二十一章



 素晴らしい。

 本当に目の覚める思いだ、と雑踏のなか浮き足立って露店を眺めながら嬉しさに溜息を吐いた。父も遷氏もいないのにまた再びこんなことが出来るようになるなんて、本当に信じられない。



 あの日。葛斎は一昼夜かけて自宅へ戻った。案の定母は怒髪天で家出娘を思いつくかぎり罵倒し、持ち帰った全てのものを取り上げて幽閉しようとした。しかし負けなかった。何梅にすすめられたとおり、これ以上自分から自由を取り上げるのならば湶后にはならない、筆など一生らないと宣言した。

 生まれて初めての反抗はそれは気分の良いものだった。今でも興奮して夢にまで見る。母は開けた口を塞げないまま泡を食い、しばらくその場にいる誰も発言出来なかったほどだ。


「それでも私を閉じ込めたいなら頭を丸めてご先祖の供養のためこの身を捧げましょう。入内なんてしない」


 鋏を片手に髪を引っ張ってみせれば母は青褪め、それから大慌ててなだめにかかった。娘の秀麗さはすでに多くの名士たちの間で知れ渡っており、朝廷の要職に就いている高位官へ宮入りについての根回しも始めていた。いまさら取り消せはしなかった。


瞪瞪とうとうわらわの可愛い瞪瞪や。分かった、閉じ込めたりなどせぬゆえ、落ち着きなさい。怪我をしてしまう!」

「――――葛斎」

「え……」

「私は葛斎!もう子どもじゃない。母上様、これから私のものを勝手に捨てたりすれば私は二度と母上様を許しません。人並みの生活を約束してくださるのなら予定どおり宮へ参ります。良いですね?」



 思い出しても腹を抱えるほど笑ってしまう。豹変した娘にそれからの母は機嫌を窺い恐々とへつらうようになった。何梅の言った通りだ。邸の者は皆、母娘の勢力図が一夜にして塗り変わったことに驚いたが、葛斎の寛容さを知る下仕えたちにはむしろ歓迎された。葛斎は外にじょうのある房室へやに入らなくても良くなった。内院で心ゆくまで日光浴し、勉学の休憩に散歩を楽しむ。保鏢ごえい付きだが、こうして市をそぞろ歩くことさえ出来るようになった。これは本当に激的な変化だった。


 もらった鷹をいつも連れて歩いた。鳥を飼ったことがなかったので詳しい者に育て方を教わりつつ、頻繁に何梅へ文を送った。いつしか近所では風変わりな令媛れいえんとしてちょっとした有名人になっていた。好奇の視線も今はなんとも思わない。そのおかげでたまに話し掛けられると嬉しかったし、広々とした市街地を歩ける自由を至福に感じていた。なにもかも、あの日何梅に出会わなければ有り得なかった日常だ。


 彼女は忙しいのか、三通に一通ほどの頻度で鷹を送り返してきた。あれ以来、国外へ出るのはあまりに危険でやめて欲しいと母に限らず皆から懇願されさすがに出奔はかなわずじまい。しかし何梅の顔も声も忘れることはなかった。文を開けばあの淑やかで静かな声が脳内で文字を読み上げる。


「また妹ができたと言っていたな……お祝いを贈らねば」


 独り言を呟き、店を見て回る。鷹が運べるくらいの軽さとなると大きなものは選べない。何梅は泉国に住む葛斎にとっては至極素朴と思えるものをとても喜んでいるようだった。ほんの少し上等な便箋や墨でもあちらでは貴重らしい。


 今回は香油でも求めようかとぶらぶら歩いていると通りの向こうに人だかりが見えて足を止めた。

「なんだ……?」

 行こうとすると保鏢に止められる。

「お嬢様、おやめ下さい」

「あの集まりはなに?」

 男たちは困り顔で見やった。

わい州から禁軍が戻ってきたようです」

「禁軍……?戦でもあったのか」

「ええ……あ、いや」

 ひとりが慌てて口をつぐむ。母から口止めされているのか、と目をすがめた。

「教えて。どういうこと?」

 剣幕に誤魔化せないと思ったか、再度顔を見合わせ、おとなしく白状した。

「また北狄ほくてきの掠奪があったのですよ」

「掠奪……」

「淮州では日常茶飯事ですね。最近おとなしいと思っていましたが、今回は禁軍の一師団が出兵するほどです。また巌嶽がんがくに難民がたくさん流れて来るでしょう」

 大通りに群がる野次馬の向こう、傷ついた兵士たちが疲れた顔で行軍している様子をみとめ、思わず鷹をきつめに抱く。戦の話なども軟禁されている頃は全く耳にしたことはなかった。どれだけ周りの者が隠していたのかがありありと分かる。

「ひどい……」

「あの様子じゃまた郷里まちがいくつか潰されたようですね。被害に遭った人は可哀想に」

 保鏢に自分を抱えさせて群衆の頭の上から見回したすぐ前、一人の歩兵が躓いて倒れた。しかし周囲はどよめいただけ、仲間の兵士も助け起こす気力もないのか幽鬼のごとくゆらゆら歩いていくだけだ。

 見ておれず滑り降りる。

「お嬢様?いけません!」

 止めるのを無視して人混みを縫い、傷ついた男に駆け寄る。

「だっ、大丈夫⁉」

 血泥まみれに怖じけつつも声をかけると呻きながら肘をつく。

「水を、くれ………」

「誰か!水をちょうだい!」

 飴売りが引き腰で差し出してきた竹筒を受け取り、渡せば虚ろな目で一口飲んだ。こぶしで弱々しく拭いつつ、やがて泣き始めた。

「くそ……痛え……許さねえ……絶対許さねえ……」

 葛斎はどうすれば良いのかわからず、ただ傷ついた腕を摩る。ふと見ると片方の手首から先が無い。衝撃を受け慄然としゃがみ込んでいれば、指揮官らしき騎馬兵が一騎戻ってきた。

「行くぞ」

 馬上から声を掛けられ、兵士は地面に涙のしみを落としながらようよう立ち上がる。騎馬兵は葛斎に頷いた。誰かが「撫軍ぶぐんじん将軍だ」と囁き交わしたのがちらりと聞こえた。

「娘、感謝する」

「ご…ご苦労さまでございました」

 馬首はまた進むほうへと戻され、歩兵は足を踏み出した。

「あの……ゆっくり休んで」

 彼は葛斎の言葉にはまるで反応せず呪詛のごとく独り言を繰り返し、去り際に呟いた。

「許さねえ……角族の猿共が」



 ――――私は角族の何梅。


 角族。



 なぜ、今まで気がつかなかったのか。茫失し立ちすくむ。そうだ。一泉の北に棲まう泉外人とは北狄。北狄とは、……つまりは角族。

「何梅…………」

 あの子は違う、と否定した。何梅の仲間とはいえ、掠奪などきっと男たちだけで決めた蛮行に違いない。そう思い込もうとした。彼女は違う。あんなに美しい顔で微笑む自分の一番の友はそんなことに加担していない。だって、何梅は女だ。女で……男より弓が上手くて、将来は……自分が、王になるのだ、と………………。


 その先は絶望で黒く塗り潰された。考えたくなかった。嘘だ、と震える。便りには戦のことなど一文字も、におわせる内容さえ読み取れはしなかったのに。

 前を横切るのは傷ついた自国の兵馬と荷台に載せられ布を掛けられたしかばね。破れてそよぐ旗に折れた戈戟ほこ。敵を討ち取った証の首も、生け捕りにした俘虜とりこもいない。明らかなまでの大敗の行列は葛斎にまざまざと己の全ての予想が真実なのだと裏付けた。


(何梅……きみは今、いったい何をしてるんだ……?)


 会いたい。今すぐに。猛烈に。


 身をひるがえして走りだした。保鏢が慌てて制止するが無視し疾風のように駆け戻り、自室の書案つくえに紙を広げ、墨を磨るのももどかしくつくばうようにして書き殴った。急いで乾かし折り畳み、袋に詰めて鷹に括る。

 窓を開け放ち、大きく腕を振る。相棒は翼を広げて空高く舞い上がった。おねがい、とかすれた声で送り出す。蒼穹に小さくなる影がにじんだ。分からない。なぜ自分が泣いているのかも分からない。



 何梅の返信は今までで最も遅かった。暗く打ち沈んだまま妙な焦燥感を持て余すこと十日、羽ばたきと鉤爪が玻璃はりを叩く音が夜明け前のしんとした静寂を破る。

 ついに待ち侘びたものはいつもよりもずっと小さく、内容もただ一文。とにかく会いたいと願った葛斎に対してたった一言。


『行くわ』







 一泉は国全体が郭壁かくへきで囲まれた国だ。壁の上には常時守備軍が巡回しており、関門も厳しく監視されている。そして泉畿みやこ・巌嶽はさらにぐるりと堅固に囲まれた城砦都市なのだ。かつて使っていた抜け道を何梅に教えたとはいえ、無事に来られるのだろうかと不安になり、しかし家を抜け出してあの廃屋で待つのもやはり難しく、どうしたらとやきもきしているうちにそれから三日が過ぎた。


 雨の午後だった。椅子の上でうずくまり真っ白な紙を見下ろして嘆息する。あれから、無理するなと返事を書こうかと迷い、結局できずにただ鬱々として過ごしていたところ、下女の小利しょうりが、おじょうさまぁ、と間延びした声で呼んだので顔を上げた。

「なに?」

 下膨れ顔を隔扇とびらから覗かせ、小利は怪訝に言う。

「お客さまです。おじょうさまとほんじつ約束したっておっしゃってます。馴鳥師たかしょうの方みたいですけど、そんな予定ありました?」

 葛斎は一拍ののち、慌てて頷いた。

「そう…そうだった!すっかり忘れてた、すぐお通しして!」

 ぶわりと頭が熱くなった。もしや……まさか。いいや、絶対にそうだ。


 花庁きゃくしつで待ってもらうよう指示し、衣服を着替え呼吸を整え、しかし万一違ったらどうしようという不安に押し潰されそうになりながら速足で向かった。

 下仕えたちに人払いを念押しして隔扇を開ける。立ったまま待っていたのは二つの影。笠で顔は見えない。雨避けの黒い獣皮の油衣がいとうから滴がつたっていた。


 はじめに笠を傾げたのは男だった。目許は垂れ気味で柔らかく優しげな印象だったが明らかに葛斎を警戒している。

「貴殿がさい殿か?」

「あの……ええ」

「この邸は貴殿の統制下にあると聞き及んだがまことであろうか」

 硬い物言いに気圧けおされ、言い淀む。

「その、」

「こちらはたった二人で出向いた。この場の安全を保証できないようなら即刻立ち去る。いかがか」

「ええっと、」

 ようやく隣から声があった。

「そんな言い方では怯えさせてしまうわ。ここはただのおうちよ。そしてこの方は間違いなく私の親友なのよ」

 流れるような仕草で笠を脱いだのは微笑みをたたえた、二年ぶりの懐かしい、


「――――何梅っ‼」


 我を忘れて飛びついた。本物だ。本物の何梅だ。葛斎の記憶の中よりもますます大人び、さらに美しくなっていた。黒光りする豊かな髪は泉国風に纏められている。

「葛斎。濡れてしまうわ」

 優しく目を細め、産毛のきらめく白い頬がふっくりと盛り上がる。再会を喜んでくれている表情だけで我慢の糸が切れた。

 何も言えず、涙がとめどなくこぼれて必死に拭う。会えて嬉しいと伝えたかったのに喉は詰まって嗚咽おえつしか出ない。代わりに何梅は葛斎の言いたことをすべて言ってくれた。


 ようやく啜り泣き程度におさまった頃合いで男が何梅に不思議な礼をして、「外で待っています」と出て行く。

「あのひとは?」

宣尾センビ。一人で来るつもりだったのだけれど、もしもの場合に備えて仕方なく。ごめんなさい、でもあれは口が堅いから抜け道のことも話したりしないわ」

 葛斎は何梅を長靠椅ながいすに案内し、二人で座って手を重ね合わせた。

「まさか本当に……来てくれるなんて」

「あなたが来いと言ったのよ」

「勢いで、つい書いてしまったんだ」

 何梅は微笑んだまま葛斎の髪を撫でつけた。

「とても乱れた字で心配になったの。あなたが今まであんな文を送ってきたことなんてなかったから。なにかよほどのことがあったのかしら、と」

 葛斎は目を泳がせ、間を持たせようと立ち上がって茶を淹れはじめる。

「忙しかったのか、何梅」

「それは昔からよ。あなたも良い意味でとても忙しくなったのでしょう?」

「……ああ。毎日新しいものを見て勉強している」

 良かったわ、と何梅は静かに頷いた。何も変わらない笑顔に話し方。葛斎は蓋碗ゆのみを差し出し、再び隣に腰掛けた。はるばる彼方から呼び出しておいて、どう、何を言えばいいか分からない。

 何梅は同じように茶の湯気をしばらく見つめ、そしてぱちりと目を合わせた。

「私に話したいことがあるのね?」

 じっと見つめてくる瞳に生唾を飲んだ。ひょっとして、と背筋が冷えた。この子は何もかも分かっていてやって来たのでは。逡巡も様子見も必要ないのでは。

「なにを言いたいの、葛斎」

 それで、息を吸い込んだ。

「…………何梅。私はこの前、初めて禁軍を目にした。淮州へ援軍として派遣された兵が帰ってきたんだ」

 腹を括る。


「きみも、掠奪に参加したの?」

「………………私たちはそれを遠征と呼ぶの」


 胸に剣でも差し込まれたのかと錯覚した。

「私は角族の何梅。水のない毒霧に囲まれた小さな地で暮らす弱小一族のただの女よ。私たちは、特に夏はね、水が足りなくなって毎年節約しなければならないの。本格的に冬になる前に家畜をふとらさなきゃならないし、食糧を貯めないと新しい年へ越えられないの」

「だから――だから、一泉このくにの物を盗むのか?」

「余りを分けてもらっているだけよ」

 何梅は平然と両の口角を上げた。

「この国はどこに行っても水がたくさん流れていて素晴らしいわ。私たちは年中乾燥してひび割れている大地を汗だくで耕し、なけなしの種を蒔いて枯れないよう必死に育てるの。雨は恵みよ。巫師ふしは毎日毎夜、請雨あまごいの舞を踊る。けれど、降ってもそのまま飲めやしないのよ。きちんと浄水石でしてからじゃないとお腹に虫がいてしまう。一日に飲んでいい水の量は決められているの。暑くても熱が出ていてもよ。たくさん飲みたいならその分をまかなわなければならない。そこらへんの川に顔を突っ込んでがぶ飲みできるこの国とは違って、水はとても高いものよ」

 ねえ葛斎、と何梅は笑む。

「あなたは朝起きたらまず何をする?」

 いきなり質問されてしどろもどろになった。

「え……えと、着替える」

「それから?」

「顔を洗って髪をく……朝餉あさげを食べる」

「そしてこういうお茶を飲むのでしょう?いい匂いのする澄んだ綺麗な色のお茶を」

 碗の中を惚れ惚れと見下ろして何梅は淀みなく話す。

「あなたは朝目覚めてから夜寝るまで、自分がどれほどの水を汚すのか考えたことがある?顔を洗う水とお粥の水は別よね?汗をかいたらすぐに沐浴ゆあみするでしょう?泉人は石畳に水を撒いて埃を流すわ。池をつくって魚の泳ぐさまに涼を得る。汚れた手を流しっぱなしの蹲踞つくばいで洗う。――それらすべて、角族わたしたちには馴染みのないものよ。水のひとしずくさえ無駄にできないの。なるべく使わない。飲まない。そんな暮らしをする者の気持ちが、あなたは想像できる?」

 じっと見つめてくる瞳に葛斎は怖じけて俯いた。

「けれど私だって遠征を正当化するつもりはないわ。戦士たちは少なからず泉人を殺すし、持ち帰るのは水だけじゃない。でも現時点では、まったく遠征せずに生きるのは私たちには不可能なの。仕方ないことなの…………葛斎。葛斎、私が嫌いになった?」


 勢いよく首を横に振った。分かっていた。彼女が泉外民だと分かっていた。なのに、どういう暮らしをしていてどんな境遇なのかなんて、まるで気にしていなかった。辺鄙な場所で稀有な友人を得て、それがとても気の合う今までにない子だった、ただそれだけで嬉しくて舞い上がって――自分の見たいものしか見ていなかった。

「黙っていて、ごめんなさい」

 白い指が触れてくる。微かに震えているのに気がつき、実は彼女はここへ来るのにとても悩んだのではないかと思い至った。はじめの緊張した様子は、出会った時から己の立場を明かしていたためにもしかしたら害を被る可能性があると危惧していたのではないだろうか。だから日取りも伝えず護衛を付けて。

 それでも――やって来てくれたのか、と見返す。表情はほぼ変わらず分かりにくい。しかしほんの少し、悲しげな不安そうな色はおそらく、葛斎の拒絶を覚悟して訪ねて来たことの証左なのだ。




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