二十章
何梅の言ったとおりお宝はざくざく採れた。
「何梅?」
「入って」
のんびりと佇んでいた子馬の手綱を洞穴前の木に結びつけ、足を踏み入れる。中は入口よりずっと広かった。頭上には様々な薬草や薬花、干し肉などが吊るされており、床も所狭しとこまごましたものが置かれていて足の踏み場もない。
そして座る何梅の後ろには巨大な鹿が寝そべったまま藁を食んでいた。
「そ……その獣は?」
よくよく見れば鹿のようで鹿でない。何梅は鍋を掻き混ぜながらまたしても薄い笑みを見せた。
「
「そんなものに乗るのか」
「馬より速いし険しい山に登れるの。
受け取った茶は濁っていて塩が入っていた。何梅と何梅の周りは初めて見るものばかりだった。
いろいろと尋ねたところによれば、彼女は幼い頃から薬師の勉学をしていて、それらを調達するために家から離れて時おり霧界へ旅に出るようだった。今回は家出だから泉地の近くまで降りてきたらしい。
「でもここにはこれっきりよ。泉人も石を掘りに来るようだと分かったの」
「鉢合わせるとまずいのか?」
「皆が皆、葛斎のように優しいわけではないわ」
黒い瞳にはぜる火の粉を映しながら何梅は静かに呟く。「噂じゃ、私たちは頭に角が生えていて泉人を突いて食べるそうよ」
葛斎は怪訝に
「なんだそれは。でたらめだろう」
何梅は硬貨を連ねた
「自分には見えていないだけかも。どう?」
つるりとした肌がみずみずしく美しい。何気なく触れてみると、何梅は知り合ってから一番大声で短く悲鳴をあげた。
「すまない、つい」
「あ、いいえ。いいえ」
庇った白い顔にわずかに朱が差した。「少し……びっくりしただけ」
「出っ張ってもないし角なんかないぞ。気にすることじゃない」
何梅は胸を押さえ、それからおずおずと葛斎を見返した。
「あの……」
「なんだ?」
「あなたの額も、触ってみていい?」
妙な願いだ、と首を傾げつつ髪を払った。
「いいけれど、私にだってなんにもないぞ」
ひんやりと冷たい両手に撫でられて少しくすぐったいが、心地好い。すぐに離れて物足りなくなったほどだ。
しかし何梅はなぜかとてつもなく後ろめたそうにした。
「ごめんなさい…ごめんなさいね」
詫びのつもりか食べきれないほど果実をくれる。大人びていた彼女がここにきて急に歳相応に見え、可愛らしく思って微笑みながら良い香りのする
それから様々な話をした。歳は互いに十二、どちらも長女、しかし何梅には妹がたくさんおり、葛斎は一人っ子。将来偉くなるよう親に言われていて遊ぶ暇もないほど忙しいこと。好きな食べ物、動物、宝石、やってみたいこと。
何梅が弓射ができると知って感心した。
「すごいな。男と張り合うなんて」
「弓は腕力が足りなくても工夫でどうとでもなるわ。女と男の仕事、どちらも出来るようになったからたいていの男がつまらなく見えてしまうの」
「格好いい。きみに言い寄る男は覚悟が要る」
「相手ならもう決まっているわ」
「そうなのか?」
ええ、と何梅はどうでもよさげに
「器用だけれど私よりは劣る」
「なぜそいつを?」
「本人がすべて分かっていて求婚してきたから。えばらないし腰が低くて良い人よ」
そのほうがやりやすい、と言い置き、葛斎に水を向けた。
「あなたは?」
「…………私は」
言っていいものか迷い、興味津々の瞳に苦笑いする。
「将来は一泉の王妃になるよう言われてる。だから夫は泉主だな」
まじまじと見つめられていたたまれず逸らした。
「向いてないだろう。私は面立ちがきついし、華がなくて暗いと言われる。たといどれほど賢くても泉主に気に入られなければ子どもはできないだろうし」
「そんなことはないわ」
いきなり手を握られてたじろいだ。
「あなたはとても美しくて聡明よ。なよなよとしてなくて強い。宮へ入っても威厳が霞まない。……それに、愛し合わなくても子どもは産めるわ」
最後の言葉に喉が詰まった。何梅は首を振る。
「なにも辛いことじゃない」
「な、なぜだ?」
「子を産むのはそれだけで偉業だから。葛斎、誰かに与えられることをアテにするのは良くないわ」
愛されることを期待するな、と重々しく言った。
「むしろ自分が何を愛せるかを見定めなければならないのよ。他人からのものなどいつ壊れて消えるか分からない不確かなもの。
ほのかに
「否応なく子孫を繋ぐ
「ね……ねえ、その言い方、やめて」
まるで獣かなにかのようで。絞り出せば、我に返ったのか握る力が緩んだ。
「……ごめんなさい、葛斎。あなたが王妃に登る方とは思いもよらなくて興奮しちゃったの。許して?」
「ううん。たぶんきみたち泉外民とはいろいろ考え方も違うのだろうし」
「私は将来、当主になるわ」
堂々とした宣言にぽかんとした。
「当主?」
「一族の王。
「ええっと、王妃じゃなくて?」
女が王になれるのかと問えばもちろん、と力強く頷いた。
「泉国では無理だろうけれど、私たちは決められた試練に打ち勝ったら誰でも王になれるの。私にはその力があるわ。これは
ずい、と近づかれて赤面した。
「な、なに?」
「私、もっとあなたを知りたいわ。お友だちになって」
直截に言われて逆に嬉しくてなんと返せばいいか分からずまごつく。こちらも同じように思っていたのだ。何梅は美しく謎めいていてなぜか
「……私は、面白くないかもしれないよ?」
どう考えても彼女の隣に釣り合いそうにない。卑屈に言えばそんなこと、と笑われた。
「さっきも言ったわ。選ぶのはあなたよ。私では不足?」
「そんなわけない!」
「よかった。また会えるかしら」
「ああ、会いたい…………」
言ったところ、がつんと殴られた心地で重大なことを思い出した。
「ちょ、ちょっと待って、いま何時だ⁉」
慌てて洞から駆け出る。嘘だ。外はもうすでに陽が見えなかった。
「まずい……今からとなると今日中には帰れない」
続いて出てきた何梅は不思議そうに首を傾げる。「家出してきたのではないの?」
「それはそうなんだけれど、一日くらいで戻るつもりだったんだ。昼過ぎには出ないとと思ってた」
「怒られる?」
「怒られるし、……あのね、何梅。また会いたいと言ったけど、でもよく考えれば無理だ。帰ったらもう二度と家から出してもらえない」
俯いた。二日も行方不明のまま、実はただの家出だったと知ったら母は怒り狂うだろう。
何梅はさらに解せないようでわずかに眉根を寄せた。
「なぜ?」
「母上は私が怪我する遊びをしたり汚いものを触らないよう禁じてる。しかも黙って国外に出てたなんて知られたらこれからずっと監視され続ける」
「いえ……そうではなくて。なぜ従うの?」
これには顎を落とした。「なぜ、って…………」
「母親といえあなたを縛る権利はないわ。閉じ込められるのが嫌なのでしょう?なぜそれほど下手に出るの?あなたのことが本当に心配なら閉じ込めるのではなく腕の確かな
「人形……」
「それか、私と来る?」
「え?」
「国なんか捨てて、私の住んでいるところへ行く?そうしたらずっと一緒にいられるわ」
本気か、と見れば悲しげにした。「私は、あなたとこれきりなんていやよ。また一緒に遊びたいもの」
じん、と心が震えた。迫り上がってきた熱いものが涙となって溢れた。
「わ、たしも……」
何梅は再び手を握ってきた。
「なら、行こう?」
魅力的だ、と
「ううん…………戻るよ」
きっとそこは、自分のいるべき場所ではない。そう思った。
自分は何梅ほどの勇気はない。見知らぬ土地で見知らぬ人といきなり暮らせるほどの器量はない。そこには思い描く幸せなど、たぶんない。今まで育ってきた環境とあまりに違いすぎて、おそらく耐えきれないだろうから。
そう、と何梅はほんの少し肩を落としたが、しばらくじっと見つめてきて問う。
「あなたは本当に王妃になりたいの?」
「……なるべきだと、思ってる。他には考えられない」
刷り込みと言われようとも自分が数年のうちに宮入りし、王の妻になるであろうことを疑っていない。きっとそうなるしその
「なら簡単。閉じ込めるなら勉強しないと突っぱねたらいいわ」
思いつきもしなかったことにあんぐりと口を開けて固まった。
「だってあなたは一人っ子で、あなたが王妃になることを母上様も願っているのでしょう?なら母上様の弱味もあなた自体よ。自分を人質にして言うことを聞かせたらいいのよ。暴れて、壊して、ぐちゃぐちゃにしてやればいいわ。王妃になんかなるものかと言ってみせるのよ」
「そんなこと、私に」
「あなたはあなたのもの。誰のものでもない。他人に敷かれた道を歩くのは難しくないわ。でも自分の意思がなければすぐに見失ってしまう」
自分自身が分からなくなりやがては消えてしまう、と葛斎の肩に手を置いた。
「結局、自分の生き方は自分で決めて勝ち取るものよ」
「勝ち取る?」
「私たちを邪魔するありとあらゆる
そうかもしれない、とすとんと納得した。母はその実、娘を誇りと家の名を高めるための道具としか見ていない。だから宮へ送り込むまで壊してはならないと、一見羽毛のように優しく思える重い真綿でがんじがらめにするのだ。本人の気持ちなどどうでも良いのだ。
逆らえない、と、そもそも、逆らうという考えさえ起こさなかった。せめて目を盗んでささやかな楽しみを得ることだけで満足していた。連れ出してくれる父や遷氏でさえ真っ向から母と敵対して自分をどうこうするなどとはついぞなかった。二人がいなくなり、今回の家出は人生最初で最後のおイタ、叱責と罰はあろうがその後はまた今までのように束縛の日々に甘んじるしかない、と諦めて。はじめから白旗を上げて。
葛斎はくすりと笑った。
「何梅は強いな」
淑やかな顔とは裏腹に彼女の心には折れない芯がある。
「負け犬根性なんて私には一生必要ないわ。言ったでしょう、私は一族の王になるの。あなただって王妃になるのにそんな弱気では後宮ですぐに虐められてしまうわ」
「そうだな……。まずは母親から攻略しないと」
とはいっても、と子馬を撫でた。「外に出られるのはやっぱり今日が最後になるかも。このさき保鏢を与えられたとしても、抜け道を誰にも知られたくないし」
遷氏と自分だけの秘密の道だ。母に喧嘩を売るなら、これからますます監視は厳しくなり単独での行動は難しくなる。
「そうだ。何梅、いつかきみが私に会いに来てよ」
何梅はぱちくりとした。
「きみは王になるんだろう。なら私よりずっと自由になるはずだ。私が動くと周りがてんやわんやになってうるさい。なら、何梅が来てくれればいい」
「…………分かったわ。じゃあそれまで――――この子を」
差し出されたのは鷹の幼鳥だ。
「特別に躾けたものよ。どこにいようと覚えたにおいを探して辿り着くの。小さいけれどもう立派に役目を果たせるわ」
何梅は小刀を取り出し、髪をひと房切り落とすと袋に入れて
「また会う日まで、この子に文を運んでもらいましょう」
「もらってもいいのか?」
「またたくさんお喋りしましょう、葛斎。声や顔を忘れてしまっても文が届くのなら淋しくない」
「ああ。それなら頑張れる」
「でも、きっと私たちは遠くないうちにまた会えるわ」
何梅は謎の微笑を浮かべた。「なんだかそんな気がしてならないの」
「そう言うならそうなんだろうな。……ありがとう、何梅。今日きみと知り合えて本当に良かった」
私もよ、と何梅は大事なものをしまい込むように両手を胸に当てた。
「さあ、では途中まで送るわ。あら、でも抜け道は秘密だったわね」
「いいや。何梅にならいいよ」
夜空となった暗闇はすでに星が瞬いている。二人して何度も微笑み合った。時折立ち止まり、忘れないようにと顔の輪郭をなぞり、互いの香りを嗅いだ。葛斎の髪の一束も何梅にあげた。
そうして抜け穴へ下るとなって、何梅は顔を突き出して手を振りつつ名残惜しそうに目を細める。葛斎は切なさを無視して笑う。
「毎日のように文を書くよ」
「私も、できるだけたくさん書くわ」
「早く王様になってね」
「あなたも立派な王妃に」
「もちろん」
不思議だ。まだ彼女のことをほんの上辺しか知らないのに長年の友であるかのように離れがたかった。
「自分でもびっくりだ。私は何梅のことがとても好きみたい」
何梅は声を出して笑い、音が洞に反響した。
「私も大好きよ。お達者で、葛斎。今日のこと、一生忘れないわ」
ついに子馬に跨り、踵を蹴って進みだした。何度か振り返り、やがて入口が豆粒ほどになってから、見送る影は夜の霧にまぎれ夢のように消えた。
異国の少女が全く見えなくなってから、何梅は枯れ草や蔓を集めて入口を隠す。ひと仕事終えて衣を払っていると、
「妙なにおいがするな」
背後から掛かった声に無感動に振り向いた。
「お帰りなさいませ、母上様」
現れた母は髪を掻き上げる。「変事はなかったか?」
「ええ。なにも」
「誰といた?」
白い手が伸びてきて娘の短くなったひと房を
「よもや薄汚い虫ではあるまいな」
「いやだ、母上様ったら」
そんなことあるわけない、と笑み、何梅は今しがた隠した抜け道に背を向ける。
「母上様、私、運命を引き寄せたわ。
「湶后だと?」
先へ進み始めた母の横、木陰からぬうるりと黒いものが剥がれ落ち、べちゃりと地に落ちて再び起き上がった。みるみる人型になる。
「おやまあ、何梅様。今度は泉人をお
「人聞きが悪いわ、
若い男の姿をした母の
「何梅様はお母上と同じく人の懐に入るのがお上手ですゆえ、相手が盗賊でも従えてしまいそうです。良かったですねえ、
「口の減らん下僕だ」
母は相手にせず、岩棚の洞まで戻ったところで億劫そうに息を吐き切株に座り込んだ。膨らんだ腹を撫でる。中には何梅の新しい弟か妹がいる。
「大丈夫ですか、母上」
「それより、さっきの話。どこぞの娘だ。お前を怖がり
「怖がらせるようなことはしておりませんわ」
「何もせずとも、角族と聞いて怖がらない泉人はいない。それでも平気とは、なかなかに世間知らずとみえるな」
「国を抜け出して遊ぶ子ですもの」
昼間のことを話すと母は下僕に肩を揉ませながら腹を
「ふぅん。家出するような娘が湶后に?」
「あの子はなるわ」
「躾けたばかりの鷹をくれてやるほどお前が気に入ったのなら、あながち有り得なくもない。名はなんといった」
「葛斎」
ほう、と母は空虚な笑みを浮かべる。
「
「たしか……
「――――崔?」
ぴくりと眉を上げ手を止めた。「そうか…………」
妖の男はつまらなそうに主を窺い、何梅もまた首を傾げつつ言葉を待つ。
「…………ふん、なかなか面白くなってきたようだ。何梅、崔葛斎とはよしなにしておけ。後々役に立つやもしれん」
「もとより、そのつもりですわ」
何梅は無意識に
「そうかもしれない。なんにせよまだまだ準備が必要だ。私はとにかく
そうして面倒そうに腹を見下ろした。
「
「お命じくだされば跡形もなく私が消して差し上げますのに」
麅鴞が脇から覗き込み青い舌を出したが、母は首を振る。
「それもまだ時ではないよ。あいつは機嫌を損ねればすぐ泉地に降りて憂さを晴らしたがる。私が出しゃばって差配するのが気に食わんだけさ。
上っ面はな、と嘆息し、娘を手招いた。
「何梅よ、機会を逃すな。どんなことにも気を配り、目を開いておけ。誰もその時を教えてくれはしない。己で気づかねば奇跡は永遠に巡って来ない」
「はい。いつも忘れずにいます」
帰ろう、と促され何梅は身重の母を支えた。おずおずと口を開く。
「母上様は……なぜそうも平気なのですか。父上様の求めは……その、お体にも負担ですわ」
「なんだ?
「いいえ。あの人は父上とは真逆です。でも……」
「何梅。私はな、好きで子を産んでいる」
母は四不像に脚を揃えて座り、麅鴞が後ろで支えて手綱を取った。
「対策はもちろん出来るさ。しかし、あの大飢饉で一族は膨大な
母はほぼ毎年子を孕み産む。それでも超然として皆の前では泣き言ひとつ言わない。
「たしかに我が夫君はいつまで経っても落ち着かない、加減を知らない猿だ。だが、私に宿ってくれる子には何の罪もない。娘たちに限らず、
善なることを言っているはずなのに母の表情は嘲りに満ちていた。
「お前が犯し、お前が奪うんだ。気に入らなければ見限って棄てて構わないんだよ。こと血の継承とはすべて我々大いなる母の
くつくつと笑う彼女はたしかにぞっとするほど人離れしていて周囲を魅了する。
「私は母上に憧れますわ。強く賢く、男に媚びない生き様が眩しくて」
「何を言う。お前は私の
楽しみだ、と言う声に微笑み返し、それから先のことに思いを馳せた。
数々の奇跡を目にした。その一端はいま母の後ろにいる
私は選べるかしら、と寸暇不安になった。葛斎には偉そうにあれこれ言ってみせたが、はたして正しく機会を掴み、道を見失わず迷いなく頂上まで辿り着けるだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます