第九話 驟雨

第九話 驟雨

 

 ………………ん?

 ………………なんて?

「……え」

 どこから出たのかわからない間抜けな声がこぼれた。

「うん……。いや、数日泊めるってことじゃなくて――」

 そう、僕が数日、碧のおうちに泊めてもらうことじゃなくって。

「――住んでもらうの。シェアハウス的な」

 うん、それ。

 ……僕、そっち住むの?

 僕の度肝を何回抜くつもりなんだ。

「……え?……とりあえず会うのが先?えぇぇ……めんどくさいなぁ」

 何がめんどくさいんだ。

 何をどう考えても碧の母親の方が大変だろ……。

「うん。わかったわかった。……じゃあ九時までには帰るから。……うん。……はーい」

 これを最後に、通話が終わる。

 よっこいせ、と立ち上がる碧へ、僕はまず確認する。

「え…………っと、夢咲さん。……聞いてないんだけど」

「そりゃ、今初めて言ったからね」

 当然。というような顔で、碧は答えやがった。

「……数日泊まるだけじゃダメなの?」

「うーん…………」

 しぶしぶといった顔で、碧は続ける。

「だってほら、澪君、一人で住んでるじゃん」

 ……それは答えになっているのか。

「一人で暮らしてるけど……関係なくない?」

「……寂しいかなって思って。だって今、澪君、夏休みでしょ?」

 …………そうだった。

 どう死ぬかで脳のリソースを割いていてすっかり頭から抜け落ちていたけれど、確かに僕は、現在、高校一年生の夏休みを過ごしていた。

 顧みれば、わざわざ今日実行に移ろうと動けたのも、僕が夏休みに入ったからだった。

 夏休みに入って。

 一人になれたからだった。

「いや、でも……」

 だとしても。死ななかったとしても、生き延びてしまったとしても、生かされてしまうとしても。

 碧の家に客として泊まることが、百歩譲って許されたとしても。

 碧の家に同居人として住むことは、許されるのだろうか。

 というか、許す許さないの範疇を超えている。

 いくら何でも突飛すぎる。

 僕の自殺を止めようと、僕の唇を奪おうと、僕をお姫様抱っこで抱えようと、僕に性的な悪戯を働こうと、僕を引きずり回そうと、僕の部屋に入ろうと、それは僕と碧の二人の間の出来事で、僕が笑っていれば済む話なのだ。

 だけど、今回の碧の思い付きは、僕と碧で完結しない。できない。

 最初からそうだったけど……。

 碧って。

 あんまり、周りの人のこと、考えないのか?

 ……僕が言えたことじゃないし。

 僕に言う資格もないのだけれど。

 でも。

「……でも、僕たち、今日出会ったばっかだよ。……いくらなんでも、急すぎない?」

 幼馴染でも、親友でも、ましてや恋人でもない。

 距離の詰め方が、バグっている。

 それになにより、高校生だぞ。

 あまりにも……自分の都合でものを考え過ぎじゃないか?


 なんてことは言えないので、

「……それに、夏休み終わったら、学校が、再開するし」

 と言い換える。

「へぇ。……やっぱり澪君って、まじめだよね。死にたかったのに、澪君の言葉を借りれば今も死にたいのに、学校にはちゃんと登校する姿勢があるんだ」

 ……なんだその言い方。

 すごく、嫌な言い方だな。

「別にいいじゃん、休んじゃえば。それとも学校、楽しいの?私にはそんな風に見えないけれど」

「……楽しくないよ。友達がいるわけでもないし。ただ」

 無性に悔しかった。

 なんでもいいから言い返してやりたかった。

 お前に僕の何がわかるんだよ。

 恵まれてるくせに。

「他に、することも行くとこもないんだよ!」

 ストレスだけど。楽しくないけれど。仕方ねぇじゃん。

 碧の目が、変わった。

「……どうせ」

 これまでで一番冷たい声だった。

 自分の耳が動くのを生まれて初めて感じた。

 …………………………………………言うな。

「登校してるって既成事実で、社会とつながれているとでも、思ってるんでしょ」




 …………あ、無理だ。




「……トイレ行ってくる」

 僕はそれだけ言い残して、部屋を後にした。 

 碧は何も言わなかった。

 僕の顔を見て、一瞬刮目していた気がしたけれど、もう何でもよかった。

 碧の視界から僕が消えたであろうとこまで行ってから、念のため後ろを振り返った。

 さすがに碧はついてこなかった。

 だから、ゆっくり。

 なるべく音を立てずに。


 玄関の扉を、閉めた。


 ちょうど小雨が降りだしたころだったようで。

 乾いたアスファルトに、黒い染みが無造作に散らばって。

 その染みは、だんだんと大きくなって。

 気が付くと、本降りになっていた。

 自分の白い前髪が、雨に濡れて束になって、額に張り付いて気持ち悪かった。

 濡れたタイヤのハンドルが砂を絡めるもんだから、僕の両手はたちまち黒ずんだ。

 どこに着いてもいいから。

 ただひたすらに、がむしゃらに、走った。

 肩が上がらなくなって。

 息が荒くなって。

 排水溝に前輪がはまって、そのまま進むのをやめた。

 明滅を繰り返す錆びついた街灯が、育ち過ぎた雨粒を不規則に映して。

 その雨粒は僕の瞼で弾けて、視界が濁って。

 濡れすぎて少し痒くなった頭皮を、漕ぎ過ぎてマメができかけている右手の人差し指でかきむしって。


 息切れで喉が渇いて痛いまであったから。

 雨をなめたら、しょっぱかった。


 震える唇で、口角を上げることに、本気を出した。

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