青楓祭祀 編

第十九話 悪くは、ないかな

第十九話 悪くは、ないかな

 

 七月二十三日。土曜日。

 僕は猫に踏まれて目が覚めた。

 その黒猫は、一度もこちらを振り向く事もなく、軽快な足取りで部屋を横切って廊下へ消えた。

 ゆったりと上半身を起こすと、白く湿った夏の風が網戸をくぐり、僕の爆発した寝癖を梳かしていく。

 椿の花の絵が丁寧に拵えられた薄生地の掛け布団を、足側へ畳むようにめくる。朝日に暖められた縁側が向日葵色に光って、僕の瞳孔を狭くした。

 山際の白さが微かに残る空には、雲の一片も見つけられない。呆れるほどの快晴だった。

 

 しばらく僕は、その空を眺めていた。

 いつぶりだろうか。早朝の空を拝むのは。

 ついこの前まで、カーテンを閉め切った部屋で、三分おきにセットしたスマホのアラームに起こされて、渋々高校へ通っていた。

 空を仰ぐかわりに地面の石を弾いた。

 雨の日は舌打ちをした。

 休日は起きるのが昼過ぎだった。

 そんな僕が今、朝六時半に起きて、その青に見惚れている。

 

 朝がこんなに気持ちのいいものだということを心の底から味わっていると、隣室の引き戸がガタガタと音を立てて開かれた。

「やぁ、おはよう澪君。……早起きだねぇ」

「……おはようございます」

 瞬き二回程の数瞬、この人は誰だ?と首を傾げる。

 僕の名前を呼んで挨拶をしてきた女性が、小さく欠伸をした。途端、移る。

 生暖かい温度と珈琲の深い香りが鼻腔へ流れ、脳の血の廻りを促した。

 ……あぁ、そうか。そうだった。

 此処は楓町。

 夢咲碧の住む町で。

 僕は、彼女の願いを叶えるために、此処にいるのだ。

 そして、寝惚け眼を擦りながら「君は朝、食べる人?」と珈琲を啜る、高身長でモデル体型で、肩甲骨あたりまで伸びた赤い長髪を靡かせるこの女性が、考え無しにこの町に来て途方に暮れそうになった僕を助けてくれた、御縁奏先生だった。


 ささやかな朝食をご馳走になった後、さてこれからどう動こうかと今日一日の計画を考えていると、玄関の戸が開かれる音が聞こえた。

「やっほー。お邪魔するねー」

 碧の声だった。

 予想よりもだいぶ早かったが……来るとは思っていた。というより、来てもらわないとこちらが困る。結局、具体的に碧に対して何をすればいいのかを、僕は何も知らないのだから。

 碧の声を聞いてか、僕のすぐ傍をけーちゃんが走り抜けて玄関の方へと駆ける。シュタタタタという足音が消えると、「うおぉおぉ!元気だったかぁ!」という声が響いた。

 ……碧の声じゃない。……誰だ?

 気になって見やると、碧の隣にもう一人いた。けーちゃんをわしゃわしゃと撫でるその人と、目が合う。

「……やぁ。もしかして、君が——」

 僕に気付いた碧が、弾けるような明るい声で、割り込む。

「あ、おはよう澪君!……ふはっ、寝癖すごいよ!」

「……おはよう、夢咲さん。……その、隣の人は?」

「ん、この子はうなぎ。私の親友だよ」

 紹介されたその人は、見た目は碧と同年代ほどに見えた。しかし性別まではわからない。

 うなぎはけーちゃんの腹を丹念に嗅いだ後、僕を見据えて口を開いた。

「……うん。そうだ。私はうなぎ。初めまして、死にたがり君」

 ……なんとなめらかな煽りなんだろう。

「っこらぁ!来る時言わないって約束したじゃん、もう!」

 あからさまに慌てる碧の隣で、うなぎは白々しい顔で続けた。

「いやごめんって。僕、『初めましてはグーパン』って決めてるんだよね」

「聞いたことないよ⁈」

「そりゃ、言ったことないし」

「失礼にも程があるでしょ……」

「わかったよ碧……今度から前もって言うから……」

「私に言ってなかった事じゃなくて、澪君に言ったことを反省してよ……。澪君、ショックでホントに死んじゃうかもしれないのに……」

 碧はそう言って、チラリと僕に視線を向ける。

 ……僕、一体どんな風に捉えられたんだ。

「ごめんね、澪君。うなぎが失礼なこと言って」

「……うん、死にたくなった」

「澪君までそんなこと言う!」

「アッハッハ!やるじゃん、死にたがり君!そうこなくっちゃ!」

 何が気に入ったのか、うなぎは大口を開けて笑い出した。

「……これ私がおかしいのかなぁ」

 困惑と呆れが混じったような顔で碧が訝る。

 ……なるほど。これからこんな感じで日常を送るのか。

 

 死にたがり君、と呼ばれたことに、さして怒りは湧かなかったし、傷付くこともなかった。だって本当なんだから。死にたがっていたんだから。そして多分、これからも些細なきっかけさえあれば、再発すると思うから。

 いくら環境が変わろうと、変えられようと、人の根っこはそう簡単には変わらない。変わるとしたって、きっとそれは、とても時間のかかることだと思う。

 ……まぁ、だけど。

 正直、楽しい。

 僕の死にたい理由は一言でまとめられるほど単純なものじゃないはずなのに、もしかしたら僕は、寂しかったから死にたかっただけなのかもしれない、とか思ってしまう。

 昨日からずっと、ブレまくっている。

 碧に出会ってからずっと、脳が忙しくて仕方ない。

 こんな調子で振り回されるのか。

 

 ……悪くは、ないかな。

 

「おー、久しぶりだね、うなぎ」

 家のどこかに消えていた奏先生が戻ってきた。

「ま、とりあえず上がりなさいな。ほら、碧ちゃんも。君達、澪君に用事あって来たんでしょ?」

 そう言われて、客間へと行進する二人と一匹。

「ほら、君も行くんだよ」

 奏先生に急かされて、僕も彼女らの後をついていく。

 ローテーブルを囲んでそれぞれが座って、碧が「コホン」と咳払いをした。

 隣に座るうなぎは、座布団の上で微睡むけーちゃんと戯れている。

「さて、澪君。……私には、死ぬまでにどうしてもやりたい事が、全部で九つあります。……君にはそれを、叶える手伝いをして欲しい」

 どうにも、言葉に重量を感じてしまう。思わずかしこまってしまった。

「……はい。わかりました」

「なんで固くなってるの。……じゃあ、君にそのリストを渡しとくから、よく目を通しておいてね」

 碧はそう言うと、そばのリュックから一枚のファイルを取り出して、僕へ渡した。

「……これ、今読んでも?」

「どうぞ」

 僕はそのファイルからノートの切れ端を一枚取り出して、箇条書きされた手書きのリストを読む。

 

【やりたいことリスト!】

 ・花火を作りたい

 ・サバイバルキャンプをしたい

 ・私のバースデーパーティーを開きたい

 ・劇の主役を演じたい

 ・サンタクロースになりたい

 ・振袖とドレスを着たい

 ・スイーツバイキングを開きたい

 ・海外旅行に行きたい

 ・楓町全体を使って思いっきり遊びたい

 

「……どう?」

 リストを読み終えて顔を上げると、顎をしゃくり上げてドヤ顔した碧の微笑が目に入った。

 ……えーっと。

「……いいんじゃ、ないかな」

 ついでに言えば、僕はどれもやりたくない。

 僕はあまり乗り気な表情をしていないはずだけど、碧はお構いなしに、その絶妙にムカつく顔で話を続けた。

「んでさ、早速なんだけどね」

 碧の言葉と同時に僕は、ノートの切れ端の他にもう一つ、折り畳まれたポスターをファイルから見つける。

 広げたそれは、花火の写真を背景にした夏祭りのポスターだった。中央に『青楓祭祀』と書かれている。

「割と有名だから聞いたことあるかもしれないけれど、楓町はお盆前の五日間とその次の週の週末に大きな祭りがあってね。前半はご先祖様をお迎えする、まぁお盆みたいな祭礼で、後半は屋台が並んだりちょっとしたコンテストがあったりする今時のお祭りなんだ。そしてその最終日の一番最後のイベントが、花火大会なんだよ」

 碧は、ポスターを指でなぞりながら、丁寧に教えてくれた。

 確かに僕は、この祭りを知っている。無論、参加した事は記憶上一度も無いけれど、同じ県内に住んでいれば耳にしないで暮らす方が難しいと思う。

 僕はもう一度、ノートの切れ端を見た。……うん、やっぱり。

「……つまり、夢咲さんは今回の祭りで、花火を作りたい、ってことだよね」

「さすが、話が早くて助かるよ。そう。私は花火を、作りたい」

 屈託のない笑顔で、碧が頷いた。

「……だけど、どうやって?」

 僕はこれまで、花火の仕組みなんて考えたこともなかった。というかそもそも、祭りに興味が無かった。……いや、というより、そういった、人が沢山集まる類の行事を、自分から避けていた。

 花火の作り方なんて、皆目見当もつかない——

「さぁ?」

 ——そしてそれは、碧も同じだったようだ。

 僕ならここで終わる。わからないなら、諦める。

 しかし、碧は違った。

「だから、それを調べるところから、私は澪君に手伝って欲しいんだよ」

 にぃ、っと無邪気にはにかんだ碧の隣で、けーちゃんとの戯れを終えたうなぎが、頬杖をついて僕達を眺めていた。

 

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紅葉色の君へ @miu_asakage

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