第十八話 ノンフィクション
第十八話 ノンフィクション
私が二〇六号室のチャイムを鳴らした時には、午後九時三十分を過ぎていた。
まぁ……案の定、こっぴどく叱られた。
だけど事情が事情なだけに、外出禁止令が出るまでには至らなかった。ちょっとだけ懸念していたから、「明日からしばらくは外に出たらダメ!」って言葉を聞くこともなく自分の部屋のドアを閉めた時は、溜息と一緒に肩の力が抜けた。
ふぅ……。良かった。これで。
明日も澪君を、連れ回せる。
少し休むため、私はベッドの淵に浅く腰掛けた。
今日一日を、振り返る。
何気なく見ていた、枕のすぐそばの目覚まし時計の秒針が、止まっているように見えた。十年以上前に、誰かから誕生日プレゼントとして貰ったものだ。そろそろ電池切れかな、と頭をよぎった瞬間に動き出した。正確なリズムで時を刻んでいる。
二周するまで眺めていたら、なんだか急に得体の知れない不安が心の奥底から押しあがってきて、怖くなった。
もう百二十秒経ってしまった。何もしていないうちに経ってしまった。今こうやって考えている間にも、容赦なく時間は進む。あっという間に、呆気なく、過ぎ去っていく。
私が死ぬのももうすぐそこだ。
そんな感覚に襲われる。
怖い。怖い。知らない。わからない。
とりあえず、目を瞑った。
犬のぬいぐるみを、抱きしめた。綿が圧迫されて硬くなる感触に、できるだけ意識を集中させた。
仕切り直そう。
今日も一日、色んなことがあった。
今日は特に、色んなことがあった。
そこは小さなクリニックだったけど、定休日で誰にも会えなかった。
途端に暇になっちゃって、でもすぐに帰るのも勿体なくって、観光することにした。
駅前のショッピングモールに行ってみたけれど、人が多過ぎて長居したくなかった。私と同年代くらいのグループがお洒落な格好で買い物してるのを見て、ちょっとだけ羨ましかった。
なんだか疎外感を感じてしまって、こんな気分のままじゃ良くないなって思って、散歩してたら公園を見つけて。
そこでひと息ついてたら……澪君を見つけたんだっけ。
それから……——
一つ一つ丁寧に、思い出せる事をできるだけたくさん、振り返った。
勢いに任せて大胆な事をしてしまったのも、人生初めて車椅子を押したのも、思い出した。
メープルわらび餅、美味しかったな。
なんか色々と、おかしな店だったけれど。
思い出していくうちに、気分が落ち着いてくるのを感じた。
わざと音を立てて、深い息を吸って、ゆっくり吐いた。
……よし。大丈夫。
ベッドの上に戻したぬいぐるみが、腕の形に凹んだ部分を、ゆっくりと復元していく。
私は立ち上がって、カーテンを閉めた。
蚊取り線香を焚いて、扇風機のスイッチを押した。
それから、リビングへ向かった。
ソファーに座ってドラマを観ていたお母さんが私を見つけて、
「碧〜、今夜はご飯、食べれそう?」
と聞いてきたので、
「うん、今日はかなり忙しかったから、食べれる。でもその前に、シャワー浴びてくるね」
と言って、パジャマを片手に、浴室へ向かった。
髪の毛を乾かしてリビングへ戻ってくると、程よく冷めたお粥と目玉焼き、サラダ、ヨーグルトが食卓に並べられていた。朝ご飯のようなメニューだけど、普段朝ご飯を食べない私にとっては立派な夕食だった。
今日撮った写真をスクロールしていると、
「スマホしながらご飯食べない〜」
と、お母さんから注意された。
仕方ない、後でにしよう。
「……姉ちゃん、今日はご飯食べれるんだね」
パソコンとずっと向き合っていた弟の
「心配かけてごめんね。……悠は今日一日、何してたの?」
「……ゲーム」
「……を?」
「……作ってた」
「さっすがぁ!」
いつものやりとりをそつなくこなす。
まだ小学校も卒業していないというのに、本当に、可能性の塊である。私の自慢の弟は、満足げに笑うと、ヘッドホンをはめ直して制作に戻った。
完食できると思っていた夕食は、半分ほど残してしまった。それでも食べた方だった。
寝室からお父さんが出てきたから、残りを食べてもらって、後片付けをしてから部屋に戻った。
あとは寝るだけ……なんだけど、その前に。
ベッドにダイブして、スマホを立て掛ける。
私はラインを開いて、ビデオ通話ボタンを押した。
十秒ほどコール音が流れて、スマホの画面が変わる。
「……こちとら今、ユーチューブ観てたんだけど、何の用じゃい?」
私の唯一無二の大親友が、いかにも水をさされたといった顔で、スクリーン越しに私を睨んだ。
「……いや、元気かな〜って」
「オカンか。ってか、昨日会ったばっかでしょうが。僕は忙しいんだよ。いくら碧の人生が残り僅かだとしても、僕は僕のペースであんたと関わりたいね」
「まぁ、そう言わずにさ、うなぎ。今日、面白い人と会ったんだよ。……うなぎがどうしてもユーチューブ見たいって言うなら、また今度にするけど?」
「へぇぇ。今僕、バカデカスケールな陰謀論の動画観てたんだけど、それより面白いなら、聞こうじゃないか?」
「……私は時々うなぎが心配になるよ。……一応、比較対象として聞いておこうか。どんな陰謀論?」
「滅んだ古代文明の生き残りが、この世界を裏で操ってるフィクション」
思わず吹き出してしまった。
「フィクション……って……っ」
「そりゃそうでしょ。ま、碧の方がよほどフィクションっぽいけどな。ホント、『事実は小説より奇なり』とはよく言ったもんだよ」
私はうなぎのこういうところが好きだ。
「……で、どうなの、このフィクションと比べて、碧のノンフィクションの方が面白いの?」
「いやぁ、負けるかも。でもまぁ、聞いてよ」
「しょうがないなぁ」
私は今日のことを、そして澪君のことを、うなぎに話した。
なんだかんだ言いながら、うなぎは最後まで話を聞いてくれた。
「……で、君はその、死にたがりを、この町に連れてきたってわけか。今夜は御縁先生のとこに泊まる、と。……そういえばけーちゃん、元気かなぁ」
「さぁ、元気なんじゃない?……私、明日かなちゃんとこ行くけど、うなぎも行く?」
「んー、まぁ、予定もないし、いいよ」
「オッケー、じゃあ、私そろそろ眠いし、また明日ね」
「あい」
「うなぎもちゃんと寝るんだよ。夜更かしは少女のお肌の大敵だよ」
「だから、オカンか」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
通話を終え、私は電気を常夜灯に変えて、ベッドに寝転んだ。
明日は晴れるらしい。日傘を忘れないようにしよう。
シャンプーの仄かな甘い香りと蚊取り線香の煙が混ざって、流離う。
寝入るまで、そう時間はかからなかった。
「室人、澪くん、ねぇ」
僕は天井を見上げた。動画の再生時間は二時間を超えていた。
「碧が男の子を連れてくるなんて……。……それも、車椅子に乗った子を」
昔を思い出しそうになって、それ以上考えるのをやめた。
「ま、これまでよりは、退屈せずに済みそうだ」
そうして僕は、いつものように、カッターを取り出して、手首を切った。
紅い鮮血が滴り落ちて、やがて止まる。
今日もまた、ダメだった。
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