十八章
――――でも、あなたは行ってしまったじゃないか。
記憶の中の教師を詰り、過去の思い出から苦々しく立ち返った。そろりと引き出しを開け、鍵付きの小箱を取り、そっと膝に置く。緻密に浮き彫りされた蓋をゆっくりと開けば、霧界で集めた思い出の品々が陽に反射してきらきらと眩しい。こんなもの、母にばれたらきっと捨てられてしまうので掃除する下女に口止めは欠かせない。
また行きたい。今すぐにでも行きたい。そう焦がれるのに、遷氏はすでに遠く今生の別れの彼方、文だって五通に一回くらいしか返って来ない。半端に夢を
――――しかも、父上様までいなくなるなんて。
つい先月、あれほど元気だった父はふいに寝込んですぐに亡くなってしまった。母はまるで悲しんでなどいなかった。もともと父の崔家らしくない言動を嫌っていたから無理もないが、早々に恋文を交わす相手を見つけるとは薄情に過ぎないか。母がいるかぎり崔家の後ろ盾は消えず、将来のこともなにも揺るぎないので、この状況はただ私の自由で素晴らしかったあの外での時間が奪われもとの灰色の日常に戻ったのみで、彼女らは全くなんの障害もなくむしろ改善したとさえ思っている節があり、ただ私だけが少なからず傷つき鬱憤を募らせていた。
それでごく自然に、密かに脱出を企んでいる。ともかくも、霧界へ出る道は覚えている。あとは足だった。自分のものでは途方もなく時間がかかりとてもではないが現実的に考えて行くことは出来ない。というわけで乗り物を秘密裏に手に入れる必要がある。谿辺ももういないが、馬の乗り方ならこの一年で父と遷氏にこっそり教わっていたから、忘れないうちに手に入れておきたかった。
金の工面はそれほど大変ではない。どんなに高価なものでも身を飾るものと学ぶためのものならば母はいくらでも与えてくれるからだ。問題は、いつ外に出て馬を買い付けるか、ということだった。邸の下仕えは皆母の息がかかっていてそんなことは頼めそうになかった。どうしたものかとしばし思案し、やはり詳しい者が良いと判断してこっそりと
「……馬が欲しい?」
目を丸くした皺だらけの老人は飼い葉を抱えた腕を降ろした。
「お嬢様、どうしてまた」
「しぃ。大丈夫、私が乗るのではないぞ。お前も知ってるだろう、あさって
「それでこんな文を寄越してきた」
文には、久しぶりに会うのだからさぞもてなしてくれるのだろう、期待している、と挑発する内容が書かれていた。
「な?これは崔宗家を馬鹿にしてるってことだ。いつも
厩番とてこの家の主人たちの金銭感覚が世間と大きくずれていることは了解している。それに、子どもといえど直系の姫君の大それた願いを無下には出来ない。加えてこうした依頼をされるのはほぼ初めてだったので、厩番は驚きつつもしばらく考えるように顎を撫でた。
「まあ、
「あるぞ、ほら」
もうひとつ書付けを渡す。「でもお前から母上に許可を取れば私が馬を欲しがっていることがばれてしまう。皆にも内緒にしておきたいのにそれじゃあ台無しだ。買い付けたらここには連れて来ず当日にお前が
催しのためだけに馬が欲しいとはこの姫もとんだ
「分かりました。どのくらいのものが良いので?」
やった、と爺にも別に金貨の入った袋を差し出した。
「私がひとりで乗れるくらいの大きさだ」
「子馬で良いのですね」
「そうだな、育てがいのあるほうが奴も喜ぶだろう。人にあげるものだから鞍や
それで昼過ぎに老爺は出て行き、夜に帰ってきて買った店を教えてくれた。頷いて嬉しさで満面に笑った。読み通り、聞けば父と街を歩いている時に何度か話題に出たことのある、一番近くて良い馬を揃えているところで買ったようだ。これで足は確保できた。あとは。
翌日の夜、
慌てて様子を来た下女に辛そうに荒い息を吐いてみせる。そのうちに
「なんと可哀想に、妾の
騒ぎを聞きつけて母までが枕辺に寄ってきた。娘の汗をかいた額を白い手で拭ったが、眼は言葉ほど優しげではなかった。情けない、こんなことで倒れていては話にならない、と呆れられているような気がした。
「いろいろ心労が溜まっておったのじゃな。たんと精のつくものを用意してやるからの。祈祷師も呼ぼう」
「……母上様、それは大げさですわ」
蚊の鳴くような声で首を振る。「すぐ治ります」
「そうかえ。しかしお父様がお隠れあそばさって日も浅い。もしかすらば、まだ魂が
違いない、と母はひとり合点した。父のことをそれほどまでに悪いものとして考えるのはおそらく、自分が後ろめたいことをしている自覚があるからではないか、と怒りで奥歯を噛み締める。
「おや、また熱が上がった。明日は萃も来るというに。どうじゃ、日を改めさせるかえ」
「……ご心配には及びません。一晩寝ていれば大丈夫ですわ」
それでさも疲れているかのように固く目を閉じる。
よくお眠り、ともうひと撫でしてやっと離れる気配がした。ともかくもほっと息を吐く。
安静にという家医の言葉は強力で何かあったらすぐ呼ぶよう念押しして小卓に呼び鈴を三つも置き、夜半にようやく邸の者たちは寝静まった。長く息を吐き、額に乗せられ湿っている布を取る。鈴を倒さないよう起き上がった。着替え、
母は子どもといえど
泣いて謝る家童を馬用の鞭で容赦なく打ち据えるのを柱の影から怯えて見つめていたことをよく覚えている。父がたまたま通りかかって止めた時には衣が裂けた背を血で染めて気絶していたから、あのままでは死んでいたかもしれなかった。家童の親である下女もそれから
それでも、出たい。ひとり頷いて窓から色が薄くなってきた空を見上げる。どのみち、朝にはばれることだ。腹は括らねばならない。
間に合わせに牀榻の中は
裏の門前に辿り着いた頃には東の空は白んできており、緊張と興奮で
「……おじさん。おじさん」
眠そうに立っている門番に暗がりから囁く。焚火の側の彼はきょろきょろとあたりを見回した。
「だれだ?」
「あたしよ
下女の娘の名乗りを聞いて首を巡らした。
「こんな時間になんだ。どこにいる」
「粗相しちまった。新しい
「はあ?何やってんだい。見せてみな」
それには小さく悲鳴をあげる。「やだ!まだ尻が濡れたまんまなんだよ。見せられるわけない。ばれたら妻室に打たれちまう。お願いだよ、開けて」
「おっ
「これで買って来いって。足りるかな」
垣根から突き出した掌の上には硬貨が載っていた。門番は鼻を鳴らす。
「うん、まあそんだけありゃ十分だろ。けどまだ
「
それで門番はやれやれと脇戸の
「見ないでね、ぜったい見ないでよ」
「わかったわかった。ばれないうちに早く帰って来いよ」
ありがと、と滑り出、暁闇の街へと駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます