第三話 まだ踏切の前

第三話 まだ踏切の前

 

 屈辱、ここに極まれり。

 なんということだ。曲がりなりにも、高校生であるこの僕が。

 僕と同じくらいの年頃の少女に、抱きあげられるなんて。

 しかも……お姫様抱っこで……っ!


「え……ちょっ……待っ……」

 少女の両手を振りほどこうと、僕は暴れかけて、やめた。

 やめざるを得なかった。

「あれ、もうちょっと反抗すると思ってたんだけど」

 キョトンとした顔で、少女は続ける。

「……もしかして君、高所恐怖症だったりする?まぁ、私の身長は百五十六センチだから、せいぜい君は百二十センチ程度しか地面と離れてないんだけど、それでも怖いとはよほどだね」

 ルンルンな様子で、少女は笑った。

「別に、僕は高いところが苦手ってわけじゃない。……ただ、一刻も早く下ろしてほしい」

「……いや、ここで私が下ろしたら、君また死のうとするでしょう。私の目を見て死なないと誓うまで、離す気はないから。」

 ……本気の目なのか、わからないな。

「……それにしても、君って意外と筋肉質なんだね。ただなんていうか、すごく、君の背中、筋肉じゃないような硬さなんだけど……、コルセットでも付けてるの?」

……あまり触れないで欲しい。

 ……不自由を、意識してしまう。

「……付けてるよ。体幹がないからね。それを付けていないと僕は猫背で固まってしまう。……そんなことはいいから、早く僕を下ろしてほしい」

 頼むから、と、僕は付け加える。

 しかし、少女は僕の切実な願いに耳を傾けることもなく、興味津々な様子で僕のコルセットを触りながら、先刻の会話を回想しているようだった。

「そういえば君、さっき『自分の足には感覚がない』みたいなことを言ってたけれど、それって本当にまったく、例えば今私が君の足をつねっていることもわからないってこと?」

 この状況下でいったい何をしてくれとんのじゃ……

 ……わからなかったけどっ!

 っていうか早く!

「そんなことはいいから!早く下ろしてってば!」

 僕は叫んだ。

 鬱陶しい好奇心のお相手なら、後で散々付き合ってあげるから。

 ……いや、やっぱ付き合わないかもしれない。

 とにもかくにも、早く下ろしてほしかった。

 ……じゃないと。

「そんなに喚かなくても聞こえてるよ。まったく。そこまで情動的に話すキャラじゃなかったじゃん。なんでそんなに早く下ろしてほしいの?恥ずかしいの?」

 違うんだ。

 ……違くないけど。

 ……本当は言語化したくなかったんだけど。わからないようなら仕方ない。……これを言うのも相当恥ずかしいけれど。

「……あんたの胸が当たってんの!腕に!この体勢だと!だから早く下ろしてくれって言ってんの!」

 だから暴れられなかったんだよ……。

 ようやく僕が喚いていた理由を知った少女は、しかし、僕の想定とは全く異なるリアクションを取る。

「……へぇ」

 ……え、何そのリアクション……。

 申し訳なかった、というか、どちらかというとこちらが被害者のはずなのに、なぜか罪悪感まで芽吹いてるんだけど……。

 ……あれ?なんで得意顔をされて……?


 ……一人で勝手に焦ってた自分がバカらしくなってきた。

 そういえばこいつ、自分のファーストキスでさえ、僕の自殺を止めるために難なく差し出したやつだった。これくらいのことでたじろぐようなやつではない。たぶん。少女の名前さえ知らない僕が、少女を語るのも変な話だけれど。

 ……なんだかもう、どうでもよくなってきた。

 とか思っていたら。少女と僕の視線が合った。

 白々しいまでに挑発的な笑みで。

 少女は、吐息を絡めて、僕に言葉を、吹きかける。

「……わ・ざ・と♡」

 語尾にハートマークが見えた。


 前言撤回。まったく何もどうでもよくない。

 今この瞬間をもって、僕はこいつに制裁を下すまで死なないことを誓う。

 人の純情(キスは済ませているけれど)を弄んだ罪は重い。

 少なくとも同レベルの恥辱は味わってもらおうではないか。

 必ずや雪辱を果たして見せよう。

「……今、仕返してやるって顔してるよ。あぁ怖い怖い」

 少女は茶化しながら、さらに自分の胸を僕の左腕に押し当てた。

 なんだこいつ、煽ってんのか?

 僕は数回瞬きをした。

――硬かった。

「あの……骨に当たって痛いんですけど――」

 言い終わらないうちに、地面に落とされた。

 僕が死なないって誓うまで、離さないんじゃなかったのか。

 高さ百二十センチ程度と言えども、下はアスファルト。しかも真夏日に暖められた熱いアスファルト。

 コルセットを付けているとはいえ。

 上半身だけしか感覚が残っていないとはいえ。

 受け身の取れない僕にとって、その落下は、骨が砕けたんじゃないかと思うほどの衝撃だった。

「痛っ……!」

 思わず呻いてしまった。

「失神するかと思った……」

「失言するからじゃない?」

「誰がうまいことを言えと⁈」

「私の胸を侮辱しといて、まずは謝罪でしょう。ごめんなさいって言えないの?凌辱するわよ?」

「ごめんなさい!犯さないで!」

「謝れてえらいね。私こそごめんなさい。ついうっかり、君を落としてしまって。女子の筋力じゃ、いくら君が軽かったとしても、長く持たなくて」

「………………あっ、そう」

 なんてやつだ。

 あんたの場合、謝ってもえらくないと思う。

 ……というか、今、凌辱って言ったよな……。年頃の女の子がどこでそんな言葉を……。

 ……年頃だからか。


 まぁとりあえず、これで晴れて自由の身に戻った。

「これで晴れて自由の身だ、とか思ってたら大間違いだよ。君が死のうとするのをやめるまで、私は君の自由を奪うから」

 ……全然自由の身じゃなかった。

「どうしてそこまで生かそうとするんだよ!」

「どうしてそこまで死のうとするのよ」

「生きていたくないからだよ!」

「苦しみたくないからだけでしょ」

 ……いやまぁ、確かにそうなんだけど。

「じゃあどうすれば、苦しまないように生きられるんだよ」

「無理だよ。生きることは苦しむことだよ」

「苦しみたくないんだよ!」

「苦しまなければいいんじゃない」

「生きることは苦しむことなんじゃなかったのかよ!」

 さてはこいつ、国語苦手だな。

「だったら、生きるのやめたら、苦しいのもやめられるよな」

「……確かに!」

 会話がダルくなったのか、投げやりに肯定される。

 ……納得しないで。

 説得してたじゃん。

「じゃあ、死んでもいいじゃん」

「それはダメ」

 ああもう。禅問答か何かか?

「じゃあ君は、僕に、苦しめって言うの?」

 そろそろ会話にも疲れてきた。

 いつまで僕たちは踏切の前にたむろしているんだろう。

 死んでもいいなら早く死にたいし。

 死んだらダメでも早く死にたい。


 困った顔をしたまま、少女は固まってしまった。

 まぁ、あんな言い方をすれば当然なのかもしれない。

 今、隙をついて走り出せば振り切れるんじゃないかとも考えたけれど、僕を線路から突き飛ばした時の少女のスピードを思い出して、諦めた。

 いつまでもアスファルトに座っていると尻に痣ができるので、これから死のうとしてる人間が痣の一つや二つを気にかけるのも珍妙な話だけど、とりあえず車いすに乗り移りながら僕は、どうしたものかと途方に暮れる。

 この線路は本数がそこまで多くないから、次、この踏切が閉じるのも、早くて二時間後とかだろう。それまでどうやってやり過ごそうか。

 できればこの少女ともお別れしたい。

 のこのこと僕について来られても、僕の自殺の邪魔をするのは火を見るよりも明らかだ。

 というかこれまで勢いで喋ってこれたけれど、同年代の女の子と話したのは、挨拶を除けば今日が初めてなんじゃないのか。

 学校じゃ人見知り全開で、いわゆるコミュ障で、異性どころか同性の友人さえいない。

 そんな僕にとって、同年代の女の子と、よりによって自殺の現場で遭遇して、死にたいとか生きて欲しいとか、そういうセンシティブが過ぎる話題で会話していたことは、奇跡と言っても差し支えないのでは。

 今更そんな、普段の自分の振る舞いを意識してしまうと、もうこれまでのようなスムーズな会話のキャッチボールも出来ないような気がしてくる。

 本当、人生の最後の最後で、僕は何をしているんだろう。


 ふいに、少女の口が開く。

「答えが、出ました」

 ……え、なんの?

 何か質問でもしたっけ……。

 ……あ、したか。

「……と、その前に」

 しわになった袖を整えながら。

 僕の目を見据えて。

「君の名前を、教えて欲しい」

「……それ、今聞く⁈」

「君って呼ぶのに疲れたから……」

 なんだそれ。

呼ぶのが名前なら疲れないのか。

「……室人むろと澪みお。です」

 しぶしぶ僕は、自分の名前を答える。

「ふーん。ならトミーだね。よろしくねトミー」

「……ん?……ちょっと待って。どうしてトミーなんだ?」

「え?だって、とみお君でしょ?」

 ……小室っていう苗字はよく聞くが、室って苗字はなくないか?少なくとも僕は聞いたことがない。

 いや、探せばあるかもしれないけれど。

 まぁ、それを言ってしまえば、室人っていう苗字も僕の親族以外で聞いたことないんだけど。

「室人が苗字で、澪が名前……なんだけど」

「あ、区切るところを間違えたのか。じゃあ澪君だね」

 ……なぜ僕は今更自己紹介なんてしているのだろう。

「澪君が名前を教えてくれたから、私も名前を教えなきゃね」

 そう前置きして、少女は己の名前を、ようやく告げた。

「私はね、夢咲碧っていうの。夢咲が苗字で、碧が名前。珍しいよね、夢咲って苗字。なんか前に調べたらね、日本に十人くらいしかいないんだって。まぁ、珍しさで言えば、君の苗字もなかなかだと思うけど」

 ふふっ……と笑って、碧は続ける。

「それでね、澪君」

 ……女子から下の名前を呼ばれることに、どれだけ慣れていないんだと、少し早くなった鼓動を実感して恥ずかしくなりながら、僕は次の言葉を身構える。

 しかしその次に繋げられた言葉は、そんな初々しい青春のかけらを吹き飛ばすかのような、衝撃的な言葉だった。


「一年間だけでいい。私の為に、苦しんで欲しい」

 

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