第十七話 答え
第十七話 答え
「……あははっ!」
一呼吸ほどの間をおいて、奏先生が抱腹絶倒した。
……そこまで愉快に笑えることか?
「遊ぶため、ね……っ。あぁ……っ、なるほどっ……」
笑い過ぎて言葉が途切れている奏先生をただ静観しているのが少し後ろめたくなって、僕はアルコールで少し熱くなった喉から声を出す。
「いやだって……夢咲さんにそう言われたから……」
「ちっなみ……に、なん、て誘われたのよ……?」
「えっ……と、……『一年間だけ一緒に居て』みたいなことを……言われましたね。それで『私について来てほしい』って事で、この町まで来ました……」
「………………ん?」
奏先生の笑い声がぴたりと、止んだ。
それはもう突然すぎるくらいに。
時空ごと切り取られたように。
空気の色が暗転して、蟲が頸を這うような錯覚がシナプスを縫った。
「……え、怖い。……どうしたんですか」
大人へ些細な嘘をつく幼児のような、張り付いた笑顔のまま、奏先生はしばらく表情を変えなかった。
……が、手元の酒を一口飲み込むと、その緊張も緩んだように見えた。
「……澪君は、どこまで聞いた?」
「どこまで、って……」
「……どうして、一年間だけ、なのか、知ってる?」
「…………知らない、です」
「そりゃあ、そっか」
お互いのグラスは空っぽだった。
僕はもう酔いが覚めていた。
奏先生の次の言葉を待った。
「私も、知らないし」
氷が噛み砕かれる音がした。
「……というより、誰も知らない。本人でさえも知らない。……誰一人として、原因が、わからない」
それならどうして、と僕は思った。
だけどそれを口から出す前に、答えが与えられた。
「……なのに、碧ちゃんと私、それと極少数の限られた人達だけ、知っている。疾患、障害、怪我、遺伝……それらとは全く関係の無い『何か』によって、碧ちゃんの余命があと一年程度しか残っていないということを、知っている。確固たる根拠はないけれど、それが杞憂ではないことを、理解している。どうして?って聞かれても、私には、わからない。原因も、現状も、対策も、何もわからない。手の打ちようがない。……強いて挙げるとするなら、碧ちゃんをコールドスリープまでさせて未来に託す案だけど、私は今を生きる碧ちゃんと一緒にいたいし、何より碧ちゃんがその案を望んでいない。どうすればいいのかわからないし、どうしようもないんだよ」
最後の言葉は掠れていた。
……どうでもいい。
……と、片付けるしかなかった。
知りたい事を知れそうな程の情報量だったのに、何一つとして理解できないままに終わった。
科学的に説明できない。
僕は医者でも何でもない、ましてや碧の体を蝕むものの正体もわからない。そもそも蝕むとかそういった類ではないのかもしれない。ある日突然、それが必然であるかのように、ロボットのバッテリーが切れるかのように、この世を去るのかもしれない。
まだ僕が知り得ない、それを獲得するとすれば沢山の時間を共有しなければならないような、そんな情報も山ほどあるのだろう。
碧自身はどう思っているのだろう。あの明るい振る舞いの裏には一体何が潜んでる?
僕は考えた。
考え続けた。
考え続けたかった。
続かなかった。
答えのない事を考えるのが僕は好きなんだと思っていた。
ちがった。
僕がこれまで考えてきた『答えのない事』は、須く最初から答えがあった。それをさも『答えのない事』のように扱って、かつて己が解いた轍をなぞることこそが好きだったんだと自覚した。
本物は、そんな甘いものじゃ無かった。
目の前の現実に、僕の無力が暴かれた。
暴かれたのは何もこれが、初めてというわけではなかった。
僕はこれまで、何度も己の無力に対して、悔やんで、恨んで、憎んで、嘆いて、殺そうとしてきた。
楽しく生きる上で必要な何かを、その度にすり減らして、今日の昼にたどり着いた。
しかし今は違う。
その羨望。
その悲憤。
その憎悪。
その惆悵。
その殺意。
いつもなら抱けるはずのそれら感情達が、うまく引き出せない。悪く言えば他人事だった。夢咲碧という少女と、そこまで感情移入できるほどの時間を過ごしていなかった。
ただ、恥ずかしかった。
他人の悲しみを悲しめない己の欠如が、恥ずかしかった。
だから、続かなかった。
続けなかった。
考え続けなかった。
続けたくなかった。
どうでもいい、で片付けた。
という自己観察を終えた頃、二杯目の梅酒を注ぎになのか、奏先生が空のグラスを掴んで、別の部屋へ消えた。
僕は奏先生の言葉に、相槌の一つもしていなかった事を思い出した。
自己防衛で施した無関心という名の盾が、もうすでに問題の輪郭をぼかし始めている。
このまま自分が堕ちていくのは許せなかった。
もう一度関心を持たねば。
もう一度、次こそ、しっかり耳を傾けなければ。
そうだ、奏先生が戻ってきたら、もう一度聞こう。
もう一度——
——聞いたら、何ができるというのだろうか?
奏先生はまだ戻らない。
ドアの隙間からけーちゃんの顔がのぞいた。
あくびをしながら、眠そうな足取りで、先ほどまで奏先生が座っていた座布団の隣までヨタヨタと歩いてきて、座る。
数秒見つめ合っていると、けーちゃんが一声大きく、ミャアォと鳴いた。
叱られたような気分になった。
「……自分には何もできない、って、思ってる?」
奏先生が戻ってきていた。
ただ、その手に持っていたのはグラスではなかった。
「……何ですか、その、手に持ってるそれは」
「これは日記帳だよ」
セピア色を基調とした、紐で綴じるタイプのレトロな雰囲気を醸した分厚い日記帳を、奏先生から受け取る。
とりあえず開いてみたが、何も綴られていない。何となく嫌な予感がする。
「……僕に、書け、と……?」
諦めたように優しく微笑んで、奏先生が頷く。
「……私ね、碧ちゃんが澪君を連れてきたのって、何か理由があると思うんだ。それに、澪君はちゃんと、碧ちゃんの役に立ってる。……まぁ、役に立つって言い方も変だけど、でも、『ついて来て欲しい』って願いをちゃんと聞いてる」
座布団に座りながら、続ける。
「……碧ちゃんね、死ぬまでにどうしてもやりたい事ってのがあるんだってさ。私が聞いた限りでは四つ。ここで私の口からは言わないから、気になったら聞いてみてね。多分聞く前に教えてくれると思うけれど」
そう言いながら、けーちゃんを撫でた。
「澪君が碧ちゃんにできる事は、碧ちゃんのやりたい事をよく聞いて、一緒に取り組む事だと思う。もちろん、澪君の人生は澪君のものだから、当然拒否権もあるんだけどね。……でも、ほら」
片眉を上げて、茶化すように、奏先生は言った。
「少なくとも澪君にとって、死にたくなくなるくらいの何かが見つかるまでは、碧ちゃんに付き合って欲しいなぁ。ってのが、私の本音。……この縁、無駄にするのは、勿体無いと思わない?」
僕は手元の日記帳をめくった。
碧が本当にあと一年で死ぬとして、それまで毎日一ページ日記を書いたとしても、この一冊で収まりそうだった。
最後に日記を書いたのはいつ頃だったか。小学校の宿題以来のような気がする。
碧が生きた証、というやつなんだろう。つまり奏先生は、その証を残す役目を、僕に担わせたという事だ。
現実の輪郭が明瞭になっていく。
碧は死ぬ。遅くとも一年後に死ぬ。
原因はわからない。対策もわからない。
現状、碧が
だけど僕にはできることがある。
思い返せば、碧が一番最初に、僕に願ったことだった。
碧の幸せが何なのかはわからないけれど、その一部はきっと、奏先生が言っていた『四つのどうしてもやりたいこと』を成就させることなんだろう。
『君が、私を、幸せにしてよ』
僕は碧をよく知らない。
今日初めて会ったばかりなのだから。
知らなくて当たり前だ。
——でももう、赤の他人じゃない。
「……そうですね。……日記、つけてみます」
そのあと僕はすぐに眠った。
一抹の寂しさも感じずに、眠った。
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