第十六話 御縁宅にて

第十六話 御縁宅にて

 

 猫の匂いがした。

 僕は今、玄関マットの上に座っているが、目を凝らせば確かに、獣の抜け毛が見える。

 目の前の廊下の折れた先で、奏先生が、

「圭、けーちゃん、ただいまぁ」

 と、お手本のような猫撫で声を発すると、それに返事をするかのように、けーちゃんの鳴き声が響いた。

 二回りほど実像よりも大きな影が、廊下の突き当たりのザラザラした壁に反射して、けーちゃんを抱き上げる様子を映す。

 子猫なのか成猫なのか、判別のつかない黒猫が、奏先生の腕から零れ落ちて、僕の前まで走ってきて、臨戦態勢を取る。

「気を付けてね、けーちゃん、初めて会う人を恐ろしく警戒するから」

なんて忠告を聞き終える前に、僕の左手に引っ掻き傷がついた。少し待つと、白い直線に赤が混じった。

 どうしてこんなところに来たんだろう、と、数秒遅れて認知した痛覚に眉を顰めながら、僕はここに来るまでの経緯を振り返った。

 

「……どうするつもりだったの?」

 呆れた様子で、奏先生が言葉を零す。

 その問いは僕以外にも向けられていたようで、自分の髪の毛を指で弄る碧が、僕の視界の端で下手な笑顔を携えていた。

「その……。すみません、何も考えてなかったんです」

 なるべく奏先生の目を見て、僕は言葉を紡ぐ。

 本当は「夢咲さんについて行くので精一杯でそこまで頭が回りませんでした」と言いたかったのだけれど、この人達の前で、そういう言い方は碌なことにならない気がして、やめた。

「……スーツケースまでは用意したのにね」

 奏先生の吐息多めの言葉が、運転席の窓ガラスを白く濁らせた。

 指に絡まった髪の毛をほどきながら、碧がおずおずと口を開く。

「あの……ね、かなちゃん。澪君、私の家に泊めようと思ってたんだけどね……。それで、お母さんに泊めていいか聞いてみたんだけど、泊めるかどうかは会って話してから決めるって……流石に今からは遅いかなぁ」

「遅いね。……まぁ、ごちゃごちゃ考えるのは嫌いだし、今日は」

 奏先生の目が、細まる。

「うちに泊まりなさい。澪君」

「……すみません」

 心底申し訳ない。

 という実況で、心の中に広がる生ぬるい安堵を誤魔化した。

 そして、エンジンがかかる音がした。

「その前に、碧ちゃんを送らせてね」

 僕は慌てて、深く座り直す。

「えー?私も泊まりたいー」

 シートベルトを引き出しながら、碧が幼い声を出した。

「いや……夢咲さん、電話で九時までには帰るって言ってなかったっけ」

 正直、今日はもう、碧から離れて一息つきたい。

「それならダメだね。今日は帰りなさい。使、いつも以上に、安静にするんだよ」

 奏先生が、諭すように言った。

「…………じゃあ、帰る」

 駄々を捏ねるか不貞腐れるかでめんどくさくなるんだろうな、と予測していたので、すんなり諦めたことに少しだけ驚いた。

 ……だけならまだよかったのだろうけれど、この時僕は、碧のその横顔に、どことなく寂しい色を見てしまって、碧にはあまり似つかわしくないような色を見てしまって、そして何より、それを感じた己の感受性に、少しだけまた死にたくなった。

 

 そこから後は、気がついたら流れていた。

 行きとは違って、タクシーに乗っているかのような平和で安全な運転で夜道を滑り、特にこれといった特徴のないマンションの前で、碧は降りていった。

 去り際に、

「また明日も会うんだから、死なないように!」

 とだけ僕に伝えて、駆け足で建物に入っていった。

「……本当に死のうとしてたんだね」

 奏先生が、後目に僕を見て、呟く。

「……もう、大丈夫です。もう、そんなことは、しませんから」

 口角は上げられたが、目は逸らした。

 それ以上、奏先生は掘ってこなかった。

 流石大人だな、と思った。

 

「……痛っ!」

 右手の親指と人差し指の間の、ちょうど柔らかい肉の部分に、鋭い痛みが走って意識が引き戻された。

 けーちゃんの犬歯ががっつりと食い込んでいたようで、二つの穿孔から滲む紅は、数秒も経たずに一つの大きな円になって、やがて腱に沿って流れ落ちていく。床を汚すわけにもいかないので、とりあえず穴を口で塞いだ。

 反射で上に跳ねた腕に驚いたのか、けーちゃんはどこかへ走っていったようだ。

「あっはっはっ!澪君、警戒されてる、というより舐められてるねぇ!」

 近くの部屋で、奏先生の笑い声が聞こえた。

「舐められてないです。咬まれたんです」

「確かに!まぁ、あとで処置するから、部屋の準備が整うまでその辺で待ってて!」

 傷口を上に向けて廊下を這うと、奏先生を見つけた。八畳の和室の真ん中に、厚みのある敷布団と、豚の形をした蚊取り線香が見えた。隅には扇風機と僕のキャリーケースがある。網戸に絡む夏の湿った夜風が、白いレースカーテンを踊らせていた。

 風鈴の冷たい音。

 扇風機の羽根が回る音。

 奏先生の足音。

 耳障りな蚊の羽音。

 どこかでけーちゃんが跳ねた音。

 周りが静かだからなのか、そんな雰囲気を醸し出しているのか。

 理由はよくわからないが、なぜかここでは、いつもより自分が音に対して敏感になっている気がした。

 

 部屋ができたあと、僕は現役の医者から怪我の処置を受けた。

 けーちゃんの歯形よりも、擦りむけた親指の付け根の皮の方が、消毒液が滲みて痛かった。

「さて……。澪君、そろそろ眠たい?」

 救急箱を片付けながら、奏先生が背中を向けて僕に聞いてきた。

「そう……、ですね。……突然、お世話になってしまって、すみません……」

「まったく。……碧ちゃん、あえて何も考えないようにするところ、あるからね。まぁ、仕方ないよ」

「いえ……僕が色々、考えてなかったってのもありますし……」

「それはそうだね。だけど、最終的には澪君の意志で決まったとしても、引っ張ってきたのは碧ちゃんだからね。今日出会って、今日来いなんて、碧ちゃんにとっては妥当なペースなんだろうけど。やっぱり急すぎると思うね」

 さて、と、奏先生が立ち上がる。

 和室から姿を消したと思えば、グラスを二つ持ってきて、一つを僕に渡してくれた。大きくて丸い凍りが入っているは、淡い橙色をしており、そしてかすかに、梅の香りがした。

「じゃあ、澪君」

 飲んだ経験はないけれど、僕は直感的に理解した。

 これは、酒だ。

「君のことを、私はまだよく知らないのよね。碧ちゃんと仲が良い男の子で、寝る場所を考えていなかったようなドジで、そして今日の昼に死のうとしていたことくらいしか知らない」

 奏先生はそう言いながら、座布団にあぐらをかいて、中身が二口分ほど減ったグラスを畳に置いた。

「私は医者だけどね、べつに精神科医でも心療内科医でもない。だからこれは、医者としての問診ではなく、私個人の質問なんだけどね」

 僕はまだ、グラスに口をつけていない。

「どうして死のうとしたの?とか、聞かないから安心してね。私が気になるのはね」

 喉が渇くのを感じた。僕はグラスを掴んだ。

「澪君はこの町に、何をするために来たのかな?」

 

 僕は生まれてはじめてお酒を飲んだ。

 透き通った甘味が喉を鳴らした。

 ふわり、と身体が浮いたような気がした。

 色や言葉が形をなして、頭の中を漂っていた。

 その中から一つ、言葉を掴んで、僕は口を開いた。


「……夢咲さんと、遊ぶため、です」

 

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