二十七章
俺になにをした、とうわ言を繰り返していた父は遂に弱り果て永遠の眠りについた。
彼は――柳仙は気がついた。妻と娘が自分を排除しようとしていると。しかし、悟るにはすでに時遅く、起き上がれないほど衰弱した後だった。
間抜けだな、と可敦はたいそうせいせいしたのか悲しむ素振りも見せなかった。当然だ。十五で嫁いでからこのかた、夫の執着と
亡くなる間際、二人だけにしてくれと看護の下僕たちを遠ざけた。何を話したのかは分からないが、天幕から出てきた彼女はその後、
当主が
「ようやく前進だ」
「はい」
母は座り込んだ娘の顔を上げさせた。「元気がないな。やはり父を殺したことに咎めを感じているのか」
「咎め……いいえ。私、父上様が嫌いでしたから」
「だろう。ではなにが心に掛かっている?お前にはもう
何梅は秘密裏にすでに九子のうちのいくつか下しているわけで『選定』の間に新たに契りを結ばずともよくなっていた。一、二月ほど隠遁し、さも成功して帰ったかのように晴れて堂々と妖を披露目できるというわけだ。
しかし口を引き結んだまま、しばし考えるように目をどこかへ向けていた。
「言いなさい」
「……やはり、麅鴞を捕らえたいのです」
「今わざわざ危険を冒すことはない。たしかに私のものはいなくなり一泉に介入する
「八泉への降嫁……泉国にそんな取り決めがあったなんて全く知りませんでした」
「わりかし待ちぼうけを食らったが時節としてはちょうど良い頃合いでもある。お前が戴冠すればしばらくは一族も安泰だからな」
可敦は上機嫌だ。「死期を無理に早めても良かったのだが、刹瑪とて一人二人ではないからどこで疑念を抱かれるともしれなかった。しかし、しぶとい男だったな。ふつうあの状態で冬は越せないはずなのに」
やっと死んだ、と晴れ晴れと笑ってみせたが、なおも憮然としている娘のために切り替えた。
「それで?『選定』の間に麅鴞を下し、
「
「ああ、その通りだ。どこまで本当なのかは分からない。あの九泉主さえもな」
だったら、とさらに顔色を消した。
「やはりあの
「……その通りだ。だがたった一人しかいないのに無駄使いは出来んだろう」
「それはそうですが」
「まあ、行くと言うなら止めない。場所は都度変わるからお前の九子に頼れ」
まただ、と内心焦れる思いがある。母はこと楓氏に関してはなぜか一歩引く。苛烈で無慈悲で利用するものは全て利用する、その母が人ならざるかの少年にだけは配慮する。何梅はそのことに不満がある。なにを悠長なと不安がある。もうすぐ母は領地を離れ新たな地へ出向いてしまい、自分はたった一人で一族を纏め、さらには天命を遂行していかねばならないというのに、足踏みしている暇などあろうか。
試せるものは全て試さなければ、と訴えた。自分は九泉主と面識はあるが母のように溺愛されているわけではなく娘だからといってこの先ずっとこちらに協力的であるかは確証がない。なぜならあちらは紛うことなき泉人、本来は宿敵だ。
「お前は心配性だな」
頬を包まれ初めて眉根を寄せた。
「言いたいことはそれだけか?まだあるか?」
「…………ややこが気がかりです」
少し膨らみが目立ってきた腹に目を落とした。
「だからわざわざ戦うなと言うに。案ずるな、一度や二度流れたくらいで
「言えば旅に反対します」
くすりと笑った。「お前はたいそう好かれている。あれは柳仙とは違い好い男だ。少々凡庸だがな。……是非に息子が生まれてくれればいいのだが……」
腹を撫でてやりながら目を細める。何梅も自分に似て娘ばかりを産む。基本として女は戦士には数えないから、
「
何梅はようやく
この
もちろん、初めから自分と自分の家族たちだけが助かればいいという思いはあった。しかしよくよく考えればそれは難しい。なぜならこの世の神とは泉人の神であり、自分たちは疎外されつつも世界に取り込まれた泉外人。泉外人のことを救ってくれる神々はおらず、泰平の世は泉人の神より受け継ぎし血により保たれているのだから、彼らを
(そう、初めからそんなものはない)
あともう少しだった。希望は見えていた。たしかに不徳の門は
すべての天式を塗り替えた先、神は本当に実在しているのか、目覚めたのち寰宇がどうなるのかは実際のところ未知だ。とはいえ、泉人泉外人を選り分けて
(なぜなら我々はすでに血を
上古とはもう違うのだ。泉人と泉外人は殖え広がりまたは淘汰統合して二者の間の区別は非常に曖昧になっている。判別がはっきりできるのはただ王統と、
王が玉座に君臨するには必ず民が要る。尊崇を拝す者がいなければ信奉は有り得ない。
裸の王に存在意義はない。
神とてそれは同じだ。
信者を不要とするなら初めからこんな世を
この寰宇の神は神であって神ではないのだ。
九泉主は神とは全知全能であるから神なのだと言った。それが神の概念だ。しかしこの世の封神は――封神たちは違う。水と血により墓守を立てなければならないほど不完全だ。陵墓の内側で外からの攻撃に怯え弱り果てて寝こけている。
(では敵である我々が暴いてやろう)
引っ張り起こし、さっさと働けと尻を叩いてやろう。
無理やり寝所に立ち入った者を罰するか?しかし我々は殺すためではなく
隣人を誰にするかももう決まっている。本来、
今は理解されないのは仕方ない。だから公にはしないが、事が上手く進めばいずれにしても泉国の諸王の協力は不可欠なのだ。
それは現状、彼らの命でしか得られないわけだが。
何梅は誇らしい娘だが懸念はある。彼女には恐れが無さすぎる。失うものは何も無いと思っていて、言動は成長するにつれますます過激になっている。
父親を嫌悪するよう仕向け、自らの役割に忠実であるよう育てた。一族を纏め上げられる技能と器を持てるよう、幼い頃から手取り足取り教えた。天性の能力に磨きをかけ、そうした教育はたしかに何梅を抜きん出て優秀にしたものの、少し心配だった。期待に難なく
無敵は必ずしもすべてに強いわけではない。情に動じないと人心を掴みにくい。今は上辺だけでも皆を率いて守りたいという志が伝わっているからいいものの、対人への関心の無さがやがて臣下に不信を抱かせないか、離反を招かないか。または気がつかないうちに冷徹無比な行動へと至らないか。
謎めいた笑みは薄々己でも自覚があるからだ。しかし同時に武器にもしている。ある種、何梅は至極素直に成長した。
(紫水の地の彼を思い出す)
美しさが武器だと言いきった面影と娘は似ても似つかないが、どこまでも真っ直ぐに自分自身を肯定する純真さは羨ましいほど
しかし、何梅の持つ諸刃の武器は良くない。いつか己も傷つけることになる。
子を産み育て、当主になって守るものが増えればきっと悟ることが出来るだろうと、今はそう信じるしかない。
祝寿の実は誰にとってのそれなのか。
経典を記した古の父祖はなぜそれを知っていたのだろうか。ただの口伝を書き留めただけか、それか血を遡った遠い先人もまた天門についての真理を得たのだろうか。試してみたのだろうか。
しかし福をもたらしたのなら今この時代はこんなふうに歪んではいなかったのだ、と考えれば、ではかつての楓の実は
考えても分かりはしない問いだ。だからこそ、有るのなら使ってみればいいのにという思いは消えない。
おそらく使い物にはならないというのが九泉主の見解だそうだが、彼とて楓氏とまみえたのは初めてなのだから当然憶測による発言だ。
あの眼差し、と思い出して背筋が冷たくなる。同一人物でないかのように、母を愛でるそれと自分に向けるものは天地の差ほどの隔たりがあった。
九泉主は変人だ。彼はただ己にとって価値を見い出せる者のみを溺愛する。基準は明快で、物珍しい外見の人間。この世のほとんどの者と同じく黒髪黒目の自分は、たとえどれほど優れていて天の摂理を破る力を秘めていようと彼には無価値だ。母の娘だとしてもその態度は全くぶれなかった。天式を知る
(ただ赤毛というだけで)
自分にはない、ただそれだけでこれほどの差をつけられる。なんて不公平で不平等な世界。髪が赤いかそうでないかで命運は分かれ、差別され、優劣をつけられる。
(私は母上には負けていないのに)
むしろ
しかし、こと九泉主にだけは通じない。初めて会った時から手応えを感じられない。彼にはそんなことはどうでもいいからだ。視線はさらりと水のように流され、まるでこちらを庭に転がった石ころみたいに。それがあまりに無情で至極無垢で、どうしようもできない不条理に
だから私とて、
なぜ無理なのだろう、と『闇』から這い出して
恐怖のために踏み出せず失敗するのではない。あちらが求めるものを示せないのだ。あれはいったい何を欲しがっているのだろう、と消沈しながら悶々とした。母に訊いてみても感覚が異なるらしくそれはお前でしか分かりはしない、と言われた。麅鴞を二度も下した彼女はこちらの考えとは逆に、求められるのではなく自分が求めるのだと教えてくれたが参考にはならなかった。
――――所詮、私は持っていないほうのヒトか。
だから麅鴞の期待に応えられないということなのか。
何がしかの問題に対して打開策を練れないというのは初めての経験であり屈辱だった。これが一族のいざこざならば瞬時にどうすべきかを把握し実行し手立てを打てる。それが、通らない。必死に請うても命じても、『闇』はただただこちらを排除し食らおうと襲ってくる。対峙が、許されない。ということは己にはその資格がないと言われているのと同じだった。
「今は時ではないだけだわ」
焦らなければならないが、無謀に攻め続けるのは愚者の行いだ。己で下せないのならば解決策を探るのみ。母が旅立った後も、確実に麅鴞を手に入れる方法を模索し実行する。
もしかしたら、と腹に手を当てた。これがそれかもしれない。望みを賭ける価値はある。ならばここで流してしまうのはやはり惜しいか、と泥に足を取られてよろめきつつ立ち上がった。
元来、戦士になるのは男だけだ。その意識は深く、当たり前に根付いている。今回女の自分が『選定』へと赴くのを許可されたのは当主である父の死、大巫である母の強い影響力と後押し、あとは目ぼしい候補者が見当たらないという難題に長老たちが痺れを切らして折れただけのことだ。
鋼兼の女ならば泉人の男と同等の腕力や
もしも生まれくるこの子が男で次代の当主になるならば、一族の支持も輪をかけて揺るぎない。それなら、世界の摂理すべてを託すことも考えておかなくては、と思う。
母の言うとおり、人の生はあまりに短く儚い。己の道を定めた時にはすでに命の蠟燭は
「お前に背負えるかしら。祖母と母の、大地のように重いこの使命を」
語りかけたとき、わずかに動いた気がした。そんなはずはない。まだそこまで育っていないはず、と見下ろしていれば、揺れたのは己の
徐々に地鳴りが止んでいく。夜でもないのに空の一点に黒い光の
「……お前の行きたいところへ」
首を叩き、しっかり脚を挟んでみせると主の意を得て駆け出した。彼もまたこの香りに
高く跳躍を繰り返し、峰をいくつか越えてよりいっそう香りがきつくなる。目に見えるほど濃厚な重い薫香に頭痛がした。
かなり走って、豺は突然止まる。折り重なった岩壁と黒に近い紫の瘴気。どうやら神域近くまで来た。
亀裂は上へと続いているようで、豺を従えつつ湿った
目になにか刺さったのだと錯覚して顔を逸らした。こわごわと細く開く。見たことのある景色に茫然と顎を落とした。
一面の赤。
かつて十のとき、母からこの世の真理すべてを聞かされ、連れて行かれた幻の場所。その後独りで来ようとしても辿り着けず、どこにも無くなっていた夢の
「血楓林…………」
毒々しい赤い木の葉が音もなく降り落ちる。空は蒼く霧はひとかたまりも無く、しんとした森はただあの香りが漂って
ここまで来たなら、目指すは一点のみだった。
血の森林の中心には風景に紛れ山かと思うほど幹の太い巨木が一本。根は
幹は鋼鉄の黒。しかし表皮は
背後で音がしてはっと振り返れば、数等の妖が踊るように迫るのが見えた。
「――近づけてはだめ‼」
命じ、豺が群れを喚ぶ。低い咆哮が周囲に満ちる。全方位に気配がある。皆、この樹が出す香り目指してやってきたのだ。
話の通りだ、と息を整えて大木に向き直った。異様な佇まいの神木をためつすがめつ、ゆっくりと左回りに足を踏み出す。どこだ――どこに。
静粛の森は今や獣と妖が入り乱れ殺し合い共食いする狂乱の武闘場へと様変わりした。心配はない。下した九子はどんな妖より強い。とはいえ、早く見つけてここを離れなければ、と焦りと緊張でしらず垂れた汗を拭った。ようやくもといた正面から横に回り込めたとき、か細い呻きを聞いた。
空耳ではない。匂いに辟易しつつ、より不快なほうへと近づく。地から盛り上がった小山ほどの根を越え、さらに分け入る。
薄くめくれた何百という表皮が下に剥がれるにつれ輪をつくり巻物のようになっている。刃で斬りつけることも出来ない幹、なのに手を触れるといやに生
唾を飲み込んだ。いる。黒いなにかが木の皮からはみ出ている。
しかし目にした次には、
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