二十八章



 最初、それは固まった汚物に見えた。もしくはき潰された畜牲けもの。血まみれで赤黒く腐った子牛。



 きたない、とえずいた。



 おぞましくけがらわしい。香りは根源に来て頭が割れるほど強烈になった。皮膚はおおよそ乾いておらず、ぬめって甘苦い悪臭を放つ。首と胴の境は判別できない。口も鼻も耳もない。臓物の混じった豬厠かわやの汚泥のようだった。だが、唯一生気を宿した目玉が四つ、瞼はなく眼睛ひとみはそれぞれがばらばらに顫動せんどうし、血の涙を流しながら、そのうちのひとつがたしかにこちらを捉えた。


 途端、ずるずると、玉嬰たけのこが剥けるように黒く腐ってほろほろと融けていく。震えを抑えながら凝視するあいだ、乾いた腐肉の中から人の赤子が姿を現した。外気に触れるやいなや産声をつんざく。再び大地が揺れた気がした。


 思わず後退りした。


 こんなもの、さいわいなわけがない。これはわざわいだ。紛うことなき悪の権化だ。


 殺さねば。本能としてただそれだけが頭に浮かんだ。


 しかし塊が赤子の姿に変容するやいなや、汚臭は瞬く間に薄らぎ、餌を狙う獣たちの攻撃が止む。喧噪は徐々に収まり再び当初の静寂を取り戻していく。相反して目の前の嬰児の痛ましい声は急き立てるように喚き続けた。取りあげることをためらい、ためらい、どうすべきか睨んでいると下僕が帰ってきて長い鱗尾で背を叩いてくる。

「お前も私に、これを拾えと?」

 その為に敵を蹴散らしたのだぞと言わんばかりにすがめた金の瞳孔がわずかに大きくなった。さらに鼻面を腕に押しつける。

「わ……わかった」

 震えが止まらないまま手を伸ばす。朽ちた肉片はいまや巨木の幹と同じただの樹皮に変じており、かさかさと音を立てて崩れた。

 裸んぼうの赤子は一見人の子と何も違わない。ただ、へその緒は付いていなかった。


「これが……雄常樹ゆうじょうじゅの、禍福倚伏かふくいふくの実…………」


 男児は抱かれてすぐに泣き止む。目は二つ、眠そうに何度か瞬き、時おり唇が動く。察してかぶりを振った。

「む、無理。私には。今は出ないし、無理よ。不可能だわ」

 これほど何かを出来ないと拒否したことは無かったかもしれない。赤子は当然のごとく乳を求めている。冗談ではない。怪物に自らのものを吸わせるなど絶対にあってはならない。

 とにかく、とにかくだ。

「今すぐ龍脈りゅうみゃくに乗って帰りましょう」


 急いで赤の森を後にした。やってきた亀裂を下り、岩棚に戻る。空の幻光は消え失せいつもの紫の霧の向こうに灰色の紗幕が霞む景色が広がっていた。

 サイは低く身を屈める。跨り、拾った赤子を襟内に仕舞う。

 いまだ状況に実感が持てないまま、一目散に領地へ、母のもとへと駆け戻った。





 素晴らしい、と可敦は瞳を潤ませた。

「よくやった、何梅。本当に、よく見つけた」

 天命に導かれたのだ、と珍しくすすんで守護神仙に心からの頌詞ほめうたを捧げ、恭しく抹香まっこうを焚いた。


 見つけた時のあらましを聞き、腕を組む。

「九泉主の説明と矛盾はしないな。やはり最初に見たもののかたちをとるのか」

 赤子は山羊の乳を与えるとすぐに眠ってしまった。母は愛おしげに指で頬を撫でる。

「何梅。この子は我々の希望だ。そして手札だ」

「手札?」

「九泉主には言うな。葛斎にも釘を刺しておけ。生粋の楓氏ふうしはあちらにではなく我々に与えられたのだ。この瑞祥きせきを最大限有効に使うのだ」

 可敦はおごそかに頷く。

いわいとして慈しめ。のろいにしてはならぬ。三度めの開門のその時までとっておけ」

 何梅は唇を引き結び、それから俯いた。

「しかし、九泉主に内密にするのですか」

「お前にこの子が与えられたということはおそらく九泉にいる楓氏は死んだのかもしれない。そうなれば調べ足りない九泉主はまた雄常樹へと赴き観察を続けようとするやも。あいつが気取けどると開門に関しての理解が狭められる。我々はまた泉主を殺さねばならない」

「いけないのですか」

「泉人の反感を買い、いらぬ摩擦を生むようなことはなるべく避けるべきだとは思わないのか」

 何梅は少し黙り、それから同じように赤子を見やった。

「……いずれにしてもこの大業は露見することかと」

「楓氏は閽神かどもりのかみだ。必ずや天門に干渉できる力がある。つまずいているのはそのやり方だ」

 だがもし失敗したとしても、また新たに雄常から生まれるのではないのか、と怪訝になったが母は娘の思いを見越していた。

「今回は与えられた。しかし次回もそう都合よく我々の腕の中に落ちてくるとは限らない」


 血楓林けっぷうりんの出現場所は特定出来ない。出来たとして、楓氏の降誕に間に合うかも分からない。あの強烈な匂いにきつけられる未曾有の妖獣を排除しつつ、最初に取り上げなければならないのは厳しすぎる。何梅はまさに絶好の間合いで楓氏を手に入れたのだ。


「ですが、現時点で徳門とくもんを秘密裏になおかつ犠牲を出さずして閉める方法はありません。可能性としては鎖扃さけいの力を持つ椒図しょうずの力くらいしかない。九泉主の助力は不可欠です」

「それでも、今はまだ黙っておけ。とにかくこの子を育て上げる。次に生まれるお前の子の乳兄弟として、一族の男として育てるのだ」

 しかし無表情に黙り返事をしないのに眉をひそめた。

「何梅。それほど怖かったか」

「……私に怖いものなどありません。ただ、これは大凶だと感じました。ありえないほど禍々まがまがしく醜い鬼です。世に出してはならない悪神なのではと危惧します」

 この人まがいの赤子は悪夢そのもののような姿で呻いていた。まだ背筋が強ばって冷えているくらいだ。

 可敦は何梅の肩を抱いた。「落ち着け。たしかにこれは人ではなく、妖の類かもしれない。だが九子と同じく救恤すくいに関わる一糸であることには間違いない」

「九泉の瑾孳きんじなる楓氏も人心を惑わし宮を頽廃たいはいさせたと仰っていたではないですか」

「美しすぎるだけだ。中身は人と変わらない。まわりと同じように育てればいいだけだ。己の役割を叩き込みつつ、お前に忠心を持てるよう誇り高き戦士にするのだ」

「一族にとっては少しの波でも致命傷になります。これはきっと、必ず嵐を呼びます」

 今までになく頑なな何梅に可敦は顔を険しくする。「お前は楓氏を使うことに反対だと?」

「むしろ反対しているのは母上様ですわ。いつまでも大事にとっておいたとて無駄飯を食うだけ」

「これは何も食わなくても生きられる」

「比喩です。ただの拾い子なら私もなんらこだわりはありませんわ。でもこれが一族すべてを掻き回すのは必定。三度みたびの叩扉が定まらない今、使えそうなものは何でも使ってみるべきです」

 可能性をすべからく検証していくべきだ、と何梅は訴えた。たしかに間違っていない。しかしそれでも母は首を振った。

「性急だ。これは稀少で貴重だとお前も分かっているだろう?それに私もまだ時が欲しい。もし今、いて寰宇かんうの均衡をいちじるしく崩し、取り返しのつかないまでに失敗すればどうする。みすみす九泉主の思惑通りに掌の上で踊る羽目になるんだぞ。あの男に這いつくばって謝り、なんとかしてくれと頼み込むなんて私はごめんだからな。それならば、この子にものの道理を教え、自身の運命さだめを悟らせてやるまで待っても良い」

 乞わずとも母の頼みなら九泉主はすすんで聞こうとするではないか、と内心苦々しく舌打ちした。

「口が利ければ人と変わらないというのですか。化物の饕餮や椒図だって言葉を操ります。私は……どうしても、自分の子と同じようには思えません」

「思わずともいい。しかし限りなく人に近いものだ。辛く当たれば歪み、のろいが生まれる。上辺だけでもいい。何梅、お前は新たな我々の王だ。当主としてこの子を庇護してくれ。安易に失わせないでくれ」

 懇願されて渋々、無言のうべないを返した。可敦はその頭を撫でる。

「今までのようにずっとお前の傍にいて、これからも力になってやりたいがそれはかなわぬ。だからこそ、お前の新たな支えにもなれるこの子を託すぞ。ときの許すうちは私も天地の摂理を授けよう」





 異形の孺嬰ちのみごは連れ帰って二日で首がわり、七日めには自分で這い進むまでになった。半月で泣いて何かを訴えることがなくなり、こちらの言うことを理解している素振りを見せた。そしてこの時点ですでに信じられないくらい美しいたまの男児だと騒がれはじめた。


 何梅はすぐに戴冠して新当主となり、大会議にて遠征を立案した。目的は一泉国に水と石の同盟を結ばせるための最後の掠奪だ。しかし本懐は、何梅の統治の正当性を八馗はっき家じゅうの戦士たちに知らしめ権威と力を強めるためだと可敦は言った。すでに一泉泉太后せんたいごうの葛斎とは暗々裡に示し合わせており、大遠征といっても泉人への被害は最小限に形だけのものにするつもりだった。


 しかし八馗の男たちは久方ぶりの狩りに歯止めがきかなくなり、狩場は甚大な規模に及んだ。それでも何梅は彼らを頭ごなしに叱責はせず、むしろ褒めた。手綱を巧くさばけなかったのは自分にも責任があったからだ。新当主に懐疑的だった男たちも思う存分力を発揮できたことで、自由にさせてくれる主を女だてらに肝が太いと気に入った。ともかく支持は獲得した。加えて、この一連の示威行動により泉国との同盟というかつてない偉業は作為的にではあったが成し遂げられたのだ。





 遠征が完了した時点で何梅は臨月を迎え、大きな腹の上にさらに楓氏の赤子を抱え同盟調印式へと出向いた。そして久しぶりに葛斎と再会した。


「何梅……元気そうだ」

「あなたは貫禄が出たわ」


 表向き初対面の体で式を終え、葛斎の自宮で人払いした後にやっと互いに肩の力を抜いた。

「母上様はご息災か」

「ええ、変わりなく。もうすぐ『死ぬ』予定よ。やっと出発点ね」

 そうか、と葛斎は頷き、寝かせた赤子を覗き込んだ。大きな黒い瞳でじっと見つめてくる。

「これがくだんの楓氏か。……なんと美しい……。これで門を閉じられると?」

「まだ可能性でしかないわ。どこまで成長するのかも未知。でもせめて意思疎通が出来るくらいまでには育てろと言われたわ」

「きみが手ずから?」

「余計な真似はしないよう目の届くところへ置いておかないと。私の子の相手をしてもらう」

 腹を撫でる。おそらく初めての息子だと確信していた。

「うまく育ってくれるだろうか」

「毒となるものを与えなければ、おそらくは」


 しばらく二人、無言で茶を飲んだ。


「……今まで、とてつもなく長かった」

 葛斎がぽつりと言い、何梅も相槌をうったが、「でもこれからよ」と気を引き締めた。

「私は肝心の麅鴞をまだ下せていないし、母上様も八泉での新たな使命が待っている。まだ何も結果を残せていないわ」

「私は待つことしか出来ない」

「いいえ、あなたのおかげで様々なことが円滑になった。ふつうは何世代もかかることを母上様と私はたった二十年余で駆け抜けた。あなたがいたから難なく一泉の天門へと昇れた。ありがとう、葛斎。あなたの労苦には必ずや私がむくいてみせるわ」

 言うと葛斎はただ俯いた。一番直接的に身を切る思いをしているのは彼女だ。夫の抹殺を許容し同国民を裏切っているという事実は耐え難い重石のはずだ。それを今なお背負って何梅たちが約束を果たすのを待っているのだ。

「私は、きみを信じると決めたんだ。あと何十年だって忍んでみせるさ」

 手を握り合い、堅く頷く。そうしたところで赤子が唸った。葛斎は微笑む。

「この小さな子が我々の希望か。大いに期待させてもらおう。……頼んだぞ」

 呼びかければ欠伸あくびした。何梅は、いずれは、と葛斎を見据える。

「これを使う時が来たらあなたに任せるかもしれない」

「どういうことだ?」

「私は天門についての詳細を言い聞かせながら飼うつもりはないの。人でないことはいずれ本人も把握するでしょうけれど」

「天命を隠す、と?」

「ええ。母上様には私の子と同じように育てるよう言われた。なら、一族の男として分け隔てなく扱う。その上でどんな者になるのかを試したい。望みを託せもしないような痴鈍ぐずで馬鹿で人を惑わすだけが取り柄の男になったら使う前に私が殺すわ」

 強い言葉にたじろぐ友に続けた。

「はっきり言って私はこれが嫌いだわ。使えるのか使えないのか、早く確認してしまいたい。むしろ何も知らせずただの人偶にんぎょうとして扱っても良いのではというくらいに愛着が持てないの。だからその時が来たのならすべてあなたの好きにしてくれていい」

 それほどまで忌まわしく思っているのか、と再び美しい赤子を見下ろした。

「……分かった。何梅、大丈夫だ。時が満ちれば我々のために是非に働いてもらおう。その為に与えられたいわいの実なのだから」


 手に入ったこと自体が奇跡に違いないのだから、この子はどんな育ち方をしてもいずれ天命をる。来たるべき我々の幸福へ貢献するにえとして自らの運命を受け容れるはずだ。それこそが彼の存在意義だからだ。

 絶対にありえないことがありえた。見えないなにか――それは神かもしれないしそうでないかもしれないが、確実に導かれていると感じた。同盟は達成され楓氏さえもたらされた今、いったい何を危懼きくする。


 奇跡的に幸運な滑り出しに少なからず浮かれ、葛斎には珍しく楽観して廓然大悟はれやかな笑顔で頷いた。




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