第十三話 楓町へ

第十三話 楓町へ

 

 駅に着いたとたん抱きつかれた。

 体の節々が痛むほどに。

 本当に女性はわからない。あれだけ冷たい目をして、正論で人を傷つけておいて、そして僕に置いていかれたのに。

 それでも僕は照れてしまう。年の近い女性に抱きしめられるなんて、僕じゃなくても、高校生の男子諸君なら誰だって照れるもんだと思うけど。

 しかも大衆の面前だし。

 しかし、存外気分が悪いわけでもない、むしろうれしいまであるので、今僕を抱きしめている女の子、つまり、碧の気のすむまで、このままじっとしておくことにしよう。


 当初の予定、というか、僕の脳内シミュレーションでは、

「あ、来たんだ」

「……うん」

「来たってことは、一緒に付いてきてくれるんだね」

「……うん」

「…………澪君、『うん』しか喋れなかったっけ」

「いや、その……。僕を、た、助けてくれて、あと、連れて行ってくれて、ありがとう」

 くらいの再会だったんだけど。

 そんな流れで、ありがとうって言おうと思ってたんだけど。

 間違いなく、タイミングは今ではない。

 別に、熱い抱擁に対しての感謝ではないし。

 ……いや、まぁ、嬉しいけど。


 碧は、思いのほか、手をほどくのが早かった。

 物足りな……くはない。断じてない。


 碧は、肩から落ちかけていた自分のバッグをかけ直しながら、駅の構内で傘を下敷きに倒れている僕のキャリーケースの方を向いて、

「急ぐよ!」

と走っていった。

 僕も、すぐさま追いかける。

 追いかけながら、口を開く。

「夢咲さん、切符買うから先に行ってて!」

「もう買った!」

「え、仕事できる人じゃん!」

「あと、駅員さんにも、澪君が電車に乗ること伝えといたから!はいこれ切符!」

 改札を通りながら、奥の待合室の掛け時計を見ると、ちょうど長針が6を指示したところだった。

 どうやら間に合いそうだ。走った甲斐があった。


皮が薄く剥けてヒリヒリと痛む親指の付け根を、人差し指で強く押しながら、ほっと胸をなでおろす。

 さっき渡された切符を口にくわえて、四番乗り場に向かうエレベーターのボタンを押す。

 半透明なガラスの壁で外が見えるようになっているエレベーターに乗る。

ちょうど扉が閉まる数瞬前に、スロープを持って階段を上っている駅員が見えた。


 僕と碧の少し粗くなった息が、エレベーター内の密室で僅かに響く。

 タイヤに巻き上げられた雨で、袖だけぐっしょりと濡れた僕を抱きしめた時にできたであろう、碧が着ている白いシャツの脇腹の染みに、少しニヤけてしまった。

 一面だけ薄く汚れているキャリーケースと、先端が少しだけ曲がってしまった傘と。

 それを持ってたたずんでいる碧。

 今日の昼に初めて会ったとは思えないほど、まるで十何年一緒に暮らしてきた家族に対するような安心感が、体の奥から広がる。

 まぁ、家族に対する安心感、なんて、知らないんだけど。

 しかし、エレベーターに乗っている僅か十数秒ほどのワンシーンで、確かに僕はどことなく、これからの未来のことを曖昧に思い描く程度には、心地よかったことは否めない。


 すでに僕たちの乗る電車は、ホームに到着していた。

 思いのほか、外から見る限りでは、乗客は多いようだ。

 そりゃあ、終電だもんな。十八時台の。

 先頭車両の運転席側の扉の前で、駅員がスロープをたずさえてこちらに手を振っていた。

 何も僕が電車に乗るのは、これが初めてではない。というか、半年ほど前までは飽きるほどに乗っていた。だから、大きくて重たい荷物を碧に預けて、貴重品しか所持していない今の身軽な僕が、ひょいっと軽く車いすの前輪をウィリーさせてスロープを上るなどわけなかった。

 ……のだが、その様子に碧どころか、駅員の方も驚いていた。

 その感心したような表情に、いちいち嬉しく思ってしまう僕が、僕は嫌いだ。

 めんどくせぇな……と心の中で呟きながら浅い溜息をつくのが、こういうシチュエーションでの僕の理想像なのだから。


 スロープを駅員が畳んだ後、碧がキャリーケースを持ち上げながら乗車した。

 どうせなら一緒にスロープで転がして乗ったほうが楽だっただろうに、とか思いながら、去っていく駅員に軽く会釈をする。

 車両内は縦座席で、残念ながら車いす用のスペースは見当たらない。

 運が良ければ、車両によっては、車いすを止められるスペースが設けられているのだけれど、今回は外れたようだ。

 誰が使っているかわからない、というか誰かが使っているのを見たことがない、運転室の扉の前に設置されている、塗装の剥げた精算機の隣に、しぶしぶ車いすを固定する。

 さすがにずっと碧に荷物を預けとくのは憚られるので、埋まりつつある座席のどこに腰を下ろそうかときょろきょろしながら探している碧に、声をかけた。

「……荷物、持つよ」

「……そこに置いてたら、邪魔になりそうだから、上の棚に乗せるよ」

「……持ち上げられるの?」

「……さすがに、澪君よりは軽いんじゃない?」

 …………そうだったわ……。

 持ち上げられたわ……僕……。

「……確かに」

 …………。

 会話、終了。

 どうしよう。

「私、向こうに空いてる席見つけたから、そこに座ってくるね」

 あ……。

 行ってしまう……。

「あ……あのさっ」

「……なぁに?」

 咄嗟に呼び止めてしまったけど、言葉が全然出てこない。

 頭の中でつながらない。

 何かないか。何か。

「…………碧が持ってる暇つぶしゲーム、出来なさそうだね」

「……そう、だね?」

 必死にひねり出した言葉がそれか。

 そりゃ不思議な顔もされるわ。

 何を口走っているんだ。言いたいことは、そんなことじゃないだろ。

「もしかして、遊びたかったの?」

 ほらぁ。誤解ぃ。

「だったら私、隣で立ってようか?人生ゲームとかはさすがに出来ないけれど、トランプくらいなら遊べるんじゃない?」

 変な気まで遣われ始めたよ。遊びたかったって。僕は五歳児か。

「いや、座っていいんだ。その、遊びたいわけじゃなくって」

「……?」

「その……連れ出してくれて。……ありが」


「十八時四十二分発、楓行き普通列車が発車します。閉まるドアにご注意下さい」

 プシューッ。


「……え、今、澪君なんて言ったのぉぉあ⁈」

 慣性で転がっていったキャリーケースに引っ張られて、後ろにのけぞって倒れそうになった碧の手を、気が付いたら、僕は握っていた。

「……あ、ありがとう」

「……こちらこそ、連れ出してくれて、ありがとう」


 ……ふぅ。やっと言えた。

 これからどうなるか、何もわからないし、どうしていくのか、何も考えていない。

 けど、きっと、死ぬよりは、マシかもしれない。

 マシじゃなければ。その時こそ、死ねばいい。


 体勢を整えた碧の手を離して、少し軽くなった肩を堪能する。

 目の前の碧が、嬉しそうな顔で、

「……やっぱり、私、向こうの席に座るよ。立ってたら転びそうだから」

 と言った。

 そして、一度も振り向くことなく、人をかき分けて、ここからは見えない向こうの席へ向かっていった。

「今から、二時間か……」

 乗り口の上に掲載された路線図の、枳駅と楓駅の間に列をなす、二十ほどある駅名をぼんやりと見上げていると、次第に瞼が重たくなって、そのうち僕は、瞼を閉じた。

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