十九章



 ――――いいか。よく見ておけ。


 そう言われて穹廬いえの中、壺と籠を並べた物陰に隠れ、母が犯されるのを最初から最後まで見た。


 恐怖と嗚咽が飛び出そうな口を両手で押さえてなんとか飲み込めたのは、仰向けになった母がこちらを射るように視線を投げていたからだ。

 おには獲物の上で肉にむしゃぶりつき、咆哮を発していた。何度も母を呼び、荒い息で腰を振り続け精が尽き果てるまでしかかっていた。その間、母はつとめて平然としていたがやはり苦しげで、とてもではないがすべてを聞くことは出来ず途中から耳を塞いで蹲っていた。


 自分もあのようにして生み出されたのだと知っておぞましさと汚らわしさに身の毛をよだたせた。男というものはなんと野放図で浅ましいのか。そのくせ力ばかり強くて手がつけられないのだ。幼い時分にその意識は完全に植え付けられた。それが狙いだったのかもしれない。ともかく、母は私を味方にすることに成功し、男よりも強くあらねばならぬと半ば強迫観念のようなものを刷り込んだ。力で敵わないのなら、体躯を活かした俊敏さ、弓を射る精確さ、先読みに長けた頭脳で秀でよと。



「――――何してる!」


 時には覗き見が父にばれて引き出され、激しく叱責された。

「やめろ。お前が時も場もわきまえずに始めるからだ」

 母は必ず庇ってくれた。しかし、決して自分が指示したとは言わなかったし、眼光鋭く睨み据えこちらにも黙殺を促した。私はただ震え、一糸纏わぬ姿の両親にただおののくことしか出来なかった。


 それで、近い将来自分もそういう行為をして子を産まなければならないことにひどい嫌悪をもよおした。……が、同時に妙にきこまれていたのかとも思う。母は少なくとも蹂躙されてはいたがそれを受け入れ、むしろ夫を何かの為に利用しているふうなのだった。それはおそらく、私を並の女以上に、むしろその枠を超越した存在にする為の教育と洗脳であり、軽々に男に気を許すなという警告だったのかもしれない。実際に幼い頃から巫師ふしの務めと並行して弓射と乗馬を母自身から手ほどきを受け、同年代の男子たちを差し置きずば抜けて腕を上げていた。



 そして、秘密を明かされたのは十になった頃だった。



 荒れ狂う、耳に痛いほどの風鳴りがやまない濃霧の山中を行く。斗篷がいとうは吹き上げられて防寒の意味をなさず、褞袍わたいれを厚着していても体は芯まで冷えきっていた。

 先を行く母の騎影を見失わないよう慌てて距離を詰める。向かい風を嫌がるいななきをなだめつつ崖道をひたすら登っていく。屹立きつりつする岩峰はすでに草木の生えていないむき出した灰色の奇岩群、母は髪をなびかせて振り返った。

「ここに入るぞ」

 示されたのは狭い岩の亀裂。麋鹿おおじかから下り、湿った隧道すいどうに入ってようやく凍てつく風から逃れた。


 登りきった光景はとてつもないものだった。一面の赤。敷き詰められた落ち葉も、繁る若葉もすべてが瑞々みずみずしく目に痛いほどの鮮烈なあか。化かされたように足を踏み出し、最奥の大樹を紹介された。


「私は待ち望んでいる。この樹に実がるのを」


 母は本当に、ずっと待ち侘びてきたのだろう、黒い幹を撫でる手はかつて幼い私を撫でた時以上に柔らかく優しげで、普段の苛烈な様子はなりをひそめ、ただただ、まるで孕み腹をさするようにしてとてつもなく太い巨木を刻をかけてぐるりと一周した。私は呆然とそれを見上げ、めくれてわだかまった樹皮の血色に粟肌を立てていた。



 そしてすべてを聞いた。この世界のこと、『選定』のこと、天門のこと。九泉主だという男と、彼が連れた人外の不可思議な娘にも会った。



何梅カバイ、忘れてはいまいな。あの地獄の日々を」


 水を飲めない苦しさを。むしけらの血を啜って生き延びた惨めさを。忘れもしない、二度と味わいたくない、喉を掻きむしってもだえたあの――――渇き。

 しかしそれはすぐ背後にいつでも待っている。油断すればすぐに足許を掬ってやろうと狙っている。


「怖じけてはいまいな。我らの大望に」


 永久に退け、打ち勝つためにはこの八紘やひろのかたちをそっくり変えなければならないのだということ。怖がってなど、怯えてなどいない。なぜなら、変えられる力が私にはあるからだ。


 以降、生活はさらに忙しくなった。私は将来『選定』をけ、当主になる。ならなければならない。母と共有した大望を果たす。しかしまずは『選定』に挑むに値するとみなされなければならない。その為には他者よりも倍以上、戦士である男子よりも優れていることを示さねばならなかった。剣技、弓射、麋鹿うまとりの扱い、戦略、指導者としての立ち居振る舞い、どうすれば各家の男たちに一目置かれるか。つまるところ人心を掌握できねば当主にはなり得ない。しぜんと笑みを浮かべることが増えた。男は凛々しくあるだけで良い。多少無愛想でもそれだけで一族は俯伏ひれふす。だが女の自分にとって性差を超越した評価を受けるのに加えて柔和さは欠かせないものだった。何倍も、何十倍もの明らかな能力の差を見せつけなければ支持は得られない。彼らの意識を根底から、自分を『女』という枠から外れたものとして扱わせる。あらゆることに通じあらゆる人に己を印象づけた。そういった魅了の才も運良く母譲りだったのか、世界の真実を知ってから二年も経つ頃には次代の騏驥ききの名声は揺るぎないものとなった。


 そして、裏で血反吐を垂れ流した努力は極めつけ、類稀たぐいまれなる天運を引き寄せた。まさに僥倖ぎょうこう、ありえない搬運はんうん、神が差配したとしか思えない奇跡の出会いを果たしたのだ。それも二つも。







 よっこいしょ、と廃屋の戸板を階に滑らせ落とす。良かった、なんとかなりそうだ。

 おいで、と尻込みする小馬を宥めつつ迷穀めいこく燐粉りんぷんが淡く光る地下の隧道へと降り立つ。時刻はすでに遅い朝、今ごろ家では大騒ぎになっているはずだ。しかし計画が上手くいった喜びでそんなことはどうでもよかった。門人が購入した馬は毛艶も綺麗でよく馴らされいて、鞍に登るのに手間取っても暴れずじっと耐えてくれている。暗闇のなかようやく手綱を取り、ぽくぽくと進みはじめた。


 谿辺けいへんで駆けたときには速すぎて分からなかったが、国外へと出られるこの抜け穴はいくつか分岐があった。どこへ続いているのか興味がそそられたものの当てずっぽうに進んで迷ってはいけない。途中何度か休憩しながら、覚えているとおりひたすらまっすぐ北へ北へと向かった。



 お気に入りの場所は無くなっていなかった。遷氏に霧界遊びを教えられて以来、特に夢中になったのは土中の骨探しだ。初め聞いた時は気味が悪いと思ったが、実物を見た途端そんな感情は吹き飛んだ。埋まっている骨の破片はまろく角が取れてすべすべと半透過にとろりとした生成色。その優しい色合いとかたちがとてつもなく好きになっていた。しかしながら、とんとご無沙汰だった為に目星を付けていた発掘場所を失念してしまった。辿り着いた今は隧道へ入って丸一昼夜と半分、とにかくひとまずは休む場所を探そう、と懐を探って火折子てしょくを取り出す。蓋を開けて何度かふうふうと息を吹きかけると火花が散り点火された。

 つまり、あたりは外に出てからも暗闇。時間的にはもうすぐ空が薄らみだす頃かと思われた。


 やはり不慣れな長丁場の乗馬でくたくただ。少し休もう。

 一旦湿地から離れ、倒れた灌木かんぼくの乾いた地面に座り込む。子馬を側の枝に繋いだ。持参した餌を与え、自分も携行食をぼそぼそと齧り、幹に凭れて丸くなった。

 到着にかなり時間がかかってしまったけれど、ちょっと遊んだらすぐ帰ろう。あれこれとどこを掘ろうかと考えているうちに瞼は完全に閉じてしまった。


 少し寝たくらいだと思っていたのに、子馬が繋がれているのに飽いてこちらの肩をついばむまで夢も見ずに寝こけていた。がばりと起き直る。陽はすでに高く、あたりは霧が濃く漂いながらも気温が上がり暖かくなっていた。

 我ながら図太いものだ。大きく伸びをして子馬を沢に連れて行った。この一年、遷氏と父に鍛えられた甲斐がある。初めは切株に座るのさえびくついていたなんて、いま思えば馬鹿みたいだった。

 茶色いあぶくを立てて流れる細い沢に口を突っ込む馬を撫でながらしみじみとあたりを見回した。木立の合間には薄紫の霧がたゆたって光をきらきらと弾いている。どうして、と鼻からゆっくりと空気を吸い込んだ。なぜこの土地は人を受け容れないのだろう。それなのに、動物は平気でこの毒水を飲む。ただ人だけが泉なくしては生きていけない。

 なぜ、も、どうして、も考えたとて詮無いことだ。だが考えずにおれない。遷氏に連れられて国外へ出て分かった。自分が考えるより、この世界はずっと広かった。この毒霧が晴れたのならば、あの堅苦しい邸から飛び出して自由に駆け回り、獣や鳥とのたわむれがもっと容易になるのではなかろうか。そうしたら、彼に会いに九泉へ行くことだって出来るかも。

 そんな夢想をしながら戻り、さて、と湿地を見渡す。少しぬかるんだ泥の窪地に艶やかな肉厚の葉が点々と繁茂している。とりあえず足許の土を掻いてみた。久々の感触に嬉しさがこみ上げ、袖をまくるのももどかしく夢中で掘った。


 どのくらいそうしていたか。これまでならすぐに見つかるはずの目当ての骨がなかなか出て来ず、いつの間にか湿地のあちらこちらを掘り返していた。



「――――何をしているの?」



 ふいに穏やかな声が背後から聞こえ、俯けていた頭をもたげる。空耳かと思った。ここに自分以外の人なんて、いるわけがない……、


「泥だらけ」


 もう一度、たしかにはっきりと言葉を理解し勢いよく振り向いた。


「だれだ?」


 立っていたのは同じ年頃の少女。真っ白な裘衣がいとうの内懐から刺繍の入った手帕てぬぐいを差し出してきた。

 意図を察して首を振る。「まだ掘るから、いい」

 返事に驚いた顔をしたのにそれよりも、と警戒する。

「きみはだれ?なぜこんなところに人がいるんだ」

「それはこちらの科白せりふ

 少女は抱いている鷹の幼鳥を撫でながら微かに首を傾ける。

「ねえ、赤子を見なかった?」

 湿地を見渡した。

「赤子?」

 変なことを言う。こんな人外の地の霧濃い森の中に赤子なぞいるわけがないのに。

「いなくなったのか」

「いいえ。探しているの」

「からかっているのか」

「大真面目よ」

 つややかでまっすぐな髪は括りもせず腰まで伸ばしている。同じく黒い大きな双眸がじっ、と視線を外さない。

「……ずっと、探しているの。もしも見つけたら、教えてくれない?」

 変な子だ、ともう一度心の中で呟き、肩を竦めた。

「いいよ。いたらね」

 言えばぱちぱちと瞬きし、それからふわりと笑った。

「ありがとう。あなた、泉人せんびとでしょう。話したのは初めてだけれど、いい方ね。見つけてくれたらお礼に良い醸菫水くすりみずをあげる」

「そういうきみはちがうの?」

 少女は口角を上げる。やはり汚れを拭けと言わんばかりに腕を差し出した。

「私は角族の何梅」

「角族……?ああ、泉外民というやつだな。初めて見た。姿は変わらないように思う」

「あなたは?」

「…………」

「こんなところにひとりで何をしているの?」

 骨を、と見渡した。「骨を探してるんだ」

「探してどうするの」

あつめてる」

 言えば何梅は瞳をまんまるにして、それから口を押さえてくすくすと笑った。

「なにがおかしい」

「いいえ。玉や薬草ならまだしも、骨と言うものだから」

「私には価値があるんだ」

 つんとそっぽを向けば一転、へえ、とどこかめたようなかおをした。

「けれどここにはないわ」

「そうなのか?前に来た時はあったと思ったんだが」

梅恵草ばいけいそうの湿地に獣は来ないものよ」

 毒があるから、と見回し、再び顔を戻す。「たくさんあるところを教えてあげましょうか?」

「いいのか?」

「骨の欠片なんて役に立たないから私たちには要らないものよ」

 それで彼女の後について行く。それほど歩かないうちにこぢんまりとした閑地に出た。何梅は端を示す。

「あそこらへんなら多分あるわ」

 正面は岩棚が折り重なり雪嶺へと繋がっている。

「よかったら馬を休ませておくわ。見たところ疲れているようだし」

「分かるのか?」

「息が荒いし毛艶も良くない。私はしばらくここにいなくちゃならないの。だから」

 しかし手綱を預けるのは迷った。このままられたりしないだろうか、とちらりと見ると彼女は微笑んだまま小首を傾げた。

「あの……」「なあに?」

「どうしてきみみたいな子どもがここにひとりでいるんだ?」

 よく考えたら怪しい。泉外民だからといって自分と同じくらいの歳なのにたった一人でふらふらしているものなのか。訊けば何梅はいたずらめいた。

「家出してきたの」

 奇しくも同じ理由に思わず噴き出す。それで彼女も初めて白い歯を覗かせて笑った。

「さてはあなたもなのね。私は二、三日帰らないわ」

「なんでまた」

「毎日同じことの繰り返しにうんざりなの。分かるでしょ?」

「……ああ。すごく良く分かる。毎朝同じ時間に起こされて」

「着替えてお祈りしてご飯を食べて」

「それから勉強だ。ひたすら座り続ける」

「夕方までずっと薬を煮込むの」

「こんなに晴れていても外に出してもらえない」

「出ても修行しなくちゃ」

「明日もあさっても遊べないし」


「昼寝をする暇もない」


 二人同時に言い、目を見交わして笑った。


「私……私は、葛斎かつさい。いかにも古くさくて堅苦しいだろう。母も気に入ってなくて瞪瞪とうとうと呼ぶ」

 あら、と何梅はまた笑う。「にらむなんてほうが可愛くないわ。たしかにあなた、目つきは悪いけれど」

「細めるのは癖なんだ」

「私は葛斎のほうが素敵だと思うわ。かずらは薬になるし、いつきとはきよいことよ。名付けた方はおもむきがあるわ」

 他でもない亡き父が己の死期を悟り、笄礼せいじん前なものの早々に贈ってくれたあざなだった。手放しで褒められたのは初めてかもしれない。


「きみのはどういう意味?」

「私たちは呼びかけに特に深い意味を持たせたりしないの。たいていは音を先に決めて、文字にはそれほどこだわらない」

「ふぅん。変わってるな。名は体を表すとよく言わないか?」

「大切なのは中身だわ。名まえ負けは格好悪いでしょう」

 何梅は口許の笑みを絶やさない。しかし目尻はほとんど弧を描くことはないのだと気がついた。

「きみは名のとおり梅花のようだ」

 雰囲気も静かで所作も控えめだが一度目にすると見蕩みとれてしまうほど可憐な少女だ。もっと心から笑えばいいのに、ともったいなく感じて言うと、彼女は「ありがとう」と言ったのみで背を向けた。

「馬は賢いから離していても遠くへは行かないわ」

「どこへ?」

 何梅は岩棚を指した。

弓手ひだりてに回り込むと洞がある。私はそこで休んでいるから、疲れたらいらして。泉人は昼餉ひるげを食べるのでしょう?」

 至極当然といった招きにぱちくりとした。

「いいのか?」

「こんなところで会ったのもなにかのご縁よ。ごちそうは無いけれど、どうぞ」

 葛斎は大きく頷いた。骨を探すよりこの少女ともっと話したくなっている自分がいたが、せっかく教えてもらったのでひとまず別れた。




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