◆10 一週目『マネー的パワープレイ』
翌朝の教室で、隣の席からの開口一番で来たのは謝罪だった。
「昨日はごめんね。ちょっと先走り過ぎたみたい」
「でも、あきらめたわけじゃないんだからね!」
あきらめてくれた方が、明日真の日々平穏的にはありがたいのだが。この分ではどうせまた今日も何かやらかして来るんだろうなと、気が重くならざるを得ない。
そうして、数時間。予想に反して、百鬼はその日も大人しく過ごしていた。授業中は明日真に教科書を見せてもらったりで、妙に胸を意識的に当てて来たりは続いていてウザったいが、それくらい。
クラスには先日の滑稽な自己紹介のせいでまったく溶け込めていないが、休み時間には時折、こんな田舎でも彼女のファンはいるのか、それともミーハーな連中なのか、百鬼の噂を聞きつけた十数人が、彼女に握手やサインを求めに来ていたが、それにも笑顔で応じていた。
あとは席が百鬼の斜め後ろということもあって、やっぱりファン丸出しでテンションが高いムラーチンと『ルーリスタ』について話をしたりで、特にふざけたところはない。
なんて思っていたのが、油断だった。
天鵬院百鬼は、ハッキリ言って頭のネジが何本か飛んでいる。
『ルーリスタ』方面限定の極端な指向性の持ち主と言ってもいい。
そんな彼女を常識的な考えで測ろうと言うのが、そもそもの間違いだったのだ。
「今日も愛妻弁当とは、羨ましいねえ……」
購買のパンを齧るムラーチンに、
しかも一体どこから持って来たのか、彼女の手には映画なんかでよく見る、銀色のアタッシュケースが握られている。
「明日真、ちょっと来なさい!」
百鬼が空いた手で強引に明日真の手を取り、走り出す。
「ってオイコラちょっと待て! もう昼休み終わるぞ!」
「エスケープよ! エスケープ! 一度やってみたかったの、こういう逃避行みたいなの!」
「俺はやりたかねえよ!」
具体的には、夜更かししたので今夜のバイトの時間までもう少し寝ていたい。
しかし、明日真の願いは叶わず。
「いいじゃない! こういうのも青春っぽくてさ!」
百鬼は笑顔で明日真の手を引き続け、屋上にまで連れ出した。
そうして彼女が何をやらかしやがるのかと思っていれば、腰に手を当てて不敵な笑みを浮かべているだけで……?
五時間目開始のチャイムが鳴る。
それを聞いて、明日真はため息をついた。
「何がしたいんだよお前は……」
「昨日はごめんって言ったでしょ? ぶっちゃけ甘く見てた。初めからこうすれば良かったのよ。ケチくさかったわよね。改めて、ごめんなさい」
百鬼がアタッシュケースを放り投げて来る。
床を滑って足に当たったそれには、結構な重みを感じた。
「開けてみて? 私からのプレゼント☆」
ともあれ言われるままに、明日真はアタッシュケースを開いて中身を確認し……。
「ちょぉっ!?」
秒で閉じた。
幻覚でも見たのではないかと、変な意味で心臓がドキドキする。
「おまっ、こ、これ……ぇぇ……?」
上手く言葉が出てこない。それもそのはず。
「全部で一億! それだけあれば足りるでしょっ!」
百鬼が堂々と、碧い瞳をキラキラさせながら言い放つ。だがこれはもはや、足りる足りないの問題ではなく、頭がおかしいとしか言いようがなかった。
「夜々に口座から出して来てもらったから、手続きに半日かかっちゃったけど……これでアンタは自由の身よ!」
そうして、やはり百鬼は言うのだろう。
「だからあたしとギルドを組みなさい! 一緒に見に行こうよ! 遥かなる高みを! アンタとなら絶対行けるって、あたしはずっと信じてるの!」
明日真は貧乏家計上、高校を卒業したら就職する気でいるが、高卒就職での生涯年収は約二億三千万などとも言われる。それが目の前に一億だ。これはほとんど半分に近い。
今17歳の明日真がこれから80歳まで生きると仮定して、70歳で定年、厚生年金だのなんだのと計算して行けば、これは人生を逃げ切れかねない金額だ。
ただし、明日真ひとりの場合に限れば、だが。
「もちろん、プロになってからの報奨金もスポンサーとの契約金も、全部アンタのよ!」
金銭感覚の違いもここまで行くとあまりにも滑稽だった。
昨夜の百万円ビンタの比ではない、圧倒的なマネープレッシャー。この甘美すぎる万札の香りと誘惑にクラクラしない人間などそうはいるまい。
貧乏生活も、母の入院費用も、福積家への借金も、そして未来の展望も。この一億円があれば、明日真が今抱えている問題のほとんどは消滅すると言っていい。
高卒から定年までただのバイト生活を続けるだけでも、累計で一億程度の収入にはなる。
そこに皮算用ではあるが、百鬼の言う通り『ルーリスタ』のプロになれた場合の報酬も足せば、A1ランクあたりで頭打ちと考えても、その総額は三億を余裕で越えるだろう。
そうなるともはや、結構いいサラリーマンの生涯年収だ。それが活躍によってまかり間違ってSランクなんてことになれば、もっともっと増える。それは百鬼がこんな金額をポンと出してこれることからも明らかだ。
「クソが……ッ」
わかっている。このモヤモヤは若気の至りで、下らないプライドなんだとわかっている。
どう考えたって、自分だけでなく家族のためにも、ここで一億を受け取るのが最善択だ。
だが明日真にとって、これを受け取ってしまうことは、悪魔に魂を売るのと同義。
心まで百鬼に屈服し、自分の力ではなく、彼女の力に依存して生きていく。そういう、一生残る心の傷を負う。
つまり、飼われる、ということだ。
妹の
明日真の脳内を、様々な未来予測が去来する。
だがどうしても……どうしても納得できない。
自分でもバカだと思うが、心の内に渦巻くプライドが、最後の一線で許さない。
「ちょっと……考えさせろ」
「ええ、いいわよ。そのためのエスケープだもの」
微笑む百鬼は、女神か悪魔か。
明日真はいったんアタッシュケースを椅子代わりに座り込んで、額に手を当てる。
それはただ迷うだけではない。知る限り、聞いた限りの情報を総動員して、冷静にどうするべきかを考えている。
なぜ百鬼はここまでする? 確かに小五までは明日真の全勝だったが、あれからもう七年も経っている。明日真は今やブランクもあれば、時代遅れもいいところ。そんな男に、こうまでする理由がどこにある?
第一、『ルーリスタ』は十人でやる競技だ。ふたりが組んだとて、それだけでは勝てないし、他のメンバーの保証もありはしない。
そもそもなぜ百鬼はここにいる? 本当は何をしたい?
そこから考えるべきだと思い直した明日真がモヤを切り開くキッカケになったのは、いつもウザいくらいに
今が絶頂期真っ盛りなはずの百鬼は、なぜS1ギルド『
それが半年近くも表舞台から姿を消した末に、どうしてこんな田舎の高校に転校してきた?
「なぁ百鬼。お前が俺を雇いたい理由は何だ? 俺をどうしても仲間にしたいんなら、ちゃんと胸の内ってヤツを明かせよ。でないと……信じられねえ」
「アンタらしい答えね。ま、それもそうかって感じではあるけれど。興味を持ってもらえたのは、素直に嬉しいわ」
百鬼はそう言うと、屋上フェンス下の縁に腰かけて、アタッシュケースに座る明日真と、目線を合わせて微笑んだ。
「ちゃんと話したら、前向きに検討してくれる?」
そして膝に肘をつき、手の平で顎を支える姿勢になって、肩を竦める。
明日真はこれに、眉間に皺を寄せながら答えた。
「……内容次第、だがな」
「それじゃあ、まずは話すとしましょうか。この半年で、あたしに何があったのか」
かくして、天鵬院百鬼は語り出す。
己の事情に現在の状況、そして目指す目的というものを。
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