第一話 踏切の前で

第一話 踏切の前で

 

 不思議なことが起きた。

 奇妙、と言い換えた方がいいかもしれない。


 死ねる直前まで、僕は目を瞑っていた。金切り声のような線路とタイヤの摩擦音で、鼓膜が震えるのを感じながら、虚無に小さじ一杯程度の清々しさを足したような気持ちを味わっていた。

 すると突然、電車のブレーキ音と踏切の警報音の隙間から、消えたはずの足音が戻ってきた。

 それに驚いて、僕は目を開けてしまった。

 視界に入ってきたのは、いまにも僕を轢き殺さんと迫りくる鉄の塊と、その十メートルほど先を必死の形相で走る赤髪の人間。

 公園から走ってきたその人は、間に合わないはずのその人は、僕と同じ年ごろの女の子に見えた。

 その赤髪を光らせながら、およそ人間の限界を超えるような速度で走ってきた少女は、僕の車いすの手前で少しだけ減速し、僕の背中側を車いすごと押した。

 運動エネルギーを加えられた車いすのタイヤは勢いよく回り始め、線路の凹凸を乱暴に抜け出し、反対側の遮断機まで猪突猛進し、そして勢いよくぶつかった。

 慣性で後ろにのけぞった僕の体は、遮断機にぶつかって今度は前に倒れる。

 ちょうど感覚の境界線に遮断機が食い込んで、痛いような痛くないような中途半端な感覚と、瞬間的な吐き気を味わいながら、僕は首から上だけを振り返らせた。

 何事もなかった電車が無意味になったブレーキをかけ続けながら、僕の後ろを通り過ぎていく。最後尾車両が通り過ぎると、僕の自殺を止めた赤髪の少女が、肩を上下に震わせて立っているのが見えた。


 ……あれは僕の見間違いだったのだろうか。僕を線路から押し出す直前の彼女が、正確には少女の赤い髪の毛が、発光していたように見えた気がしたのだが……。今確認すると、ただの長い赤髪だ。死ぬ直前で脳がバグでも起こしたのだろうか。


 自殺を阻止されたことに苛立ちを覚えるのも忘れてそんなことを考えていると、遮断機が開いた。やがて警報音も鳴り止んで、遠くの方でようやく停止に成功した車両の音が聞こえた。


 しばらく静寂に包まれる。

 何も言わずにここを去るのはさすがに無礼が過ぎるよなぁと、僕は少しだけ思慮にふけって、膝に手をついて息を整えている少女に声をかけようと体の向きを変えた時、僕よりも先に、少女の口が開いた。

「……死にたかったの?」


 ……驚いた。てっきり僕は、軽蔑した顔で「バカなの?」とでも聞かれるのかと思っていた。或いは「なんでこんなことをしたの?」とか。違うテイストなら「大丈夫?」とか。

 助けてくれてありがとう、と言う準備までしていた。

 笑顔を作るために、表情筋を動かす準備もしていた。

 想定外だった。何をどう言うかを考える回路をすっ飛ばして、条件反射的に、

「……うん」

 と返してしまった。

「へぇ。……どうして?」

 息を整えている顔を崩さず、少女は二回目の質問を投げかけてきた。

 その問いは想定内だった。喉を昇る胃酸を飲み込んで、僕は答える。

「……生きていると、幸せなことよりも、苦しいことの方が、圧倒的に多いんだ。それに疲れたからだよ」


 僕の独白を聞いた少女は、ふっと優しく微笑んで。

 僕の方へ近づいて。

 小さくて青白い、細い右手で――

 ――僕の視界を隠して。

 そして。


 僕のファーストキスを、奪った。




 たぶん三秒くらいだったと思う。

 視界は少女の右手によって。

 唇は少女の唇によって。

 塞がれていた。


 双方が解放された時にはすでに脳がホワイトアウトしていた。動くことが出来なかった。

 もちろん頭も働かなかった。

 そのまま少女は僕の後ろへ二、三歩歩いて、互いに背中を向けて、互いに顔が見えない立ち位置で止まった。

 しばらく経って、やっと理性が戻ってきそうになった絶妙なタイミングで、少女は僕へ呟いた。

 というより、囁いた。

「……幸せなこと、増えたね」

「………………むしろさっきより、今のほうが死にたいくらいだよ」

 してやられた気分だ。言葉の選び方といい、タイミングといい、手練れ感が半端じゃない。

 なんだこいつ。会話に少しだけでも期待してしまった僕が、恥ずかしくて仕方がない。

 恥ずかしすぎて死にそうだ。死因がそれなのは恥ずかしいからお断りだが。

「んなっ……!」

 少女はあからさまに嫌な顔をした。

 そんな顔をされても。

「お……、女の子が身を挺して、傷心に苛まれてこの世に絶望している男の子に、勇気を出して唇を献上したのに……っ」

 ……めんどくさっ!

「……なんてね。私そんなめんどくさいキャラじゃないから。安心して。まぁ、傷ついたのは本当だけど。私も初めてだったし」

 と言って、少女は首をかしげて、眉間のしわを消した。

 心なしか赤面しているようにも見えた。

 そんな大切なもん、どうして僕なんかに消費したんだ。

「そんな大切なもん、どうして僕なんかに消費したんだ」

 ……声に出てしまった。

「……………………それしか」

 少女の視線が、僕の目から外れる。

「………………思いつかなかったから」

 ………。

「………君をとどめる方法が」

 っ……………。


 視線だけ横にずらしたまま黙ってしまった少女に、僕は今更緊張して、話しかけた。

「……ありがとう。……幸せなこと、増やしてくれて」

 自分で言っといてなんだけど。なんだこれ。恥ず。

「……おかげで、幸せな気持ちで、死ぬことが出来そうだよ」

 とぼけたように言ってみた。

 十割本音。


 彼女もまた、他人でしかない。唇を重ねたからといって、彼女が自分事になることはない。

 ずっと世界は生きにくいままだし。

 ずっと僕は世界に認められないままだし。

 ずっと僕は僕に赦されないままなのだ。


 だから逃げようとしているんだ。


 たとえ彼女が、己の人生と自由を犠牲にして、まぁありがちな例として、「君の恋人になって君を幸せにするから」なんてことを言ったとしても。

 それは僕の代わりに、彼女が己の幸せを諦めるようになるだけなのだ。

 それくらいならさっさと消えて、僕のことなんて記憶の彼方に捨ててしまって、彼女は彼女の幸せを追いかければいい。


 少女はもう、大袈裟な身振りで演じることはなかった。

 ただ、再び視線を僕の目に移して、僕の心を見据えるように、じっと見つめていた。

 そしてたどたどしく、時々視線を下に落としながら、少女は言葉を、紡ぎ始める。

「……君が、どんな人生を、歩んできて、今日の結論に至ったのか、私には、わからない」

「……そりゃあね」

「……けど、自殺は、して欲しくない」

「……それは君のわがままだよ。……会って三十分も経っていない女の子のわがままを、僕が聞く義理はないな」

 ……少し冷たく言い過ぎただろうか。

「でも、このまま頑張って生きて、なんて言えないし、私が君を幸せにしてあげる、なんてことも、言えない」

「……僕はてっきり、その路線で引き留められるかと思っていたよ」

「……だから」

 そう前置きして、少女はこちらに向き直った。

 意を決したような顔で。

 覚悟を決めたような顔で。

 一つ深く、息を吸って。

 少女は、言った。


「君が、私を、幸せにしてよ」

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