心配なく、存じております」


 夜々は言いながら、田舎の暗い夜道にも関わらず、するすると車を進めていく。

 そしてまるで世間話のように、軽い調子で切り出して来た。


「いやはやしかし、美少女が体まで使って失態だなんて、お嬢様も実におダサい。いえ、むしろ貴方の我慢を褒めるべきでしょうか。童貞力の賜物? 理想が高すぎるとか? それとも、さっさとヤるだけはヤってポイ捨てして来たとか?」


 半笑いで次々と聞いてくる夜々の言葉に、時々混じる妙な言い回し。本当にこの人は百鬼の専属メイドなのかと、ちょっと疑わしくならなくもない。


「別に何もしちゃいませんよ……」

「本当に、何も?」


 急に強い口調で鋭く言われて、明日真はつい思い出してしまった。

 事実としてキスはしている、というかレイプも同然に奪われている。だが、そういうのはあまり吹聴することでもない。


「私の予想では、今日のお嬢様なら突然のディープキスくらいかましてると思うんですが」


 見事に言い当てられてしまって、明日真は思わず窓の外に目をやった。

 その反応で察せられてしまったのだろうか。夜々が微笑んだ。


「業界のスターで、アイドル扱いされている有名人。いかがでした? お嬢様のそれはもう勇気を振り絞っただろう、でもそうだと思われたくない健気なセカンドキスは」

「……ノーコメントで」


 明日真が答えてからはしばし沈黙が続いたが、運転中の夜々はやがて「なるほど?」と呟くと、これまた切り出した。


「自分に嘘をつけない人……そういうところが良いんでしょうかね」

「……そう言う城梨さんは、どうして百鬼のメイドなんかやらされちゃってるんです?」

「夜々です」

「はい?」

「私のことはどうか、夜々と、下の名前でお呼び下さい。苗字……ガチで大嫌いなので」


 言葉の最後で突然声にドスが効いた。


「えっと、じゃあはい……夜々さんで」

「はい、夜々さんです」


 そして、打って変わって笑顔である。


「それで、どうして城……夜々さんは、百鬼のメイドを?」

「私、小さい頃から奥様の奴隷なので、ほとんど人権ないんです」


 聞かれてばかりも癪なので聞き返すと、意外すぎる答えが返って来た。


「こう見えて私、お嬢様のおしめを変えたことだってあるんですよ?」


 夜々は二十台にしか見えないが、では今一体いくつなのか。

 百鬼が今同学年の十七歳だとして……。


「今、じゃあ私は何歳なのかって考えましたよね」

「あっ、いえ、そんなことは……」


 ありまくりなので驚いた。この人はエスパーか何かなのか。

 いや、これは誘導されたのだと思うべきだろう。

 拉致られたこともそうだが、やはり油断ならない人らしいと、明日真は思った。


「私はお嬢様次第で時々、変なところで急に現れたりしますけども、驚かないで下さいましね」


 夜々が淡々と言うと、ゆっくりと車を止める。

 気づけば周囲は、暗がりでもそうとわかる、峰崎家の見知った近所だ。


「直接乗り付けるとご面倒でしょうから、この辺りが妥当かと思いますが」

「ええ、充分です」


 夜々の完璧な配慮がちょっと怖くもあったが、ありがたいことには違いない。

 明日真はワゴン車を降りて、後部のトランクから自分の自転車を下ろす。それから運転席の窓際まで行って、窓を開けてくれた夜々に、素直に礼を述べた。


「ご配慮どうも。わざわざすみません」

「当然です。貴方の身辺調査なんて、とっくに終わってるんですから」

「……ですよね」

「今日は舞い上がっちゃってポンコツ気味でしたが、あまりお嬢様を舐めていると、痛い目を見ますよ? 精々、ご注意くださいませ。それでは、また明日」


 そう言って夜々は、田舎の夜の暗がりに、ワゴン車の孤独な明かりを走らせて行った。

 明日真はその光が見えなくなるまで見送ったが……。


「……明日?」


 どうにも不安を掻き立てる捨て台詞に、眉をひそめざるを得なかった。

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