二十六章



 いやだ、と尻込みする言葉をなんとか喉奥でり潰した。そんな大それたこと――――。


 てのひらに握って完全に隠せるほど小さな薬包は文と共に、鷹により北の大地からはるばるやってきた。

 伝えられたことに動揺し政務を休んだ。

 大卓に積まれた膨大な上申と決裁の紙の山は本来、泉主が目を通さなければならないものだが、この状態はすでに一泉宮では見慣れた光景だ。後宮を取り仕切り朝廷においても頼られる湶后せんごうが珍しく不調を訴えたとあって下官たちは慌てているが、そんな彼らを安心させる言葉も掛けてやれないほど葛斎は衝撃に打ちひしがれた。


 鳳床ねどこの中で小さな紙片を何度も読んだ。何梅と文通を始めて十二年、規則的に並ぶ模様はもう不自由なく読むことができる暗号文。しかし間違っているのではないかと幾度も読み返した。瞼を閉じても配列が変わることなど決してない。そして薬包も消え失せてはくれない。

 どうにも耐えられず文を返した。自分には…………とてもではないが出来ない。



 泉主を殺すなんて。



 姜湾きょうわんはたしかに鈍愚だが決して悪虐な王というわけではなかった。むしろ執政に興味無く不要に国を掻き乱さない分、臣下にとってはましだろう。なにせ王の代わりには湶后という頼れる影の為政者がいるのだからずっと後宮に隠れていても誰も困りはしない。しいすほど、天寿を全うさせず排除しなくてはならないほど有害なわけではない。


 分かっている、と被衾ふとんの端を握り締めて嗚咽おえつに耐えた。誰も入るなと言い置いたから房室へやのなかは無人で、時折走廊ろうかでは落ち着かなげな足音と微かに呼び交わす宦官たちの声が聞こえた。

 誰も見ていないのをいいことに髪を掻きむしり、顔を覆って溜息を吐いた。分かっているのだ、泉主が賢君であろうとなかろうと『叩扉こうひ』には関係ないと、よくよく理解しているし、してきたつもりだったのだ。肝要なのは泉主が『いる』のか『いない』のか、ただそれだけで本人の為人ひととなりは一切考慮しなくていいのだ。


(でも、こうなるならいっそ憎い方であってほしかった…………)


「本当に、悪辣な泉主であればよかったですねえ。それなら葛斎様は傷つかず、すぐ夫を殺めることができたのに」


 お前に人の何が分かるんだ、知ったような口を利くなと、初めてこの化物に殺意が沸いた。

 塞ぎ込んで三日めの真夜中、突然枕辺に突然現れたそれは知らない女の姿で椅子に腰掛けている。


「…………母上様のつかいか」

「葛斎様がじけたようなので励ましてこいと。我が主は無茶苦茶ですよねえ、私に人ぶるなと言うくせ、人と同じことをお求めになる」

 愚痴に瞬いた。

「主に不満が?」

「あら、なんです?びっくりした顔をして。私は傀儡からくりでも思考停止の犬ころでもないんです。理不尽を言われればあっかんべえをしますし本当に無理なことは無理と言います。……とはいえ、ふつうはぬし様の命に逆らうことは出来ませんが」

「お前の出来ない、とはどういうことなのかいまだ把握していない」

「『不可能』なことはしたくとも行為に至れないのです。どれほど主が望もうと」

 つまりは、契りには条理が介在しこの妖はその鎖を己の意思では断ち切れないということだった。

「私には……泉主を殺せはしない」

「残念ながらそれは私にも『出来ない』」


 葛斎は再び驚いて見返した。てっきり彼――今は彼女だ――が遣わされたのは人ならざる力で禁裏に忍び込み王に手を掛ける、その為の実際の手段として与えられたのだと思ったのに。


「なぜ」

 薄暗闇のなか、大きく首を傾げた。

「ご存知でしょうに。私は饕餮とうてつと呼ばれるもの。はじめの九子の半双かたわれなのですよ?降勅こうちょくしている一泉主に牙をけはしない」

「そんな……では、どうやって」

 血の気のない顔の優美な眼を細める。

「主様から冶葛やかつが送られたはずですね?」


 少し体に入れるだけで死に至る劇薬。国府の医房にも現存しない、泉地にはほぼ知られていない毒。


「…………ああ。でも、私が動けば事が露見する」

「顎で使える下僕げぼくはいかほど?」

 葛斎は胸を押さえた。

「恥ずべきことだが……あまり」

「生真面目な葛斎様ですもの。苞苴まいないを跳ね返していればそうなりますねえ」


 長く王太子の生母が実質上の支配者だった後宮は後釜におさまった葛斎にとっては敵地も同じだった。入内当初、妾妃と湶后どちらにくみするかで女官と宦官、他の貴族は真っ二つに割れ、水面下で熾烈な争いが繰り広げられた。今でこそ下火になり葛斎の威厳は揺るぎないが、癒着を好まぬ謹厳実直な湶后を煙たがり敬遠している者も多い。


「では逆にお聞きします。もと下官で今この宮に仕えている者は?」

 幾人かを思い浮かべる。突然、手が伸びてきて視線を合わされた。眼が――思わず固唾を飲む――人のそれではない。

 瞬く星のように虹彩をきらめかせた眼球は顔と釣り合わず真円に大きくなっており、葛斎のすべてを見透かすごとく爛々と光る。

「ふうん、なるほど。では次に、死んでも惜しくない者は?」

「や、やめろ。皆よくやってくれている私の臣下だぞ」

「……その宦官ひとりいれば十分ですね」

 振り払った。「さとりの化物!けがらわしい妖が、私の頭の中を勝手に覗くな!」

 何をいまさら、と言った声に怯える。恐々と窺えばニタリと笑った。顔はすでに、つい今しがた死んでも惜しくない者のうち最も強く思い浮かべてしまった宦官、その人だ。しかしゆらゆらと朧にぶれて像が不安定だった。


 つう、と細い指がしとねの下をまさぐり、隠していた薬包を摘み出す。

「なんでも力になれとのお達しです。あなたが動く必要はなし。ああでも、北郊壇ほくこうだんには入れるように手配しておいてくださいね。主様がもうすぐいらっしゃいます」

「う……あ……ほ、麅鴞ホウキョウ…………でも、それでは、お前が泉主を殺すことになるのだぞ」

 麅鴞はいいえ、と首を振った。「鍵を直接損なうことはかないませんが、死ぬと分かっていたとしても見過ごせる」

 間接的に死に追いやることは彼の中では『可能』の範疇と裁定されたのだ。

「毒味を終えたあとの水差しか、茶にでも混ぜましょう。自ら飲むのは泉主の意思。私が仕組むといえことわりには反しない」

 では行ってきます、と影が闇に溶けていく。気配の余韻が消えた後、なにか自分がとんでもなく卑怯者になった気がした。






 そろそろだ、と言われて泣き腫らした目で赤い髪の女を見上げた。

「母上様…………」

「なぜ泣く、葛斎。お前はよくやった。あとは私に任せろ。これで一泉は救われる」

 可敦は見知り得た時と寸分も変わらない、少女のままのような絶世の花顔で笑み、葛斎を優しく撫でた。葛斎は頷きながら離れる。

「地下にあるとは、一泉の北壇は変わっているな」


 見渡したのは広大な真四角の霊場。可敦はこれまた巨大なたつの塑像を一瞥し、中央の高台へと登っていく。


「――――葛斎」


 はっ、と振り返ると懐かしの親友がきざはしから降りてきたところだった。

「何梅!来てくれたのか!」

 手を取り合うと久方ぶりに再会した何梅はふんわりと微笑んだ。

「とっても待たせたわ。本当にあなたには苦労をかけた」

 ただ首を振る。入内してから九年、あっという間だった。


「ついにこの時が来たわ」

 何梅の手が珍しく熱を帯びていた。「私たちは偉大なる一歩を踏み出すの。この寰宇せかいを創り変える先鞭さきがけの叩扉」

 葛斎はまた涙ぐみ、壇上の周囲に満ちる水を見回した。水はついさっき黒く染まった。泉主が、失われた。

姜湾きょうわん陛下…………」

 決して、愛され、愛していたとは言えないが、不当な扱いも乱暴な振る舞いもされず、曲がりなりにも葛斎に正妃として礼を払ってくれた夫はもういない。

「葛斎。泉主の死は無駄ではない」

「分かっている…………」


 なまぐさい風が通り過ぎた。高台に堂々と立った可敦の脇に黒いもやわだかまり、みるみる像をとって、主と同じ鮮血色の頭の青年が顕現した。


「ご苦労」

 超然と労う主の腕に重みを感じさせない動きですがる。赤い鱗尾が絡みつく。

「主様………」

 葛斎に接していた時とはうち変わって切なげに擦り寄る。可敦はその頭をわしわしと撫で、一呼吸して大水盤の上に手首をかざした。

「行くぞ。私の半双かたわれよ」

 簡単には傷つかないはずの皮膚はじわりと裂け、中の水がしたたり落ちた。


 瞬間。


 葛斎は何梅に頼ってなんとか悲鳴を押さえ込んだ。赤い二人は光を放ち、どろりと融解し、――消えた。着衣だけが乾いた音を立てて石床にひろがった。


「か、何梅」

「これが昇黎よ」


 何梅も今しがた目にした奇跡に震えを隠せないまま蒼白になっていたが気丈に頷いた。

「葛斎。いま、一泉国中の水が濁っている。泉主が身罷みまかられたことも知れ渡って大騒ぎになる。あなたがいなければならないわ。すぐに戻って」

「わ、分かった。な、なあ、本当に成功なのだよな?」

 もちろん、と握る手に力を増した。「私はここで母上様の帰還を待つ。朝までかかるやも。北壇には誰も近づけないで」

「心配ない。外から開いているのは見えないし」

 斎戒し祈りを捧げるから誰も寄るなと厳命していた。しかし急報を伝えに誰がしかが来るだろう。

 腰が抜けそうになりながら階を登る。冷めやらぬ興奮にまた泣き出しそうになりながらなんとか地上へ辿り着き、入口のある天帝廟てんていびょうの外まで出る。まだ夜明けは来ていないが、東の空はうっすらと白んでいた。


 やったのか、と蹲踞つくばいに溜まる水が真っ黒によどみ汚臭を放っているのを確認した。あとは内門を開けば、わざが完成する――――。


 見つめる流れはまるで酸化した血のように粘ついてもったりとしている。座り込んだまま茫然と見守り続け、そろそろ下官が駆けつけて来るだろうという頃合いまでそうしていた。ふと、……微かに、流れが速くなったような気がした。加えて色が薄くなっていく。葛斎は瞠目どうもくした。


「な…………ぜ…………」


 ――――もう不徳門ふとくもんが開いたのか⁉


 水色は上流のほうからもとの色を徐々に取り戻し、血錆が追いやられていく。


(何梅は朝までかかると言っていたではないか)


 いくらなんでも早すぎる、とよろめいて立ち上がったところ、場違いな遠雷が聞こえた。



 それはまさに霹靂へきれきだった。



 あかつきもいまだ来ていない空があたり一帯、急にまばゆく発光し鼓膜を破る轟音がつんざいた。悲鳴をあげて倒れ込む。地揺れ、次いでかわらがなだれ落ちる破砕音、はりが崩れる土煙。

 今度こそ腰が抜け、唇は戦慄わななき体は使いものにならなかった。石畳の向こうから下官数人が血相を変えて走ってくる。

「湶后陛下‼よくぞご無事で!」

 大長秋だいちょうしゅうが青い顔でひれ伏した。葛斎は口が利けないまま空を見上げる。先ほどの光はすでに無く、相手の顔がうっすら判別できるほどの黎明に戻っている。

「な…………に、が…………」

 ようやっと、呂律あやしく問えば大長秋は叫んだ。


「申し上げたてまつります!崩御ほうぎょ、そして、――践祚せんそにございます‼」


 心の臓は動いているか。もしやえぐり出されたのか。

 周囲のすべての音が耳から消え、ぽかんとして目の前の宦官を見返す。


 践祚………………?


 そんなはずはない。ありえない。

 葛斎は我を忘れて彼の襟首を掴み上げた。

「たわけたことを抜かすな‼王太子は落血の儀をり行っておらぬ‼」

 それが、と苦しげに手を合わせる。

うつ妃様が、昇黎しょうれいを…………」

「ばかな……朝議にもはからずそのような暴挙を誰が許した‼」

「泉主にうべないを得られたと」

「は………?」

 関節が白くなった己の手にようやく気がつき解放する。大長秋は咳き込みながら、再びよろよろと額を地につけた。

 怒りが収まらない。

ねやでの口先だけの許可など戯言ざれごとと同じであろうが!誰だ、誰が手引きしたのだ‼」

「…………た、太子太傅たいしたいふだと聞き及びます……」

 噛んだ唇がぶつりと切れた。

「今すぐ捕らえ牢に繋げ」

「お、お待ちください。勝手に昇黎なされたといえ泉主がお隠れになった現状、王太子殿下が継承者として天に任ぜられたこと自体は大変喜ぶべきでは」

「それとこれとは話がまったく別だろうが阿呆めが‼」

 かつてない罵声に一同は震え上がった。

のりを無視しておのが子を玉座に据えんと我儘勝手をし、湶后であるわらわと第二公子を侮り愚弄ぐろうしたのだ。たとえ新王の母とて到底許されはせぬ。蔚妃にも兵を差し向けよ!」

「しかし」

 泡を食う大長秋の肩を蹴り飛ばした。

「妾が、妾こそがこの一泉の神聖なる泉主の血をそそぐ第一の正妃じゃ‼聞けぬのならこの場で妾を斬って除いてみよ!出来ぬのなら言う通りにせよ‼」

 蹴散らし、肩を上下させ息を弾ませた。残った数人は地べたに縮こまっている。

「…………せっかく鎮めた心が乱れた。陽が昇りきるまで籠もる。誰も近づけるな、入るな。厳命ぞ。破れば極刑に処す」


 身をひるがえし、再び廟に戻って外から扉を全て閉めさせ、大急ぎで方壇へと走り降りる。どうか無事でいてくれと祈りながら残すところあと数段で、けつまずき転げ落ちた。したたかに体を打ちつけ呻きながら見上げた先、中央の天辺に親友が蹲っている。


「何梅――――‼」


 しかしそちらは抱えた母のことに必死だった。

「母上、母上!」

 ぐったりと裸で倒れ意識のない母を揺さぶり頬を叩く。やがて、盛大にえずいて吐瀉としゃした激しい咳がこだました。

 葛斎も慌てて駆けつける。

 ずぶ濡れの可敦は顔を歪めて水を吐き続け、ばちん、と拳を床に打ちつけた。

「クソッ、クソッ!畜生!あと少しだったのにッ‼‼」

 叩くものから飛沫が散る。可敦はありとあらゆる罵詈雑言を叫び、血走った眼で睨みながら葛斎を引き寄せた。

「外で何があった」

 半泣きで先ほど起きたことをまくし立てると髪を掻きむしり苦しげに首を押さえる。

「失敗なぞ!こんなことがあってたまるかバカやろうッ‼」

「申し訳ありません、申し訳ありません!私のせいです‼」

 金切り声の詫びには応じず床に丸まった。

「今度こそ成功するはずだったのに。我々の救恤すくいのための濫觴はじまりが……私の半双が…………」

 麅鴞、と喉から絞り出した声に何梅までが苦悶の表情で「契りが外れたのですね」と信じられないと頭を振った。裸のままの母に衣を着せ掛ける。

「ともかく、露見しないうちに早くここを出ましょう。葛斎、まだ人を呼んでいないわね?」

「ああ、今なら大丈夫だ」

「ありがとう。また連絡する。さ、母上様」

「私は扉に手を掛けた。まさに、開けるところだった……」

 血脈のような髪を色のない頬に張りつけ憔悴した様子でぶつぶつと呟き続ける。

「何年待ったと思っている。私がどれほどこの日を心待ちにしどれほど己を捧げてきたと思っている。それを……汚らわしい泉人の女ひとりに潰された…………」

 葛斎が傷ついた表情をしたのに何梅は、あなたのことではない、と首を振り、母に肩を貸して歩き始める。

「麅鴞……私の愛しい麅鴞が、私から離れてしまった…………」

「母上様、お気をしっかり」

「また失った。また独りになった。体に穴が空いたようだ。真っ暗で、冷たい、からからの風が通り抜けてゆく」

「私がおります」


 葛斎は後に続きながら痛む胸を押さえる。一回目の叩扉‪が失敗に終わって以来、十八年間も今日を待ち焦がれた可敦の悲痛はいかばかりか計り知れない。その原因の一端は葛斎にあるのだ。秘密裏の昇黎に気がつかなかった。もっと早くに知っていれば方策はいくらでも立てられたはずなのに。


 入内してこのかた、可敦には並々ならぬ恩義がある。一泉国は昔からずっと地盤がゆるく氾濫が絶えなかったが、その為に神域に分け入り妖土も探し出して与えてくれた。土が肥えたおかげで水害は目に見えて減り、国では主導した葛斎の手柄となって尊崇を集めることに成功した。

 泉民の葛斎を同じ志を持つ仲間だと受け入れてくれた。娘と同い歳の、ただの裕福なだけの小娘だった葛斎を信じ、希望を託してくれたのに。

 今回の失敗は明らかに人災だ。北郊壇は普段閉じられていて誰も用などないし近づくはずがないと高を括り監視を怠った。そのせいでみすみす王太子の侵入を――正確にはその血を水盤に献じることを許してしまった。到底寛恕かんじょはできかねる。







「蔚妃を泉太后せんたいごうには封ぜぬ」

 朝議の間、葛斎は昇黎を朝廷の承認のないまま行った罪過は重大として国母の幽閉を決めた。

「泉主はいまだ幼く万事を委ねるのは難しい。よって妾が摂政せっしょう位を兼務しおたすけ申し上げる。今までのように決議したあらゆる書文とかかわる報告はなべて妾へ上奏せよ」

「太子太傅の処分はいかがなさいます」

 葛斎はもはや慈悲を垂れなかった。

詔獄しょうごくにて訊問ののち、裂刑れつけいとする」

 言葉少なに逡巡の声があがったが揺らがなかった。世界を救う第一歩は紛うことなきその男が蔚妃を使嗾そそのかし落血の儀を行わせた、そのせいで失敗したのだ。憎き元凶だ。


 詔獄とは王または親しい身分の貴人が直々に指図し詔書を発布する投獄のことで、おもに高位官の罪人の扱いにおいて禁錮・保護を厳重にし他の虜囚と差別化する意図で用いられる。太子太傅は秩石ちっせき二千石、参政権はなく朝廷において影響力は小さいものの他の囚人と獄を並べていい身分ではなかった。


 太子太傅はけい氏といった。葛斎が下官の群れを率いて仰々しく引見すれば彼はかせを嵌められたまま出来うる限り頭を垂れた。

「己のしでかしたことが分かっているのか、恵氏。妾がこれほど虚仮こけにされて憤らぬほど鈍重軟弱に見えたか」

「…………いいえ、太后陛下…………」

 恵氏は伸び放題の髭に埋もれた口を小さく開いた。

「……なれど、王太子、いえ、新王陛下は齢十一。十分にご聡明であらせられ王の器にございます。昇黎を遅らせる理由もないと申し上げました」

「いいや。理由があるゆえ妾はこうしてしているのだ」

 大長秋の問うような視線に溜息を吐いた。

「おぬしは妾より長く宮に仕えておろうが。思い出してみよ。ここ二代、短命の泉主が続いた。その世代交代に共通して起きたことを」

「……姜湾様の御祖父君華海帝かかいていは享年三十。晩年は病で伏せっておられ、継嗣あとつぎ姜綉きょうしゅう様、つまりしん海帝が昇黎なされたその日に崩御なさいました」

 記憶を辿りながら大長秋は言い、しばらく考え悪寒に身震いした。

「……進海帝は即位二十五年の祝賀の日、嫡子の姜湾様に落血の儀を執り行わせられました。数日後、突然前触れなく息を引き取られた…………」

 まさか、と周囲は予想に怯えた。葛斎は頬杖をつく。

「今回も似ておるだろう。王太子が昇黎して間もなく、泉主が身罷みまかられた」

「よくよく考えれば……たしかに……」

「ゆえに妾はたとえ近年中に王太子の昇黎について議題が上がっても承認するつもりはなかった。前例が二つ、しかも立て続けに起きているゆえ、慎重に論議を重ねて決定しなければならぬ、と。それは蔚妃にも申し渡していたはずなのに」

「で、ではやはり王太子が昇黎なされたせいで泉主がお亡くなりになられた可能性があると」

 ざわつく官たちに無感動な瞳を向けながら内心後悔した。このことをもっと早くに周知させ圧力をかけておけばよかった。



 華海帝の崩御はまったくもって偶然だが、進海帝の死はもちろん違う。

 可敦が最初に得た九子で不徳門の開門を試みた。進海帝はその一度めの叩扉の時の泉主だ。失敗の代償に契りを失い、泉主は死んだ。


 泉主が存命する状態では絶対に内門は開かない。それが分かった可敦は二度めの叩扉を必ず成功させるために新たな麅鴞を下し、葛斎を引き入れ、手配をまわして入念に手間暇を掛けてきたのだ。

 罪なき犠牲は姜湾で最後になるはずだった。しかし最悪の形で覆された。可敦は再び麅鴞と断絶し、天門への介入は失敗に終わった。事態はなんら変わらずふりだしに戻ったのだ。



 眉間を揉む葛斎に恵氏はさらに頭を垂れた。

「法に背いた罰は受けます。しかし、どうか類縁にはお目こぼしを。太后陛下、どうか」

「おぬしひとりを見せしめにするだけで十分だと抜かすのか」

「恵家は古より一泉朝廷に仕えし由緒正しき家。崔家と同じく多くの者が仕官しております。一族郎党罰せられるのはあまりに無下なること。これからのまつりごとも滞ります。私はどうなっても構いません。しかしどうか、何も知らなかった者たちにはお慈悲を」

「…………妻子はその限りでない。官邸は取り上げ財産も接収する。身分を鑑み処刑は公開せぬゆえ、期日まで辞世の句でも考えろ」

 これは葛斎が下さねばならない命の選別だ。予後に憂いは残してはならない。私は誓ったのだ、と目を閉じた。大望のため、何梅のためになんだってすると。

 この身がどれほど血で汚れようと、もう構うものか。




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