二十七章



 俺になにをした、とうわ言を繰り返していた父は遂に弱り果て永遠の眠りについた。ひつぎに横たえ色とりどりの宝飾品と紙幣しべいで埋めつくし、最後に、何梅は重ねた手の上に柳の若枝を置いた。白く変色した爪を見納め、無感動に離れる。蓋を閉めるよう言った。

 巫師ふしである刹瑪シャマは薬師も兼ねる一族の貴重な人員だ。当主が病に倒れたとなれば必然、治療は一任される。束ねるは大巫おおかんなぎで当主の妻でもある可敦なのだから病人を生かすも殺すもてのひらの上であるのは明白だった。

 彼は――柳仙は気がついた。妻と娘が自分を排除しようとしていると。しかし、悟るにはすでに時遅く、起き上がれないほど衰弱した後だった。

 間抜けだな、と可敦はたいそうせいせいしたのか悲しむ素振りも見せなかった。当然だ。十五で嫁いでからこのかた、夫の執着と悋気りんきは凄まじかったから。

 亡くなる間際、二人だけにしてくれと看護の下僕たちを遠ざけた。何を話したのかは分からないが、天幕から出てきた彼女はその後、嗢噱おおわらいしながら夫の持ち物を燃やしていた。



 当主が殂落そらくしたことでとうとう大人たいじんたちは渋っていた何梅の『選定』を承認した。高名な二人の長子といえ女で刹瑪が次代の王になる為の試練を受けるなど前代未聞だった。とはいえ、柳仙が床に臥してから幾人も旅に出たが帰って来ず、めぼしい継承者が他にいなかったことも彼らの決断を後押しした。主がおらねば領地の守護が危ない。空位の今、新当主の戴冠はなにより急務だった。



「ようやく前進だ」

「はい」

 母は座り込んだ娘の顔を上げさせた。「元気がないな。やはり父を殺したことに咎めを感じているのか」

「咎め……いいえ。私、父上様が嫌いでしたから」

「だろう。ではなにが心に掛かっている?お前にはもうサイハクがいる。憂うことなぞなにもない」


 何梅は秘密裏にすでに九子のうちのいくつか下しているわけで『選定』の間に新たに契りを結ばずともよくなっていた。一、二月ほど隠遁し、さも成功して帰ったかのように晴れて堂々と妖を披露目できるというわけだ。


 しかし口を引き結んだまま、しばし考えるように目をどこかへ向けていた。

「言いなさい」

「……やはり、麅鴞を捕らえたいのです」

「今わざわざ危険を冒すことはない。たしかに私のものはいなくなり一泉に介入するすべが現状無いのは事実だが、お前が死んでは元も子もない。焦っても仕方ない。それに私とて近々に八泉へ行かねばならない」

「八泉への降嫁……泉国にそんな取り決めがあったなんて全く知りませんでした」

「わりかし待ちぼうけを食らったが時節としてはちょうど良い頃合いでもある。お前が戴冠すればしばらくは一族も安泰だからな」

 可敦は上機嫌だ。「死期を無理に早めても良かったのだが、刹瑪とて一人二人ではないからどこで疑念を抱かれるともしれなかった。しかし、しぶとい男だったな。ふつうあの状態で冬は越せないはずなのに」

 やっと死んだ、と晴れ晴れと笑ってみせたが、なおも憮然としている娘のために切り替えた。

「それで?『選定』の間に麅鴞を下し、血楓林けっぷうりん楓氏ふうしを待つつもりか?やめておきなさい、どれほど待っても今はおそらく実らない」

九泉くせんに一人いるから、ですか。でもそれは単なる憶測でしかないと」

「ああ、その通りだ。どこまで本当なのかは分からない。あの九泉主さえもな」

 だったら、とさらに顔色を消した。

「やはりあの瑾孳きんじなる楓の仔を天門で使ってみるべきです。閽神かどもりのかみならば入れるはずです」

「……その通りだ。だがたった一人しかいないのに無駄使いは出来んだろう」

「それはそうですが」

「まあ、行くと言うなら止めない。場所は都度変わるからお前の九子に頼れ」


 まただ、と内心焦れる思いがある。母はこと楓氏に関してはなぜか一歩引く。苛烈で無慈悲で利用するものは全て利用する、その母が人ならざるかの少年にだけは配慮する。何梅はそのことに不満がある。なにを悠長なと不安がある。もうすぐ母は領地を離れ新たな地へ出向いてしまい、自分はたった一人で一族を纏め、さらには天命を遂行していかねばならないというのに、足踏みしている暇などあろうか。

 試せるものは全て試さなければ、と訴えた。自分は九泉主と面識はあるが母のように溺愛されているわけではなく娘だからといってこの先ずっとこちらに協力的であるかは確証がない。なぜならあちらは紛うことなき泉人、本来は宿敵だ。


「お前は心配性だな」

 頬を包まれ初めて眉根を寄せた。

「言いたいことはそれだけか?まだあるか?」

「…………ややこが気がかりです」

 少し膨らみが目立ってきた腹に目を落とした。

「だからわざわざ戦うなと言うに。案ずるな、一度や二度流れたくらいで鋼兼ハガネの女は死んだりしないさ。私も経験があるが不生女うまずめにもならなかった。婿むこどのは知らないのだろう?」

「言えば旅に反対します」

 くすりと笑った。「お前はたいそう好かれている。あれは柳仙とは違い好い男だ。少々凡庸だがな。……是非に息子が生まれてくれればいいのだが……」

 腹を撫でてやりながら目を細める。何梅も自分に似て娘ばかりを産む。基本として女は戦士には数えないから、八馗はっきが力を増すにはやはり男が欲しいところだ。

うらでは男だったのだから失うのはもったいない」

 何梅はようやく躊躇ためらいのにおいをさせる。そんな顔が出来るようになったかと微笑ましくなった。立派に人の親になったようだ。


 この寰宇ひとのよすくうには隣人愛は必須だといえる。九泉主は世界を滅ぼすのではなく救う為に力を使うならば真理を授くと約束し、言葉どおり与えた。まだなにか隠しているようではあるが、ともかくも泉地につけ入る方法は分かった。

 もちろん、初めから自分と自分の家族たちだけが助かればいいという思いはあった。しかしよくよく考えればそれは難しい。なぜならこの世の神とは泉人の神であり、自分たちは疎外されつつも世界に取り込まれた泉外人。泉外人のことを救ってくれる神々はおらず、泰平の世は泉人の神より受け継ぎし血により保たれているのだから、彼らをことごとく損ない封神ほうしんの蘇活を成功させたとして、その後さちあずかれる保証はどこにもない。


(そう、初めからそんなものはない)


 沙鍾すなどけいを故意に早めることは可能、と九泉主は認め、その方法を教えられた。もしかすると己たちが滅ぼされてしまうかもしれない危険を孕んでいるのに天式ちつじょに関しての知恵をかなり深いところまで明かした。その時点で虚偽は無いし、おそらく条件が揃えば天門は本当に動かせる。

 あともう少しだった。希望は見えていた。たしかに不徳の門はひらけそうだったのだ。今も逸る気持ちを抑えて期待に胸がいっぱいになったあの瞬間をありありと思い起こす。

 すべての天式を塗り替えた先、神は本当に実在しているのか、目覚めたのち寰宇がどうなるのかは実際のところ未知だ。とはいえ、泉人泉外人を選り分けて劃定かくていすることは不可能だろうと予測する。


(なぜなら我々はすでに血をじわらせてしまったからだ)


 上古とはもう違うのだ。泉人と泉外人は殖え広がりまたは淘汰統合して二者の間の区別は非常に曖昧になっている。判別がはっきりできるのはただ王統と、天祐てんゆうを持った者たちのみ。それでも断定は難しい。泉人の中には由歩ゆうほもいるし、もしかすれば泉人と交わっているものの天祐を持って生まれた人間もいるからだ。神が醒窹せいごしそういった個々を一絡ひとからげに背信なる不届き者共よと不要にするならば、星の数いる末裔たちはどれほど失われることか。それをあえて実行するだろうか。


 王が玉座に君臨するには必ず民が要る。尊崇を拝す者がいなければ信奉は有り得ない。

 裸の王に存在意義はない。

 神とてそれは同じだ。


 信者を不要とするなら初めからこんな世をつくったりしない。誰かからの認識も要らないならわざわざ己を守らせる対象を求めたりしない。


 この寰宇の神は神であって神ではないのだ。


 九泉主は神とは全知全能であるから神なのだと言った。それが神の概念だ。しかしこの世の封神は――封神たちは違う。水と血により墓守を立てなければならないほど不完全だ。陵墓の内側で外からの攻撃に怯え弱り果てて寝こけている。揺籃ゆりかごかなえがぐらついて壊れてさえ、いまだ目覚めの気配もない。


(では敵である我々が暴いてやろう)


 引っ張り起こし、さっさと働けと尻を叩いてやろう。

 無理やり寝所に立ち入った者を罰するか?しかし我々は殺すためではなく救恤きゅうじゅつを依頼するために扉を開けるのだ。迎えるのだ。むしろ褒美を与えなければ彼ら自身が定めた脆弱な天式と矛盾する。彼らは彼らを否定出来ない。自ら完全無欠の神とのたまうとはそういうことだ。


 隣人を誰にするかももう決まっている。本来、来迎らいごうに浴するべき神裔こはなは殺せない。が、彼らだけでは新しい世が来る前に滅んでしまいそうだ。だから力のない墓守に代わり力ある盗掘人は主の復活を促す救世者となる。皆を幸せにしてやろうとしているのだ。感謝されこそすれ、非難されるいわれなどない。

 今は理解されないのは仕方ない。だから公にはしないが、事が上手く進めばいずれにしても泉国の諸王のは不可欠なのだ。

 それは現状、彼らの命でしか得られないわけだが。



 何梅は誇らしい娘だが懸念はある。彼女には恐れが無さすぎる。失うものは何も無いと思っていて、言動は成長するにつれますます過激になっている。

 父親を嫌悪するよう仕向け、自らの役割に忠実であるよう育てた。一族を纏め上げられる技能と器を持てるよう、幼い頃から手取り足取り教えた。天性の能力に磨きをかけ、そうした教育はたしかに何梅を抜きん出て優秀にしたものの、少し心配だった。期待に難なくこたえる彼女は母親の自分から見ても化物だ。

 無敵は必ずしもすべてに強いわけではない。情に動じないと人心を掴みにくい。今は上辺だけでも皆を率いて守りたいという志が伝わっているからいいものの、対人への関心の無さがやがて臣下に不信を抱かせないか、離反を招かないか。または気がつかないうちに冷徹無比な行動へと至らないか。

 謎めいた笑みは薄々己でも自覚があるからだ。しかし同時に武器にもしている。ある種、何梅は至極素直に成長した。


(紫水の地の彼を思い出す)


 美しさが武器だと言いきった面影と娘は似ても似つかないが、どこまでも真っ直ぐに自分自身を肯定する純真さは羨ましいほどきよかった。


 しかし、何梅の持つ諸刃の武器は良くない。いつか己も傷つけることになる。

 子を産み育て、当主になって守るものが増えればきっと悟ることが出来るだろうと、今はそう信じるしかない。







 祝寿の実は誰にとってのそれなのか。

 佛朶フツダの神体、そのはこの中に入っていた経典は自分には半分も読めなかったが、母によれば楓氏とは禍福倚伏かふくいふくを併せ持つ蚩尤シユウ神の末裔だという。そう書いてあるということは自分たちヒトにとって必ずしも祝福をもたらすわけではないということだ。

 経典を記した古の父祖はなぜそれを知っていたのだろうか。ただの口伝を書き留めただけか、それか血を遡った遠い先人もまた天門についての真理を得たのだろうか。試してみたのだろうか。

 しかし福をもたらしたのなら今この時代はこんなふうに歪んではいなかったのだ、と考えれば、ではかつての楓の実はわざわいとなってしまったのか。

 考えても分かりはしない問いだ。だからこそ、有るのなら使ってみればいいのにという思いは消えない。

 おそらく使い物にはならないというのが九泉主の見解だそうだが、彼とて楓氏とまみえたのは初めてなのだから当然憶測による発言だ。


 あの眼差し、と思い出して背筋が冷たくなる。同一人物でないかのように、母を愛でるそれと自分に向けるものは天地の差ほどの隔たりがあった。

 九泉主は変人だ。彼はただ己にとって価値を見い出せる者のみを溺愛する。基準は明快で、物珍しい外見の人間。この世のほとんどの者と同じく黒髪黒目の自分は、たとえどれほど優れていて天の摂理を破る力を秘めていようと彼には無価値だ。母の娘だとしてもその態度は全くぶれなかった。天式を知る椒図しょうずつかさどる王はただ母のみを特別視していた。愛していたからこそ、立場は敵であるのにわざわざ手を差し伸べた。


(ただ赤毛というだけで)


 自分にはない、ただそれだけでこれほどの差をつけられる。なんて不公平で不平等な世界。髪が赤いかそうでないかで命運は分かれ、差別され、優劣をつけられる。


(私は母上には負けていないのに)


 むしろ鋼兼ハガネの能力は同列かそれ以上に卓越している自覚があった。五感は常に研ぎ澄まされており、鍛錬も勉学も怠らなかった分だけ結果が返ってきた。それが嬉しかったし、自信になった。事実、八馗じゅうに名声は轟き『選定』を受ける資格さえ得た。

 しかし、こと九泉主にだけは通じない。初めて会った時から手応えを感じられない。彼にはそんなことはどうでもいいからだ。視線はさらりと水のように流され、まるでこちらを庭に転がった石ころみたいに。それがあまりに無情で至極無垢で、どうしようもできない不条理にはらわたは煮えくり返り恨みが溜まった。絶対にいつか認めさせてやる、と殺意さえ沸いた。


 だから私とて、饕餮とうてつを、――麅鴞をなんとしても手に入れたいのに。


 なぜ無理なのだろう、と『闇』から這い出してうずくまり、両手に額を当て擦る。結界の中でも自我を保てるし己を見失わない、攻撃も出来るのになぜかあと一歩及ばす弾き出され、もしくは生命の危機を感じて逃れてしまう。

 恐怖のために踏み出せず失敗するのではない。あちらが求めるものを示せないのだ。あれはいったい何を欲しがっているのだろう、と消沈しながら悶々とした。母に訊いてみても感覚が異なるらしくそれはお前でしか分かりはしない、と言われた。麅鴞を二度も下した彼女はこちらの考えとは逆に、求められるのではなく自分が求めるのだと教えてくれたが参考にはならなかった。


 ――――所詮、私は持っていないほうのヒトか。


 だから麅鴞の期待に応えられないということなのか。

 何がしかの問題に対して打開策を練れないというのは初めての経験であり屈辱だった。これが一族のいざこざならば瞬時にどうすべきかを把握し実行し手立てを打てる。それが、通らない。必死に請うても命じても、『闇』はただただこちらを排除し食らおうと襲ってくる。対峙が、許されない。ということは己にはその資格がないと言われているのと同じだった。


「今は時ではないだけだわ」


 焦らなければならないが、無謀に攻め続けるのは愚者の行いだ。己で下せないのならば解決策を探るのみ。母が旅立った後も、確実に麅鴞を手に入れる方法を模索し実行する。

 もしかしたら、と腹に手を当てた。これがそれかもしれない。望みを賭ける価値はある。ならばここで流してしまうのはやはり惜しいか、と泥に足を取られてよろめきつつ立ち上がった。



 元来、戦士になるのは男だけだ。その意識は深く、当たり前に根付いている。今回女の自分が『選定』へと赴くのを許可されたのは当主である父の死、大巫である母の強い影響力と後押し、あとは目ぼしい候補者が見当たらないという難題に長老たちが痺れを切らして折れただけのことだ。

 鋼兼の女ならば泉人の男と同等の腕力や膂力りょりょくを有するが、鋼兼の男よりは繊細なつくりをしている。男たちは目に見える力に惹かれ、従う。女の自分が上に立つに劣るとは微塵も思わないが、それでも八馗史上初の例外であり皆の信奉はいまだ追いつかず、戴冠した後もどこか熱の欠けた空々しい気は拭えないのかもしれない。

 もしも生まれくるこの子が男で次代の当主になるならば、一族の支持も輪をかけて揺るぎない。それなら、世界の摂理すべてを託すことも考えておかなくては、と思う。


 母の言うとおり、人の生はあまりに短く儚い。己の道を定めた時にはすでに命の蠟燭は幾許いくばくもない高さになっていることもままある。一人の人が成し遂げられる大望には限度がある。血を繋ぎ次の継承者に想いを委ねねば、宿願は果たされないまま消えてしまう。それはだめだ。


「お前に背負えるかしら。祖母と母の、大地のように重いこの使命を」


 語りかけたとき、わずかに動いた気がした。そんなはずはない。まだそこまで育っていないはず、と見下ろしていれば、揺れたのは己のはらではなく立ちつくした地面だった。


 異邪じしんか、と大木の下に避難すると突き上げる震動は大きくなり、霧は乱れ鳥の群れは飛び立ち周囲は血色にかげった。なんということはない、いつものことだ、と揺れが収まるまでじっとしていると、ふいになにか、えも言われぬ甘い香りがした。



 徐々に地鳴りが止んでいく。夜でもないのに空の一点に黒い光の帷帳とばりが浮いた。それが薄らぐ頃には香りはますます強くなっており、鼻を覆いながら半双かたわれんだ。

 せ返る、胸の悪くなるほどの蜜香。嗅いだことのない、頭の芯がとろけるような、眠気を誘う。いったいどこから、とサイの背に跨る。豺もまた、いつもの落ち着きはどこへやら忙しなく尾を振っている。


「……お前の行きたいところへ」


 首を叩き、しっかり脚を挟んでみせると主の意を得て駆け出した。彼もまたこの香りにかれている。

 高く跳躍を繰り返し、峰をいくつか越えてよりいっそう香りがきつくなる。目に見えるほど濃厚な重い薫香に頭痛がした。

 かなり走って、豺は突然止まる。折り重なった岩壁と黒に近い紫の瘴気。どうやら神域近くまで来た。

 亀裂は上へと続いているようで、豺を従えつつ湿った隧道すいどうを登る。やはり甘い、変に生ぬるい風がゆっくりと吹き下ろし、うぶ毛を逆立てつつ、ついに道を抜けた――――。



 目になにか刺さったのだと錯覚して顔を逸らした。こわごわと細く開く。見たことのある景色に茫然と顎を落とした。



 一面の赤。



 かつて十のとき、母からこの世の真理すべてを聞かされ、連れて行かれた幻の場所。その後独りで来ようとしても辿り着けず、どこにも無くなっていた夢の斎庭ゆにわ。蚩尤の流れ出た血で染まった木々と大地、神人・九黎きゅうれい族がこの殻の世界に置いた秘密の菜園。



「血楓林…………」



 毒々しい赤い木の葉が音もなく降り落ちる。空は蒼く霧はひとかたまりも無く、しんとした森はただあの香りが漂ってこごしこっている。


 ここまで来たなら、目指すは一点のみだった。


 血の森林の中心には風景に紛れ山かと思うほど幹の太い巨木が一本。根はよじれてわだかまり、枝は大きく張り伸びる。赤い葉を繁らせ、枯れてもいない瑞々みずみずしいひとひらがまた舞い落ちた。

 幹は鋼鉄の黒。しかし表皮はおびただしく上からめくれて丸まり、内皮は鮮血の赤。濃い、甘いような苦いようなたとえようのない匂い。


 背後で音がしてはっと振り返れば、数等の妖が踊るように迫るのが見えた。


「――近づけてはだめ‼」


 命じ、豺が群れを喚ぶ。低い咆哮が周囲に満ちる。全方位に気配がある。皆、この樹が出す香り目指してやってきたのだ。

 話の通りだ、と息を整えて大木に向き直った。異様な佇まいの神木をためつすがめつ、ゆっくりと左回りに足を踏み出す。どこだ――どこに。


 静粛の森は今や獣と妖が入り乱れ殺し合い共食いする狂乱の武闘場へと様変わりした。心配はない。下した九子はどんな妖より強い。とはいえ、早く見つけてここを離れなければ、と焦りと緊張でしらず垂れた汗を拭った。ようやくもといた正面から横に回り込めたとき、か細い呻きを聞いた。


 空耳ではない。匂いに辟易しつつ、より不快なほうへと近づく。地から盛り上がった小山ほどの根を越え、さらに分け入る。

 薄くめくれた何百という表皮が下に剥がれるにつれ輪をつくり巻物のようになっている。刃で斬りつけることも出来ない幹、なのに手を触れるといやに生あたたかい。着実に声の発されるほうへ近づいており、ついに進んだ先で新しい生皮の塊を発見した。


 唾を飲み込んだ。いる。黒いなにかが木の皮からはみ出ている。


 しかし目にした次には、嚥下えんげした唾が逆流し胃酸と共に吐き出た。




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